2話
――アマリアが、その「話」を知ったのは、ほんのひと月程前のことだった。
父王の執務室前。
呼び出しを受け、扉の前まで来たとき、内側から聞こえてきたのは聞き慣れぬ低い男の声だった。
「リヴィエラの王子に嫁いだ姫が、愛する者と母国のために立ち上がる。そのような形を作りたいのです」
扉の隙間から、年配の男の姿が見えた。
整えられた白い髪。冷たい鈍色の瞳。
上質そうな衣に刻まれた紋章から、隣国リヴィエラの使節だと分かった。
「あなた方の姫は民に慕われている。此度の戦には大義が必要なのです。何よりも、慈愛深い象徴が」
父王は腕を組み、やがて片手で髭を撫で付けた。
「あれは姉とは違い、民心を惹きつける才がある。駒としては少し惜しい娘だ」
「恐れながら言葉を選ばず申し上げます。だからこそ、価値があるのです」
その言葉に、父王の口元がかすかに笑った気配がした。
「よかろう。元よりあの娘には、そのために生まれ落ちたのだと教え育てさせてきたつもりだ」
そこまで聞いて、アマリアは無言で踵を返した。
――惜しい、駒。
その言葉は、特段胸を刺さなかった。
ただいつものように、身体の芯が冷え切っていくような感覚だけがした。
ふと、北方の雪深い国へと嫁いで行った姉の背を思い起こす。
最近では便りすら届かないが、あの国の城内もまた同じように凍てついているのだろうか。
背後では会話が続けられていた。
「――して、アルフレッド殿下の方は?」
「そちらは問題なく。殿下は、国のためならば迷わず決断できるお方です。そのように教え育ててまいりました」
どこか誇らしげな声に、アマリアは思わず足を止め、口元へ手をやった。
数ヶ月前。城下町の路地裏で立ち尽くしていた自分に、少しだけ躊躇いながら手を差し伸べてくれた青年。
名も告げず、身分も問わず、それでもどこか落ち着かない様子で何度も視線を逸らしていた人。
――あの時すでに、あなたは知っていたのですね。
自分が駒として扱われるだけでなく、今度はそれを動かす側に立たされることを。
王族に不似合いな甘い人。けれど、その甘さを知る者は、きっと誰もいない。
アマリアは口元を手で隠したまま、扉から静かに離れた。
淡々とした会話は、なおも続けられていた。
計画。
同盟。
象徴。
背後からしつこく追ってくるそれらに、彼個人の感情が挟まる余地はなかった。
◇
婚姻話は瞬く間に進んだ。
アマリアは華やかなドレスを身にまとい、リヴィエラへと向かう馬車の中にあった。
最低限の荷物に、数人の従者。それから、最も長く傍に仕えてきた侍女だけを引き連れて。
がたり、と馬車が揺れる。
侍女が小さく不満を漏らした。
「嫌ですわ。リヴィエラは道の舗装もされていないのでしょうか」
「城下からも遠い国境付近よ。仕方のないことだわ」
「他国から姫君を迎え入れようというのですよ。そのぐらいは最低限の礼節かと。これでは噂も、あながち――」
そこで侍女は言葉を切る。
いささか正直過ぎる彼女にアマリアが先を促した。
「噂って?」
「……リヴィエラの王子のことです。あの、父王様と違いほとんど国をお出にならない方でしょう? それで人物像が一人歩きしているようで」
「まあ、それはどのような?」
「自国のために他者を利用することに躊躇いのない、冷たいお方だと」
「わたくしはそのようなお方に嫁がされるのね?」
「いえそんな……口が過ぎました、お許しを」
侍女が項垂れるように頭を下げる。
アマリアは笑って彼女を許した。この娘が歯に絹を着せなさ過ぎることはよく知っていた。
「でも、本当にそうなのかしら」
侍女が怪訝そうな顔をする。
アマリアは窓の外へと視線をやった。
路地裏での偶然の邂逅。
あのとき彼は、最後まで身分を隠したまま、笑って立ち去った。
これから同盟を組む国の姫に、恩の一つでも着せてみればよかったものを。
あれは、皆の言うような冷酷な人間の振る舞いではない。
役割と感情の間で、まだ揺れている人の姿だった。
――それならば。
アマリアは静かに決意する。
民が、皆が望む「慈悲深い姫」を、これからも完璧に演じてみせよう。
だがその慈愛は、国のためだけのものではない。
この先、彼が決断を迫られるたびに、自分を責めずに済むように。
姫は己の意思で盤面に立ったのだと、あの人がそう信じられるように。
それが、アマリアの選んだ務めだった。
「……姫様?」
心配そうな侍女に、アマリアは微笑みを返した。
窓から入る風は次第に冷たく、乾き始めていた。
◇
祝福の鐘が鳴り渡る。
馬車はついに、リヴィエラ王城へとたどり着いた。
先に降りたアルフレッドが、アマリアへと手を差し出している。
慈愛のこもった眼差しの奥に、隠し切れない緊張があった。
「ありがとうございます、アルフレッド殿下」
アマリアは彼の手を取る。
白いドレスを揺らしながら、リヴィエラ城の石畳へと降り立った。
きゅ、と指先に、またほんの少しだけ力をこめる。
自ら踏み出した一歩は、誰に強いられたものでもない。
「アルフレッド殿下」
「はい、アマリア姫」
振り向いた彼に、アマリアは柔らかく微笑んだ。
「精一杯、務めさせていただきますわ」
この白いドレスは、戦装束だ。
二つの小国の未来を背負いながら、同時に一人の男の罪悪感を引き受けるための。
同じ籠に囚われながら、なお甘さを手放せない王子。
彼が人であることを、最後まで失わずに済むように。
せめて最前列で、この優しい人の盾になろう。
アマリアは何も知らない顔で微笑みながら、静かに覚悟を胸に刻んでいた。
祝福の鐘は、まだ鳴っている 宵乃凪 @yoi_nagi
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