第3話

 仕事を終えた後は、冬雪は決まって泥のように眠る。そして起きる時も決まって不快感で目が覚める。

 胃の奥に鉄を流し込んだような重さ。頭の芯もまだぼんやりと鈍く痛む。

 冬雪は枕元のシガレットケースに手を伸ばし、中にあるミントの香りが強い紙巻き煙草を雑に一本咥えて引き出し、ジッポライターで火をつける。カーテンの隙間から薄明かりが差し込むワンルームでしばらく天井を睨む。煙が静かに天井に溶けていき、逆光の中で埃と混じって揺れていた。

 テーブルの上には、昨日飲み干したエナジードリンクの空き缶とコンビニ弁当の容器、山積みになった吸い殻入りの灰皿。テレビはニュース番組を映し続けている。速報で、昨日の仕事現場が映されていた。ブルーシートに囲まれた現場の映像が繰り返し流れ、キャスターの声が「被害者は指定暴力団『荒神会』幹部と見られ、犯人は不明」と繰り返すたび、煙を吐き出して無言でチャンネルを変えた。


 「……だる」


 ゆっくりと手を伸ばし、冷蔵庫を開ける。青と銀に装飾されたエナジードリンク缶を取り出し、ソファに沈み込む。プルタブを開けて一気に喉へ流し込むと、甘ったるい刺激でようやく意識が水面に浮かぶ。

 時計の針が、やけにゆっくり動いている。

 永遠に生きる身でも、こんな朝はひどく長い。

 冬雪はぼんやりと煙を吐き、また一口、甘ったるい炭酸を流し込んだ。

 命を削るような時間が、今日も静かに過ぎていく。

 

 あの日から冬雪の体は、俗に言う、不老不死となった。けれど、彼女の心は一貫して死を求めていた。

 肉体は歳を重ねることを拒み、左に鉛玉を撃ち込もうと、首を刎ねようと、死ぬことは無い。傷口は立ちどころに蒼炎に包まれ、たちまち治癒した。なればと、餓死を試みた。腹は減り、喉も渇く。だが、幾日経っても飢え死にすることはなかった。その苦痛だけが永続する。

 体よりも先に心が壊れ、正気を保つことすら難しくなった。

 だが何よりも耐えられなかったのは、尊厳を奪われたことだった。

 あの業火の中、冬雪は人間として自らの死を選んだ。それは『人斬り狐』として討幕を目指した、誇り高き武士としての、最期の矜持だった。しかし、玉藻前はその選択を、その魂の安寧を、異質な力で無理やり否定した。

 どれだけ激しく傷を受けようと、どれだけ死を選ぼうと、無意味になる。


 業火に焼かれたあの日、玉藻前から言われた。


『妾には戦いの力は無い。だが冬雪、喜べ。お前を生かし続けることは出来る。例えその身が裂けようと、業火に焼かれようとも、妾の力でお前は死なぬ』


 死なない? 違うな、死ねないの間違いだろう。

 冬雪は幾度となく愚痴ってきた。

 身体が異様な熱と痛みを伴い、ありえない速度で再生していく様は、治癒ではなく、異質なものに塗り替えられる冒涜だった。死してなお、魂の奥底に玉藻前の意識が居座り続けるのを明確に感じた。『自分』ではない者が、常に肉体と精神の奥底を監視し、支配している。


 東雲冬雪はあの夜、人間として死んだ。そして、玉藻前の意思によって生かされ続ける、ただの化け物になったのだ。


 自らの生と死を、自分で決定する権利を永遠に奪われた。不老不死の体は、彼女が選んだ死を拒み続ける、屈辱と絶望の檻でしかなかった。この魂の檻から解放されるには、玉藻前の呪いごと、全てを破壊する他ない。

 だから冬雪は今もひたすらに死を求める。それは休息ではない、奪われた自己決定権の回復そのものだった。

 

 そしてあの日から、『命』を摂らなければ生きられない体になった。

 他人から奪った『命』が体に流れる感覚は、ひどく不快だ。だがそれでも冬雪は摂り続ける。否、摂り続けなければならない。それは、この身に宿る大妖怪が『命』を求め続けているから。それに抗うことは叶わず、冬雪の意思とは関係無く衝動的に発作する。

 そしてその度に痛感する。この身は玉藻前のものなのだと。

 

