癖
おげんさん
第1話
彼には、触れない癖があった。
意識しているわけではない。
気づけば、そうしているだけだった。
朝、駅へ向かう途中でエレベーターに乗るとき、
彼は必ず壁際に立ち、ボタンから一歩だけ距離を取る。
誰かが先に押してくれるのを、待つ。
吊り革も掴まない。
混んでいる時間帯は、つり革の少し下、
空気だけを握るようにして立つ。
不思議と、それで倒れたことはなかった。
会社でも同じだった。
書類は机の上に置かれるのを待ち、
手渡されそうになると、自然に一拍遅らせて受け取る。
誰かが気づくほどの違和感はない。
自分だけが知っている、ほんの小さな間。
昼休み、コンビニで会計をするとき、
レジの向こうの指先が伸びてくるのを見て、
彼は無意識に硬貨をトレイに置いた。
触れなければ、何も起こらない。
そう身体が知っていた。
帰り道、駅のホームで人の波に押される。
誰かの肩が近づき、熱が伝わりそうになる。
彼は半歩だけ、後ろに下がった。
少し息をつくと、再び前に進む。
人の熱に触れることなく、電車に乗り込む。
車内では、座席に座りながら、手を膝の上で組む。
誰かの肩や腕が触れないように、少しだけ間隔を意識する。
指先が席の縁に触れたときの冷たさだけが、彼の現実だった。
さらに、スーツの生地が肌に当たる感覚、靴底のわずかな反発まで、
触れないことを補完する微細な感覚が、彼を支えていた。
窓の外を眺める。
夜に近づくにつれて街の光が揺れ、信号や自動販売機の光が滲む。
風がホームを吹き抜け、電車の金属や人の衣服に触れなくても、空気だけは頬を撫でる。
触れられなかった一日のことを思い返す。
誰かに触れると、必ず何かを失うと知っている身体。
だから、触れずに生きる。
幼い頃、手をつなぐことが怖くなかった時代を思い出す。
母の手、友達の手、初めて触れた恋人の手。
思い出すと、指先に小さなぬくもりが蘇る。
名前も顔も、もう思い出せないのに、温度だけが残っている。
アパートに戻ると、鍵穴の冷たい金属に触れそうになり、
彼は一瞬手を引いた。
部屋に入ると、空気だけが出迎えた。
椅子に腰を下ろすと、触れないという安心感と、触れられなかったことへのわずかな後悔が同時に残る。
机の上のペン、昨日開けたノート、椅子の木の感触、床に触れる靴下の厚み。
触れられないことで日常は成立する。
でも、触れなければ、確かめずに済むものまで失っている気がする。
ベッドに横たわる。
手を組む。指先は触れ合わず、ぴったり重ならない。
空気と指のわずかな間が、彼の安全圏だった。
窓の外、風がカーテンを揺らす音が、遠くで反響している。
夜の街の音、電車の残響、遠くで犬が吠える声
触れない世界の中で、すべての音が彼を包んでいた。
夜が深くなる。
思い出すのは、触れたかった誰かの手のこと。
でもその手は、もう届かない。
指先に残った感覚だけを、彼は確かめる。
触れなければ、失くしたことにも気づかずにいられる。
その安全圏の中で、彼は一日を終える。
そして、静かに、小さくつぶやく。
「あったかい」
触れずに済ませた一日を、
指先と身体の感覚だけを頼りに、そっと閉じる。
癖 おげんさん @sans_72
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