第2話 それは作者の都合なの♡
曲がり角を曲がったところで、私はようやく足を緩めた。さっきまで自然と早まっていた歩幅が、意識しなくても元に戻っていく。
背中に感じていた視線の圧が薄れていくのを、肌で確かめるように息を整える。あの勢いで視界から完全に消えてしまえば、さすがに追ってくることもないだろう。
「先ほどは助けてくれて、ありがとうございました。さすがにしつこいなって困ってたので、助かりました」
「どういたしまして。いきなり連れて行かれるから、ビックリしたよ」
「すいません、ああやって逃げた方が手っ取り早いかなって」
振り返りながら口にした言葉は、思っていたよりも落ち着いていた。
胸の奥ではまだ心臓が少し速いリズムを刻んでいるけれど、それを悟られない程度には平静を装えているはずだ。
その子は少しだけ目を丸くしたまま、でも困ったように笑ってそう返してくる。
責めるでもなく、驚きをそのまま言葉にしただけの、軽い調子。その軽さに少しだけ心が救われる。
改めて、その子に向き直り、口元をやわらかく緩めて微笑んだあと、軽く頭を下げる。形式ばった礼ではなく、ちゃんと気持ちを伝えるための仕草として。
彼女の表情には、まだほんの少しだけ戸惑いが残っている。でも、それ以上深く踏み込んでくることはなく、特に気にした様子も見せずに、その空気ごと受け流すように立っている。
余計な同情も、詮索もない。その爽やかさが、不思議と心地いい。
男の方にも、一言だけ「ありがと」と軽く承認を入れておいた。あそこまでやればこれ以上しつこく食い下がってくることはないだろう。
男という生き物は、可愛い女の子から向けられる承認に驚くほど弱い。チャンスだと分かれば、手応えもないのに必死で噛みつこうとするくせに、同時に、自分の浅いプライドが傷付けられる気配にはやけに敏感だ。
今回はもうチャンスがないことも伝えたし、それでも一応「ありがとう」という形で対価も渡した。
労力に見合うだけの承認さえ与えてしまえば、案外あっさり引き下がってくれる。その読み通り、男が追いかけて来る気配はない。
「本当にお礼したいんで、一緒にどうです? 私、奢りますよ?」
「いいよ、奢りなんて。そういうオシャレなお店とかも柄じゃないし」
「そんなの気にしないで下さい。ちゃんとお礼しなくちゃ、私の気が収まらないので」
「ならお言葉に甘えようかな」
「やった。ありがとうございます」
改めて隣の彼女に向き直ってそう言うと、彼女は少し意外そうな顔をする。
遠慮というより、照れに近い拒否。そういうところも、この子らしい。
少しだけ強めに言うと、彼女は一瞬迷ったあと、小さく息を吐いて笑った。
思わず声が弾む。断られなかったことが、単純に嬉しかった。
お店の前まで来て、私は立ち止まり、ガラス越しの店内を指差す。大きな窓と扉から見える中は、満席というほどではないけれど、そこそこ人が入っている。
木目を基調にした内装に、やわらかい照明。壁際の装飾や吊り下げられたランプが、いかにも女の子向けのお店、という空気を作っていて、それだけで少し気分が浮き立つ。
扉を開けると、ベルの軽い音が鳴り、甘い香りがふわりと鼻をくすぐった。店員さんに二人だと告げると、窓際のテーブル席へ案内される。先に奥の椅子を引いて、彼女を先に促す。
彼女は周囲を一度見回してから席に収まるも、やはりどこか落ち着かない。
私も向かいの席に腰を下ろすと、背もたれの感触が思ったより柔らかくて、ようやく肩の力が抜けた気がした。
さっきまでの路上とは違う、少しだけ静かな空間。テーブルを挟んで向き合う距離が、さっきよりも近く感じられて、胸の奥が小さくざわついた。
「改めまして、白鳥沙織って言います」
「知ってるよ。隣の学校の同学に凄く綺麗な女の子がいるって有名だから」
「そうなの? てかタメなら早く言ってよ! てっきり先輩なのかと」
「あはは、ごめんごめん。アタシは早川遠子。ヨロシク」
「遠子ちゃんだね、よろしく。響きが良くて、良い名前」
少し背筋を伸ばして名乗ると、向かいに座った彼女は一拍置いてから、いたずらっぽく口元を緩めた。
思わず声が大きくなる。年上だと思っていた相手が同い年だと分かった途端、急に距離が縮まった気がして、胸の奥がふっと軽くなる。
そう言うと、遠子ちゃんは一瞬だけ目を丸くして、それから照れたように視線を逸らした。その反応が可笑しくて、でも可愛くて、私は自分の頬が緩むのを自覚する。
テーブルに置かれたメニューの冊子を、それぞれ手に取る。紙をめくるたびに、甘い写真と文字が視界に飛び込んできて、自然と気分が高揚していく。
ふわふわ、濃厚、期間限定、そんな言葉が並ぶページを行ったり来たりしながら、私は王道のパンケーキに目を留める。
遠子は少し悩んだあと、同じページを指で叩いて頷いた。
店員さんを呼んで、二人分のパンケーキとコーヒーを注文する。カップの種類を聞かれて、私は砂糖とミルクを少なめに、遠子はブラックを選んだ。その違いすら、妙に印象に残る。
「ところで、なんで私のこと助けてくれたの?」
「なんでって?」
「そりゃ、別に見て見ぬふりしても良かったわけでしょ、遠子的には?」
「助けて欲しそうな人がいた。だから助けた。それ以外に人を助ける理由ってないでしょ?」
