「おじさん」と「私」は現実の「生」から浮いている。どこかシュールで観念的な生き方をしている。
「私」は、人の気持ちが理解できない。フリーターとして生活。セックスで繋がれた人間関係のなかで生きて、妊娠するとお金だけもらって満足することにしていた。
一方、「おじさん」は、自分は宇宙人だといいながら、自分の内的世界で生きている。外見は、どこにでもいるようなありふれた中高年。薄い頭部には脂が目立ち、食いぎたないところがある。
「私」は「おじさん」と交流する。真夜中の缶蹴り。おじさんのマイペースながらやさしいセックス。二人でたべるいくら丼。その中で、「私」はやがて自分の抱えていたものの正体に気付かされる。そして、「私」は「おじさん」の取っていた生存戦略の中に癒やしを見出すのだった。
言葉のいらない関係性。そのゆるやかなつながりが持つ可能性。それは絶望ではなく希望にあふれている。
ラブストーリーです。それも壮大な。
おそらく正直な方なのでしょうな。主人公は愛想笑いが全くできません。
しかし、正直者が生きやすい世の中なのかというと、決してそうではないようで……
周りと違うからという理由で粗雑に扱われ、いじめられ、
輪に入れない。そんな生き方をしてきたのだと思います。
そんな彼女の恋人は、
真冬に短パンとタンクトップを着て、砂場で遊ぶおじさんです。
彼は宇宙人なのだそうです。
缶蹴りが好きなのだそうですが、私の想像だと缶蹴りって二人ではできないと思うので、ただ単に空高く間を蹴り上げることなのではないのかな? と思います。
それとかくれんぼ、
あとは、いくら丼とセックスが好き。
私が知っている中年男性のつまらない概念の、真逆をいかれる方にございます。
そんな宇宙人との生活の中で、彼女が覚えるいくつかの事。
産んであげられなかった命といくら丼。それから星。
それから、宇宙のどこかにあるという「言葉のいらない世界」
たった4千文字弱で、村上龍の作品を読んだ後のような感覚。
二人きりの公園から、宇宙へ飛び立つ空き缶。
これぞ、スペースラブストーリー。
ご一読を。
他人とは違う感性を持つ人は、時に差別や虐めの対象になる。
この作品の主人公の女も、その一人だ。
そして、宇宙人を名乗る45歳のおじさんも、そうなのかも知れない。真冬なのにヨレヨレのタンクトップに短パン。好きな事は、缶蹴り、かくれんぼ、いくら丼とセックス。
女は、その感性の特異性から、交わった男との間に出来た子どもを何人も堕してきた。二人がいくら丼を食べるシーンは、堕してきた命を象徴しているのか。
作者の鋏池さんお得意の擬音語がいくら丼を食べる時の咀嚼音に現れる。結構不快な音だが、どちらかというと醜いおじさんの見た目に合わせて絶妙なアクセントとなっていると感じた。感じ方は人それぞれだが。
おじさんの放つ言葉が素敵だと思った。月に光る缶が星に飛んで行くとか、いくらは海から来た星の卵だとか。これらの言葉はもちろん作者の鋏池さんのものだ。鋏池さんの感性も普通ではない(褒め言葉)
鋏池ワールド全開の逸品です。是非読んでみてください!
真冬にタンクトップ一枚で砂場で遊んでいるおじさん。
ヨレヨレ、ブヨブヨ、ネタネタ。
「普通」だったら、目を合わさないように通り過ぎると思います。
しかし彼だったからこそ、主人公の彼女は心を開きます。
この「普通」という概念、ときに厄介なシロモノですね。
どこまでが正常で、どこからが異常なのか。
そんなことを気にして苦しくなるくらいなら、宇宙人とでも名乗ればいい。
いっそ完全な異物になって、世界を外から見てみればいい。
まあ……
実際にやってみると、失うものは多そうですが……
そこは小説のいいところ。
読むことで体験できます。
巧みな小道具や情景によって差し迫るリアリティ。
二人の行く末、そして読者にも連なる普遍性。
嫌悪感と共感を一度に感じられることって、珍しいと思うんです。
なので、ご一読を。
痛みもあるけれどあたたかい。そんな不思議な魅力のある作品でした。
主人公は、「宇宙人の恋人がいる」と反芻する。
それは公園で出会った汚いおじさん。タンクトップ姿で過ごし、いくら丼を食べる時はねちゃねちゃと汚らしく食べる。
でも、そんなおじさんと一緒にいる時間に不思議と安らぎを覚えている。
主人公である「彼女」は「人間として生きる」のが下手らしく、これまで体目当ての男たちと何人も付き合い、妊娠してはその子供を堕胎するようなことも続けてきた。そしてそれを悪いとも変だとも考えて来なかった。
そんな彼女だったが「おじさん」と出会って一緒にいくら丼を食べることで、少しずつ「何か」が満たされていくようになる。その感じが妙にあたたかいものに感じられました。
ラスト、「おじさん」から伝えられる言葉。「宇宙人」である彼から見て、「彼女」はどういう存在なのか。
そして訪れる救いの感覚と痛みの感覚。おじさんとの付き合いによって、「彼女」はようやく「自分」というものを規定する。
それは「普通」とは距離を置くようなものだったのかもしれない。それでも無理に自分を「型」に当てはめることから解放され、「自由」を得られる選択になるのかも。
そんな「ホッとするような救い」の感じられ、不思議と爽やかな読後感を得ることができました。
主人公はある日、よれよれのタンクトップと短パンという姿のおじさんと公園で出会う。
彼は頂点に小枝が挿さった砂山を作ると、それを宇宙基地だと言う。
ずっと孤独に生きてきて、あまり笑わなかった主人公はそんな子供っぽいおじさんを見て、久しぶりに笑う。
彼女はそんな彼に惹かれ、二人はやがて付き合うことになる。
二人はまるで小さな子供がそうするように、かくれんぼをしたり、缶蹴りをしたりする。
世間ではこの二人はおそらく幸せな存在として扱われていない。
哀れな人たちとして見られている可能性が高い。
しかし、そんな二人の目は汚れを知らない子供たちのように輝いている。
そしてそんな二人が遊ぶ場所は、星々が煌めく宇宙のように綺麗で神秘的な空間になる。
大人として窮屈に生きる者と子供のように純粋で宇宙のように広大な精神を持つこの二人、どちらの方が幸せなのだろうか?
これはそういうことを考えさせられる物語だ。