祝福の鐘は、まだ鳴っている

宵乃凪

1話

 祝いの鐘が、春の空に高らかに鳴り響いていた。


 小国リヴィエラ。その城下町の広場は、朝から押し寄せた人々で溢れかえっていた。籠いっぱいに花びらを抱えた子供たちが、まだかまだかと行列の先を覗き込む。

 やがて、白い馬車が一台、石畳をゆっくりと進んできた。御者が手綱を引くと、馬車はゆるやかに止まる。


「お待たせいたしました、殿下」


 従者の声に、リヴィエラ王子・アルフレッドは頷いた。

 今日この国に輿入れする隣国の姫を出迎えること。それが、彼に与えられた最初の務めだった。


 馬車の扉が開く。

 最初に侍女が降りて、続いてふわりと白い裾が現れた。

 美しく着飾られた、若き姫君。侍女の援助をやんわりと断ると、彼女は自分の足で静かに石畳へと降り立った。


 アルフレッドに向けて、細い手が差し出される。

 彼がそれを恭しく取ると、姫は嬉しそうに微笑んだ。


「素敵な国ですね」


 淡い金の瞳が、春の光を受けて煌めいていた。

 姫――アマリアは、柔らかな微笑みのまま続ける。


「こうして出迎えてくださる、お優しい殿下のような方がいらっしゃるからでしょうか」


 きゅ、と姫の指先にほんの少しだけ力が入る。

 周囲からはどっと歓声が沸き、花びらがひときわ高く舞った。


「あまり持ち上げないでください、アマリア姫」


 アルフレッドは少し照れたように笑い返す。

 後方へ控えた黒い馬車へと姫を誘い、彼女に続いて乗り込んだ。


 馬車が城に向けてゆっくりと動き始める。

 窓の外に向けて手を振りながら、アマリアが小声でささやいた。

 

「その節は、ありがとうございました」


「覚えていてくださったのですか」


 アルフレッドが問うと、姫からはくすくすと楽しそうな笑い声が返った。



 ――数ヶ月前。父である王に連れられ、アルフレッドは隣国エリュシオンを訪れていた。

 薄暗い政治の話に嫌気が差し、こっそり城を抜け出した彼は、城下町の路地裏で途方に暮れている少女を見つけた。

 事情を聞けば、乗ってきた馬車の車輪が石畳の段差にはまり、侍女ともはぐれてしまったのだという。

 他国の人間である自分が、その国の民の道案内をするなど不思議なことだ。そう思いながらもアルフレッドは、少女を侍女の待つ大通りへと送り届けてやった。


「殿下の方こそ。ふふ、自国で迷子になった王女など、そうそうお忘れにはなりませんか」


「それは……そうですね。まさかあの時は、あなたが姫君だとは思いもしませんでしたが」


「わたくしも、あの親切な方が、まさか他国の王子だとは」


「今思えば、他所の国で出過ぎた真似を致しましたね」


「まさかそんな。この度の縁談の相手が他ならぬあなたで、わたくしは本当に嬉しかったのです」


 そこでアマリアは窓から視線を外し、こちらを振り向いた。

 無邪気で、何の影もない笑み。アルフレッドにはそう見えた。


「……私もです、姫」


 アルフレッドは、その笑顔から視線を逸らすように、再び窓の外の民衆へと顔を向けた。


 ◇


 彼女との婚姻の話が最初にもたらされたのは、その出会いよりも少し前のことだった。


「殿下。此度のエリュシオンとの縁談を、お受けになるべきです」


 執務室に響いた宰相の声は、いつものように冷たく平坦だった。

 机に広げた地図の上を、老人の乾いた指先がなぞる。リヴィエラと、隣国エリュシオン。そしてそのさらに東方に広がる巨大な帝国。


「帝国の侵攻は、もはや時間の問題です。相手は強国、我が国単独では到底抗い切れぬでしょう。しかしエリュシオンと結べば、この地は山岳と湾口を併せ持つ一枚の防壁となります」


 アルフレッドは無言で先を促す。冷え切った視線の先で、宰相の指が紙面上を滑るように北上した。


「加えて、エリュシオンは北方の王国とも細いながら縁を持ちます。此度、殿下が姫君を娶れば、その三国の繋がりは帝国に対する強い牽制となる」


「数年前に姫の姉君が輿入れたと。あまり良い噂は聞かないが」


 アルフレッドの目が大陸北方に広がる王国領土へと移る。

 この季節であれば、深い雪に覆われ始めている頃だろう。


 年中を通して温暖なエリュシオンから、親のような齢の王へと嫁がされたという姫君。

 顔も知らぬ少女と雪景色に想いを馳せる間に、宰相の言葉がいくつか耳をすり抜けていった。


 とん、と机を叩かれてふと我に返る。

 深い皺の刻まれた瞼の向こうから、鈍色の目がこちらを見ていた。


「殿下、これは好機です。加えてあの姫は民の支持も強いと聞きます。姫がリヴィエラへと嫁ぐ、それだけでエリュシオンの軍も動きやすくなる。民意も我らの側につく。これは大きい」


「彼の国の兵は数こそ少ないが士気が高く、精鋭揃いと聞く」


「ええ。エリュシオンの民は姫を慕っている。その姫が『愛する伴侶』のために立ち上がるというのなら、民も兵も否応なく心を動かされましょう」


 愛する伴侶――

 紛うことのない政略結婚を持ち出しておいて、よくそのようなことが言えたものだと思ったが、宰相の言うそれが言葉通りの意味でないことなど理解していた。


「つまり、そう見える形であれば良いと」


「姫の心がどうであろうと、民はそう信じるでしょう。殿下、分かっておられますな。これは情の問題ではありません。我が国が生き残るために必要な一手です」

 

 宰相は静かに言った。

 

 アルフレッドは黙って窓辺に歩み寄る。ガラスの外には、いつもと変わらぬ城下の景色が広がっている。遠くから聞こえてくる朝市の声。

 その喧騒の頭上に、帝国軍の旗が翻る情景が脳裏に浮かぶ。


 喉が、ひどく乾いていた。

 

「仮に、私が断れば?」


「エリュシオンもまた帝国の脅威に晒されている。かの王は他の同盟先を探すでしょう。しかし、それはより多くの血を流す策となります」


 宰相の言葉は残酷で、同時に誠実だった。

 アルフレッドはそれを正しく理解し、そしてきっとこの国に嫁いでくるという姫君もまた、重々承知しているのだろうと思った。


「殿下」


 宰相が繰り返す。

 アルフレッドは頷いた。


「相分かった。ただし、来週父上がエリュシオンを訪問される予定があるだろう。そこへ私も共をさせてもらう」


 窓から視線を離し、ゆっくりと振り返る。

 怪訝そうな表情の宰相に向かって、彼は薄く口角を上げてみせた。


「『愛する伴侶』の生まれ育った国だ。どのようなものであるのか、一度くらいはこの目で見ておきたい」


 ◇


 馬車が揺れる。

 城門をくぐり、城へと続く大通りへと入ったところで、人々の歓声は一層大きくなった。


「この国の方々は本当に楽しそうですね」


 アマリアが窓の外を眩しそうに眺める。


「リヴィエラの民は祝い事を好むのです」


 アルフレッドは、膝の上で手を組み直した。

 彼女の横顔を見ないよう、視線をさりげなく対面の座面へと向ける。


 くすくすと少女の笑う声がした。


「愛されている国なのですね」


「どうでしょうか。あなたの国ほどでは」


「あら、そうでしょうか?」


 視線を感じ、アルフレッドは仕方なく顔を上げる。


 揶揄うように小首を傾げる仕草も、エリュシオンの路地裏で見たときと変わらない。

 ただ違うのは、その細過ぎる両肩に、今日から二つの国の命運が乗るという事実だけだ。


 揺れる馬車の中で、アマリアは真っ直ぐにアルフレッドを見つめる。

 

「殿下」


「はい」


「わたくし、今日という日を心より嬉しく思っております」


「それは……光栄なことです」


 喉がひくりと鳴りかけたが、アルフレッドはそれを飲み込んだ。

 少女の煌めく瞳は、変わらずこちらを見つめ続けている。


「ええ。ですが、それだけではありませんの」


 そう言って彼女は、ふわりと微笑んだ。


「わたくしにも、務めがありますから」


 ほんの一瞬、胸がざわめいた。

 しかし、アルフレッドはすぐさまそれを押し殺す。


 王家に生まれ落ちた者は、多かれ少なかれ皆、義務と責任を叩き込まれて育つ。

 彼女の言葉もきっと、それを指しているだけだろう。


「お言葉は嬉しく思いますが、無理をなさらぬよう。エリュシオンとは勝手が違うところも多いでしょう。何かあれば、どうか私に仰ってください」


「大丈夫ですわ。殿下こそ」


 そこでアマリアは一度言葉を切った。

 そして、いっそう柔らかな声で続ける。


「どうか、お身体をお労りくださいね」


 それは、単なる気遣いの言葉に過ぎない。

 そう理解しながらも、アルフレッドは返す言葉に困った。


 馬車の外では、相変わらず歓声が響いている。

 人々は、祝福される恋物語を見ているつもりでいるのだろう。


 ――そのようなもので、あるものか。

 アルフレッドは心の中で呟いた。


 これは、戦の序章だ。

 帝国と王国、二つの強大な国に挟まれた弱小国家の王として、奔流に抗うための策。

 彼女の名も、顔も、笑顔も、そのすべてを盾として掲げるための。


 この優しき姫を利用するのが、他でもない、自分なのだ。


「アマリア姫」


「はい」


 鈴の鳴るような心地よい声。

 アルフレッドは告げかけた言葉を飲み込み、穏やかな笑みを返してみせた。


「どうか、よろしく頼みます」


「ふふ、こちらこそ。どうぞよろしくお願いいたします、アルフレッド殿下」


 アマリアが嬉しそうに微笑む。

 二人は再び窓の外へと顔を向け、花びらの舞う城下へと手を振った。

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