第6話

春の終わり、校庭の桜はすでに散り、若い葉だけが風に揺れていた。


アイリスは教室の窓を少し開け、外の音を入れる。

遠くで子どもたちの声が混ざり合い、はっきりとした意味を持たないざわめきになる。


黒板には、何も書かれていない。


以前なら、授業の始まりに必ずテーマを書いていた。

今日学ぶこと、今日覚えること、今日の正解。

けれど今は、それをしない日が増えている。


「先生、今日は何をやるんですか」


誰かが尋ねる。


アイリスは少し考えてから答えた。


「今日は、昨日の続きをやります」


「昨日って、どこまで?」


「そこから考えて」


教室に、またざわめきが生まれる。

不満でもなく、安心でもない。

考え始めた音だった。


机の間を歩きながら、アイリスは思う。

子どもたちは、世界を理解していないのではない。

理解しきれないことを、まだ急いでまとめていないだけなのだ。


それは、かつての自分と同じだった。


物語の中で迷い、論理が崩れ、言葉が意味を失うあの感覚。

混沌とした世界に放り出され、それでも考え続けた時間。


あれは無駄ではなかった。


放課後、教室を片づけながら、アイリスは引き出しから一冊のノートを取り出す。

授業用ではない、私的なノートだ。


そこには、子どもたちの発言や、授業中に生まれた問いが書き留められている。


「どうしてルールは必要なのか」

「間違えたら、なぜ恥ずかしいのか」

「みんな同じである必要はあるのか」


どれも、答えは書かれていない。


アイリスはペンを置き、ノートを閉じた。


窓の外では、夕方の光が校舎の壁をオレンジ色に染めている。

世界は、相変わらず複雑で、矛盾に満ちている。


それでも、今日も子どもたちは考えている。

問いを抱えたまま、生きている。


その場所を守ること。

答えを急がせないこと。

物語と現実の間に、無理に線を引かないこと。


それが、自分の仕事なのだと、今は思える。


アイリスは教室の電気を消し、ドアを閉めた。


廊下に出ると、静かな足音が響く。

遠くで誰かが笑っている。


世界は終わっていない。

物語も、終わっていない。


ただ、続いている。


——、アイリスは前に向かうような未来を思った。





(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アイリス 紙の妖精さん @paperfairy

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る