『汝の身を持って いのちを喰らい 妾の欲を満たせ』

 

 稀代の大悪女の飢えはおおよそ週に一度。発作が起きると、いつも耳の奥で煙に溶けるようにこの声が囁く。

 

 自らの飢えも埋めようと再度冷蔵庫の扉を開けた。だが、よく見れば中は空っぽ。乾いた庫内灯が、飲みかけの水のペットボトル一本さえ照らし出せない。手元のエナジードリンクが最後の内容物だった。苛立ち混じりにシガレットケースを開くと、こちらの中身も心許なく、残りは数本だけ。

 長い溜息を狭い部屋に響かせた。

 窓の外に目をやれば、六月の空はまだ雨を引きずり、重たい雲の切れ間からわずかに陽が覗いてはいるものの、ガラス越しにも外気のじっとりとした湿り気が伝わってくるようだった。

 

「……下、行くか」

 

 冬雪は光沢の黒色が少し色褪せたフライトジャケットを羽織ると、部屋を出て、急な角度の木造階段に足をかけた。

 一段、また一段と降りるにつれ、古びた木材がギシと小さく軋む。それと同時に、階下から漂ってくる乾いた豆の香りが鼻腔をくすぐり始めた。焙煎の深い苦みが、梅雨特有の湿った匂いを上書きしていく。

 一階へ通じるドアを押し開ける。カラン、と控えめなベルの音が鳴った。

 そこは、外の御徒町の喧騒とは隔絶された空間だった。磨き込まれた木のカウンターは落ち着いた光を放ち、澄み切った静けさを纏っている。

 客の姿はない。カウンターの奥では、店主の男がいつものように無言でカップを磨いていた。

「いらっしゃい」とも言わず、ただ視線だけで迎えるその場所――『静珈房』。住処の真下にあるこの店は、彼女にとって最も手近で、都合のいい隠れ家だった。

 冬雪は居住まいを正すようにひと息つき、いつもの椅子へと腰を下ろした。。

 

 店主の男――獅童春一が柔らかい微笑みを浮かべる。 

 獅童とは彼が若くして腕の立つ殺し屋と評判になっている時に出会った、所謂、同業者仲間だ。

 協力関係を築いて早何十年と経ち、彼も還暦を迎えたが、それを感じさせない穏やかな顔は今日も丁寧すぎるほどの挨拶を欠かさない。纏う柔らかな雰囲気は、昨夜とは最早別人である。

 

「いつものをご用意しましょうか?」

「頼む」

「承知しました」

 

 低いバリトンの声とともに、獅童は滑るように珈琲を淹れ始めた。豆の選定から挽き方、湯の温度まで完璧主義的に計算された動きだ。

 やがて湯気の立つカップがカウンターに置かれ、ほろ苦い香りがふわりと立ちのぼる。冬雪は短く礼を言い、カップの縁に口を寄せた。喉を滑り落ちる熱に、張りつめていた神経が少しずつ緩んでいく。

 続けて置かれたのは、厚切りのトーストに卵と野菜を挟んだだけの素朴なブランチ。手際よく用意される音を聞きながら、冬雪はシガレットケースを開く。中から一本抜き取り、口に咥えて火を点ける。紫煙が細く立ちのぼる。珈琲と煙草の苦みは、いのちを喰らった後に残る不快感とは正反対の、人間的で安らかな苦みだった。

 厚切りトーストの端を齧ると、卵の甘みと野菜の瑞々しさが口に広がった。珈琲で流し込むたび、空腹がほんの少しだけ落ち着いていく。

 だが、そのひとときの安らぎを破るように、カウンター越しに獅童が口を開いた。

 

「ところで――また、お得意様からご連絡がありましたよ」

 

 冬雪の手が一瞬止まる。パン屑が皿にこぼれ落ちるのも構わず、彼女は無言で獅童を見やった。

 

「ご自宅まで来て欲しいとのことです」

「せめてさあ、食べ終わってから言ってくんないかな」

「これは失礼いたしました」獅童は表情も声のトーンも崩さずに言う。

「おかわり」

「かしこまりました」

 

 彼とは出会って何十年と経つが、その間ずっと変わらずに慇懃極まりない。だからこそ仕事のパートナーとして使いやすいとも言えるのだろう。獅童が新たな一杯を準備する傍らで、冬雪は最後の一切れをゆっくり噛みしめた。

