第5話
手紙が届いたのは、投函してから三週間後だった。
職員室の机の上に、見慣れない筆跡の封筒が置かれている。
差出人の名前を見た瞬間、アイリスは一度、椅子に深く腰を下ろした。
急いで開けることができなかった。
授業の準備を終え、黒板を拭き、教室の鍵を閉めてから、ようやく封筒に手を伸ばす。
中には、便箋が一枚だけ入っていた。
余白が多い。
——
アイリスへ
手紙をありがとう。
教師になったと知り、少し安心しました。
——
文字は簡潔で、丁寧だが感情は抑えられている。
昔と同じ書き方だった。
——
あなたが何を教えるべきか、という問いに、
私は答えを持っていません。
それは今も、持っていません。
——
アイリスは思わず息を止める。
——
私があなたに物語を語ったのは、
教える内容がなかったからです。
正確に言えば、
教えられるほど確かな内容を、私は持っていませんでした。
——
少しだけ、紙を持つ指に力が入る。
——
当時の教育は、
「正しさを間違えずに伝えること」を求めていました。
けれど社会は、
正しいかどうか分からない選択の連続でできています。
その矛盾を、私は授業では扱えませんでした。
——
だから、物語にしました。
物語なら、
間違っても責任を取らなくていい。
聞いた側が、どう受け取ってもいい。
——
アイリスは、ゆっくりと読み進める。
——
あなたが今、
「分からないまま考え続けること」を教えようとしているなら、
それは私ができなかったことです。
それでいいかどうかは、私には判断できません。
ただ一つ言えるのは、
子どもは、大人が思うほど答えを欲しがっていない、ということです。
彼らは、
考える余地を与えられることを欲しがっています。
——
最後の段落は、短かった。
——
教師は、答える人ではありません。
問いが存在してよい場所を守る人です。
あなたがそれを守れているなら、
もう十分だと思います。
——
署名のあとに、追伸があった。
——
追伸
手紙を書くこと自体が、
すでにあなたの答えの一部です。
——
読み終えたあと、しばらく便箋を畳めなかった。
返事は、解決を与えてくれなかった。
具体的な方法も、指針も示していない。
それでも、胸の奥にあった重さが、確かに変わっている。
アイリスは便箋を封筒に戻し、机の引き出しにしまった。
翌日の授業で、彼女は黒板にこう書いた。
「今日は、答えは出しません。」
教室が、少しざわつく。
そのざわめきの中で、アイリスは思う。
問いが残る時間を、
怖がらなくてもいいのだと。
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