注文が通って、少し間ができたところで、ずっと引っかかっていた疑問を口にする。
遠子は特に深く考える様子もなく、首を傾げた。
その動きに合わせて、耳元までの短い髪がふわりと揺れる。照明を反射して、遠子の瞳がきらきらと乱反射するのが見えた。
何の気負いもない言葉なのに、その視線は真っ直ぐで、芯があって、それでいてどこか柔らかい。格好良いのに、可愛い。
そんな矛盾した印象が一瞬で重なって、私は思わず見惚れてしまう。
優しい人って、きっとこういう人のことを言うんだと思う。
声高に正義を叫ぶわけでもなく、見返りを求めるでもなく、ただ「困っている」という気配を見逃さない人。
この世界には困っている人がたくさんいる。それは、遥か世界の向こう側で起きている大きな悲劇だったり、すぐ隣に座っている誰かの小さな沈黙だったりする。理由も重さも様々なのに、ほとんどの場合、誰にも気付かれないまま通り過ぎていく。
みんな、自分のことで手一杯だ。明日のこと、成績のこと、将来の不安。誰かを助ける余裕なんてなくて、結局は自分の足元だけを見つめて生きている。
私を助けて、私を見つけてって、必死に手を伸ばしている人たちの姿は、痛々しいほど切実なのに、少し離れた場所から見ると、どこか滑稽で、愚かにさえ映ってしまうことがある。
その残酷さを、私は知っている。
ナンパされていた私も、きっと同じだった。ただ視線を逸らして、男を無視して、適当にあしらうなり、走って逃げるなりすればよかった。
それだけの話なのに、私はしなかった。男に構う価値なんてない、そう思うことでしか自分を保てなくて、怒りと嫌悪を飲み込みながら、ただ必死に耐えていた。
助けてなんて言葉は喉まで来ていたのに、声にすることもできずに。
そんな私を見つけてくれる人がいる。困っている気配を、ちゃんと探して、拾い上げてくれる優しい人がいる。
その事実に気付いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んで、それからゆっくりとほどけていった。
息を吸うと、空気がいつもより温かく感じられて、冷えていた指先にじんわりと血が戻ってくるのが分かる。
心臓の音が少しだけ大きくなって、でも不思議と苦しくはなくて、むしろ落ち着いていく。
まるで、暗闇の中から光がそっと手を伸ばしてくれたみたいだった。
強く引き上げるわけでもなく、ただ「ここにいるよ」と示してくれる、その距離感。
その温度に触れた瞬間、肩に入っていた力が抜けて、背中を覆っていた冷たい膜が剥がれ落ちるような感覚がした。
ああ、この世界は、全部が冷たくて残酷なわけじゃない。
そう思えたことで、胸の奥に小さな熱が灯る♡
その熱はじわじわと広がって、身体の芯を静かに温め続ける♡
人を助けるのって、きっと思っているよりずっと難しい。
これは余計なお世話じゃないのかな、この手を伸ばしたことで相手の何かを壊してしまったらどうしよう、もしかしてこれは相手のためじゃなくて、自分が良い気分になりたいだけなんじゃないか。
そんな疑念が、助けようとするたびに必ず顔を出す。自己欺瞞と自己満足は、いつも隣り合わせで、どちらが本音なのかなんて簡単には切り分けられない。
それでも、確かにいる。助けた瞬間、少しだけ肩の力が抜けたような顔をしてくれる人。安心したように息を吐いて、ありがとうと笑ってくれる人。
その表情を見るたびに、正しかったのか間違っていたのか分からないまま、胸の奥がじんわりと熱くなる。
その温度を信じていいのかどうか分からなくて、結局、人を助けるって行為は、その曖昧さの狭間で揺れ続けるしかないのかもしれないって思う。
感謝の言葉は、霞みたいなものだ。受け取った瞬間は確かにそこにあるのに、時間が経てば輪郭は薄れて、やがて消えてしまう。
でも、不思議なことに、そのときに生まれた想いだけは、心の奥に静かに沈んで残り続ける。
感謝した方もされた方も、互いに形も名前もないまま、確かにそこに在り続ける。
私は、遠子ちゃんがこれまでに助けてきた人たちのことを何も知らない。遠子ちゃん自身のことだって、まだ何も知らないと言っていい。
それでも、あの瞬間に私を見つけてくれたという事実だけは、何があっても変わらない。
大勢の中の一人として流されることもできた私を、ちゃんと「困っている誰か」として拾い上げてくれた。その事実だけは、消えようがない。
だから、この想いは消えないし、消してなんかあげない。薄れていく言葉とは違って、これは私の中に根を張ったものだから。
それはきっと、私だけじゃない。他の人たちも同じだ。遠子ちゃんの何気ない優しさに触れて、その距離感に救われて、その無意識の格好良さに惹かれてしまう。
可愛いだけじゃなくて、強くて、迷いながらも前に進むその姿に、知らないうちに心を預けてしまう。
遠子ちゃんは、そういう光なのだと思う。強く照らしつけるわけでも、誰かを選別するわけでもなく、ただそこに在って、気付いた人の足元を静かに照らす光。
だからこそ、多くの人が惹きつけられてしまうし、一度触れてしまったら、簡単には忘れられはしない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます