第3話 記録を消した者たち

 葛西の夜は、静かだった。


 昭和の頃の葛西といえば、終電を逃したサラリーマンが缶ビールを片手にタクシーを待ち、赤提灯の下で誰かと肩を並べて愚痴をこぼす――そんな、泥臭くも人情味のある町だった。

駅前には飲み屋の灯りが点々と連なり、酔いどれの笑い声が、どこか寂しげに夜空へ溶けていった。


 だが、今は違う。

駅前だけが不自然なほど明るく、整備されすぎたロータリーは周囲から浮き上がって見える。葛西臨海公園では、夜になっても観覧車が青白い光を放っているが、ひとたび住宅地へ足を踏み入れれば、そこはまるで時間が止まったかのような沈黙に包まれていた。

音を立てるのは、古い塀の隙間をすり抜ける風だけだ。


 その夜、佐久間は久しぶりに自宅マンションの屋上へ向かおうとしていた。

築五十年を超える団地型アパート。室内は幾度か改修されているが、建物の骨格は、若い頃から何ひとつ変わっていない。


 部屋の片隅には、無骨な黒いアマチュア無線機が置かれていた。

使われなくなって久しいはずなのに、コードの癖やダイヤルの位置だけは、身体がまだ覚えている。


 佐久間は棚の奥から、スカイセンサー5900を取り出し、その横にそっと置いた。

昭和の名機。

学生時代、バイト代を何か月も貯めて手に入れた、かけがえのない宝物だった。

指で軽く叩き、埃を払い電源を入れる。


 ――ジリ……。


 懐かしいホワイトノイズが、部屋の空気に静かに広がる。

かすかな鼓動のようなパルス。

誰かが呼吸しているかのような、不規則な間隔。

そのリズムは――まだ、生きている。

佐久間は受信機を抱え、ゆっくりと屋上へ向かった。


 階段を上り、鉄扉を開けた瞬間、潮の匂いを含んだ夜風が頬を撫でる。

ひび割れたコンクリートの上には、若い頃、自分の手で組み上げたロッドアンテナが立っていた。傾いた物干し竿の脇で、今も孤独に空を仰いでいる。


 遠くを走る首都高の低い走行音。

街灯の届かない路地から聞こえてくる、猫の鳴き声。


 鳥井の言葉が、ふと脳裏によみがえった。

《記録は消えても、人間の記憶までは消せねえ》



 翌日。曇天の木場。

佐久間は錆びた自転車を漕ぎ、旧倉庫街へ向かっていた。かつて物流の拠点だったこの一帯には、時代に取り残された工房や小さな印刷会社が、今も点々と残っている。

その一角に、「HONJO WORKS」と小さく書かれた看板を掲げる平屋があった。


「……ああ、佐久間さん? お久しぶりです」

出迎えたのは、本庄優作(ほんじょう ゆうさく)だった。白髪混じりのポニーテールを後ろで束ね、作業用エプロンを身につけている。時代錯誤な技術屋――だが、その頑固さこそが、彼の信頼の証だった。

「本庄……まだ続けてるのか」

「身体が動く限りはね。――で、佐久間さんが来るってことは……まさか、URAYASU-83の件?」

佐久間がうなずくと、本庄は作業台の下から缶コーヒーを二本取り出し、一本を放ってよこした。

「清さんから昨日聞いたが、本当なのか?」

「ああ。URAYASU-83の通信が、復活している」

「……マジで?」

「しかも、改良されている。パルスの間隔が、以前と違う」

佐久間の眉がわずかに動く。

「つまり、誰かが……中身をいじっている」

その瞬間、本庄の手が止まった。

作業台に散らばる古い基板が、一斉に意味を失ったかのように見える。

「再起動……いや、違うな。勝手に動いているように見せかけている」

「意思を持ったみたいに、か」

「三十年前に強制終了したシステムが、自力で立ち上がった……そんな感じだ」


 沈黙。


「……目的は何だ?」

本庄が息を呑んだ、その瞬間。

佐久間のスマートフォンが震えた。


 見覚えのない通知。

 発信者名は――《NO-CARRIER》。


 音声はなく、画面に文字だけが浮かび上がる。


 URAYASU-83 v2.1 SIGNAL DETECTED

 LOCATION: KASAI COASTAL BLOCK 03


「……葛西だ。海側。臨海公園の裏手だな」

本庄の目が見開かれる。

「あそこは……旧送信拠点の跡地だろ? 今は埋め立てられているはずだが……」

「埋められたのは、施設だけじゃねえ」

佐久間はスカイセンサーをバッグに詰め、静かに立ち上がった。

「真実も、だ」

低く言い切る。

「行くぞ、本庄。俺たちが関わったことは、俺たちでケリをつける」

本庄はしばらく黙っていたが、やがて深くうなずいた。

「……わかった。俺も、この目で確かめたい」


 倉庫街に差し込む西日が、屋根を赤く染めていく。

葛西臨海公園へ向かう道は、夕暮れとともに人影がまばらになっていった。ランナーの姿はあるものの、海沿いの風は冬の気配を帯び、身体の芯まで冷やしてくる。観覧車の影が、夕陽を浴びて、巨大な亡霊のように揺れていた。


 二人は自転車を押しながら、海岸沿いのフェンスに沿って歩く。足元には伸び放題の雑草と、錆びたパイプ片。整備された公園とは、まるで別世界だった。

「……ここか?」

「いや、もう少し先だ。旧ブロックのはずだ」

佐久間はスカイセンサーのメーターを覗き込む。

「……パルスが強くなっている。間違いない」

二人は立入禁止区画へ回り込んだ。

警告看板は色褪せ、文字はほとんど読めない。潮風に晒された金網は、もはや役目を果たしていなかった。


 その奥――

かつてURAYASU-83の送信アンテナが設置されていた「区画03」。

佐久間はフェンスの隙間を押し広げ、身を滑り込ませる。本庄も、慣れた動作で続いた。


 海の匂いが、さらに濃くなる。

 波の音が、ここだけやけに生々しく響いていた。


「……佐久間さん、あれあれ!」

本庄が指差す。

土が盛り上がり、内側から突き破られたように割れている。その裂け目から覗いていたのは、朽ちた金属のフレームだった。

「旧アンテナの支柱か?」

「違う。材質が新しすぎる。……最近、誰かが入ったんだ」

二人は、無言で顔を見合わせた。


 スカイセンサーから、微かなパルス音が漏れ続ける。


 ピ……ッ、ピッ……ピ、ピッ……


鼓動に似たそのリズムが、凍りついた空気の中で、生き物のように響く。

「……誰かが、いるな」

「それとも……何かが目を覚ましたか?」

海風が吹き抜け、砂利がざらりと鳴った。


 URAYASU-83。

三十年の沈黙を破り、再び動き出した都市の影。

佐久間は、鳥井から預かった古い鍵束をポケットから取り出す。それは、あの日――封印のために使われた、施設のアクセスキーだった。

「本庄。――過去の続きを見にいくぞ!」


 西の空はすでに燃え尽き、闇が海面を覆い始めている。静かに、しかし確かに、何かが蠢き出していた。

二人は、埋められたはずの区画の奥へ、ゆっくりと足を踏み入れた。

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BLACK NODE ―確定されなかった都市― もちうさ @mochiusa01

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