第2話 秋葉原、電気の記憶

 東京メトロ東西線から日比谷線に乗り換え、秋葉原に着いたのは午後五時ちょうどだった。

 夕焼けのオレンジが駅構内のガラスに反射し、電気街口を抜けると、街の空気が一気に変わる。


 かつて「部品の町」と呼ばれたこの場所は、今やアニメ、アイドル、メイドの看板に埋め尽くされていた。電飾に彩られたキャラクターたちの瞳が、夜の訪れを待つ街を照らしている。


「……まぁ、昭和のオヤジが来るとこじゃねぇな」

 佐久間が苦笑する。その笑みには、かすかな苦味が混じっていた。

かつてラジオ少年たちが半田ごてを握り、夢を組み立てていた時代は、もうない。今あるのは、ラノベのセリフ、コスプレのシャッター音、VTuberの声。人々は画面やステージに心を奪われ、スマホの中身──部品や回路には、ほとんど目を向けない。

「情報化社会とか言うけどよ……中身のある情報は、どこ行っちまったんだか」

口元がわずかに歪む。それは嘆きでもあり、諦観でもあった。だが、その眼差しの奥には、まだ消えていない技術者の炎が宿っている。


 佐久間が向かったのは、秋葉原の片隅にひっそりと残るラジオデパートの地下。

「東洋無線電機工房」──昭和の技術者たちが集った、いわくつきの店だ。かつて国家プロジェクトがここから始動したこともあり、今では伝説と化しつつある場所だった。古い木床と機材の匂いが漂う店内。その奥から、からからと乾いた笑い声が聞こえてくる。

「なんだなんだ、剛、生きてたのかよ」

 顔を出したのは、鳥井清一(とりい せいいち)。

 八十を越えた今も店を守り続ける、技術オタクの生き字引だ。佐久間にとっては、かつて無線技術を語り合った兄貴分でもある。

「清さん、聞いてくれよ。URAYASU-83の波が……また動いてるんだ」

「そんな馬鹿な。幻聴じゃないの?」

「本当に聞こえたんだよ」

佐久間は、葛西臨海公園で波を記録したノートを差し出す。

鳥井はそれを覗き込み、眉間に深い皺を刻んだ。

「……マジかよ。あの計画が?」

「そうなら、間宮の仕業かもしれねぇな」

「消された技術を、どこかで再利用してるって噂……あったな」


 沈黙が落ちる。

「剛……お前、まさかまた手ぇ出すつもりか?」

鳥井はそう言いながら、カウンター奥の棚を開き、黄ばんだ設計図を取り出した。

それは紛れもなく、URAYASU-83の通信波形設計書だった。封印と同時に処分されたはずのものが、今も残っていた。

「どうして、これが……」

「処分しない奴もいるんだよ」

「記録は消せても、人間の記憶までは消せねぇ」

剛は、しばらく言葉を失った。


 佐久間はバックからスカイセンサーを取り出し、135.4MHzの波を鳴らす。

その瞬間、鳥井の表情が変わった。

「……本物だ。しかも、いじられてる。パルスの繰り返す間隔が改良されてるな」

「誰かが使ってるってことだ」

「いや……使ってるってより、試してる。実験中の波だ」

二人は静かにうなずき合う。ノイズの奥に眠っていた亡霊が、再び目を覚まそうとしているのを、肌で感じていた。

「清さん、悪いが……旧型アンテナとレベルチェッカー、今すぐ借りられねぇか?」

「もちろんだ。ついでに昭和の亡霊にも声をかけとくよ」


 鳥井の言う昭和の亡霊──かつて国家機密を支えた老エンジニアたちのことで、町工場や中古家電屋に紛れて暮らしながらもその頭脳はいまだ健在だ。


「国家のためってわけじゃねぇ。ただな……勝手に消されたもんが、勝手に蘇って、好き勝手やってるのが気に食わねぇ」

佐久間の眼差しに、再び火が灯る。それは過去に縛られた視線ではなく、未来へ向け、もう一度だけ技術者として立つ覚悟の目だった。


 鳥井は奥の棚から古い段ボール箱を引きずり出す。中には旧型アンテナ、レベルチェッカー、信号解析用の真空管式受信機、使い込まれた計測ノートがぎっしり詰まっていた。埃にまみれているが、それがかえって歴史の重みを語っている。

「剛、これで十分だろ。使い方は覚えてるな?」

「そんなに耄碌してないから」

佐久間は慎重にアンテナを組み立てる。指先にわずかな震えはあるが、手順は体が覚えていた。

徹夜で回路を組み、符号化手順を検証した日々が、鮮明に蘇る。

機材を並べ、レベルチェッカーとスカイセンサーを接続する。外の喧騒とは対照的に、店内には張り詰めた静寂が満ちていた。

ダイヤルをゆっくり回す。

ノイズの中から、微かなパルスが浮かび上がる。

「……来たな」

確かにURAYASU-83の特徴を持つ信号だ。だが、四十年前とは違う。

パルス間隔、周波数の揺らぎ──誰かの手が入っているのは明白だった。


「やはり実験中だ……しかも、相当高度に制御されている」

老眼鏡の奥で、鳥井の目が鋭く光る。

佐久間はノートに波形を書き留め、受信機のボリュームを微調整する。

過去のログと照合するうち、符号化パターンが浮かび上がり、長い眠りについていた数字と文字が、再び意味を持ち始めた。

「一体何を考えてやがる」

その声に、怒りと興奮が混じる。

佐久間はノートパソコンを起動し、信号解析ソフトに波形を取り込む。

瞬時に計算が走り、復号結果が画面に現れた。

「……改良は見事だが、構造は変わっていない」

鳥井は設計図と画面を見比べ、微細な差異を拾い上げる。

 二人の呼吸は自然と同期し、まるで四十年前の地下施設に戻ったかのようだった。

「これで、完全解析ができるかもしれん……」

佐久間の目が光る。歳月に埋もれた技術者の誇りが、胸を満たす。

「本当にやるのか? 危険だぞ」

鳥井の声に、わずかな不安が滲む。

佐久間は静かにうなずいた。


 夕焼けは藍に沈み、秋葉原の街が夜の顔を見せ始める。雑踏の熱は地上に残されたまま、地下では二人だけが静かな時間を取り戻していた。

佐久間は再びダイヤルを回す。

微細な揺らぎが、解析グラフに鮮明な線を描く。

「符号が一致する……URAYASU-83は、完全に復元されている」

「もし、間宮の仕業なら……稼働させる目的は何だ」

「……あの日のことを、忘れたのか?」

「俺たちは……」

「やめさせなければならんな」

 二人の老人は、静かにうなずき合った。


 夕闇に包まれた秋葉原の地下。

昭和の技術者たちは、再び立ち上がる。

過去と向き合い、未来を切り開く――その覚悟は、確かに今ここで生まれていた。

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