 

「ユキさん。依頼要望を伝えた手前ではございますが、今日も相変わらずお疲れのようだ。少し休まれた方がいいのでは」獅童は器用にハンドドリップを進めながら語り掛けてきた。

「いい。どうせ自殺も過労死も出来ないんだから」

「左様ですか」


 獅童は何気なく頷くが、目だけが探るように動く。鋭さを持たせないように振る舞ってはいるが、冬雪にはわかる。何かを探ろうとする眼差しだ。

 

「そういうお前も、毎日変わらないな」

「ええ。わたしは珈琲だけが友ですので」

「つまり、お互いぼっちってわけだ」

「友も昔はそれなりにおりましたが……しかし今はもうユキさんが私の唯一の人間のご友人といえば、そうなりますかね」

「あっそ」

「本当ですよ。私はあなたの味方ですから」

「……知ってるよ」差し出された珈琲を受け取ると、一気に煽った。「お互いつまんない歳の重ね方をしたな」

「いえ、やりたい事が出来て私は楽しい老後ですよ」

「寂れた喫茶店で化け物と話すことが?」

「はい、左様でございます」

「そこは否定しろよ」

 

 冬雪は残りの珈琲を飲み干し、一万円札を置きながら席を立った。

 

「ではお釣りとこちら」

 

 獅童はいつものように釣銭と新しい煙草の箱を差し出す。これも彼のお節介の一環だ。煙草が切れてることを見越してのことだろう。冬雪は受け取りつつも無言で手を引っこめた。


「裏のシャッターの鍵は既に空いておりますので、どうぞご自由に」

「はいよ」


「――そういえば」店を出ようとした冬雪の背に、獅童は最後にもうひとつ付け加える。「最近また増えたそうですよ、三巴の鬼の事件」

「……へえ、そうか」冬雪は視線を外し、曖昧に頷く。

 

 正直、興味が無かったわけではない。

 これまで無駄に長く生きてきた中で、国内外問わず様々な殺人鬼や殺し屋が現れた。しかし、その多く――特に、殺しを職にしていない殺人鬼はその殆どが警察に御用になっているので記憶にもあまり残っていない。思うことといえばせいぜい、仕事場が被らなければいいな、くらいだ。

 幕末の人斬り時代からずっと、同業者のそいつがどこの誰で、どんな奴なのかなど、微塵も興味が無かった。

 技の練度、殺し方、始末の付け方。己が行う仕事に何一つ支障が無いからだ。

 ターゲットが被れば、商売敵より先に殺せばいいだけだ。邪魔立てするなら、纏めて斬ればいいだけだ。他人を無駄に深く知る必要などない。今日までそうして生きてきた。

 

 しかし、三巴の鬼は話が違った。

 

 犯人の見た目がまさしく鬼の様相だという他、現場は超常の力が働いていたかのような焦熱痕や破壊の跡があり、到底人の手によるものとは思えない惨状になるという。

 そんなオカルトめいた話、普通なら与太話として話半分に流すが、冬雪にとってそれは未知の話ではなかった。

 というより、知っている。その超常の原因、その醜悪な正体を。

 

 けれど、知っているからこそ、それに興味を向けることの無意味さも理解していた。

 そこに救いはない。あるのは、他人のエゴに振り回される『絶望』だけだ。

 あの鬼も、どうせ自分と同じ、ただの『死ねない化け物』なのだから。


「ああそれと、武器の手入れは済んでおりますので」

「……いつ寝てんだお前」

「しっかり夜は寝ておりますよ。快眠でございます」

「聞いてねえよ」と冬雪は苦笑すると、「また来るよ」と言い残して店を後にした。

 

 店の前を横切ると、前方ですれ違う小柄な女性の姿が目に入った。シルバーグレーのショートヘア、身長は一五六センチほど。年齢は二十代後半か――すれ違いざま、ふと微かな雨の匂いを感じて、視線がその人に吸い寄せられる。

 そのまま目で追っていると、女性は静珈房の扉に手をかけ、入ろうとしているところだった。

 

 「……なんだ、客来るんだ」

 

 普段閑古鳥が鳴くこの店に、ようやく少しだけ賑わいが生まれそうな気配だった。

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2025年12月20日 21:00
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蒼の死神 @Mackey008

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