第2話
午前十時。東京は朝からしとしとと雨が降り続いていたが、つい先ほどようやく上がったところだった。
湿った匂いを含んだ空気の中、
「……もう無理だと思う」
乾いた声が、静まり返った部屋に響く。テーブルの上では、飲みかけのコーヒーがすっかり冷めていた。
「はあ? それ、今言うこと?」
夏寧の声には、苛立ちが滲んでいた。
対する彼は、どこか遠い景色でも眺めるような冷ややかな目をしている。もうその視線が自分に向けられていないことは、一瞬で分かった。胸の奥に、嫌な虚しさが広がる。
「前から思ってたんだ。俺ら、合わねえなって」
「……なら、そう思ったときに言えばよかったじゃない。あんた、ずっと私の顔見ながら、その答え隠してたんでしょ」
「……ずっと言おうと思ってた」
けれど、と言いかけたところで、彼はバツが悪そうに口を噤んだ。その沈黙の中で、夏寧の胸にざらりとした感覚が広がる。
その目線に、微かに計算めいた光が混じっていることに気づいてしまったのだ。言葉にする勇気はないくせに、態度や視線だけが雄弁に物語っている。
胸の奥で、何かざらついた感情がぐちゃりと音を立てて混ざり合った。一緒に過ごした時間が、みるみる色あせていくように感じられる。
最低。卑怯者。
反論しようと口を開きかけたその時、スマホが震えた。画面に表示された名前に、夏寧は思わず顔をしかめる。
「……清水警視正」
タイミングの悪さに舌打ちしたが、無視できる相手ではない。通話ボタンを押す。
「はい」
『おう藤田。起きてたか』
「ええ。事件ですか」
『そうだ。詳しい場所はこのあと送る。すぐ来い』
「……了解です」
『なんだ、声が険しいな。痴話喧嘩中か?』
いつもの調子の声に、夏寧は反射的に語気を強めた。「いーえ、まっったく。それでは後ほど」
通話を切ると、夏寧は立ち上がり、クローゼットから手当たり次第に荷物を掴んでキャリーバッグに押し込んだ。
「じゃ、さようなら。もう二度と連絡してこないで」
彼が何かを言いかけたが、振り返らない。ドアを乱暴に閉め、湿った空気の街路へ飛び出した。
雨上がりの路地裏は黒々と濡れ、足音に合わせて水滴が跳ねる。見上げれば、新宿の高層ビル群が鈍色の空に溶け込んでいた。
一度自宅に戻って荷物を置き、現場に着いたのは昼前だった。
料亭の前には、パトカーが赤色灯を回し、黄色い規制線が張り巡らされている。野次馬と報道陣が押し寄せ、フラッシュが閃いた。
夏寧が規制線をくぐると、先に到着していた刑事たちの小声が耳に入った。
「アイツらが来るってことは……まさか今回のもか?」
「ああ。どうやら可能性が高いらしい」
「最近多いな。また
「いや、どうやら……蒼の死神が出たってよ」
ぞわり、と背筋に冷たいものが走る。
――蒼の死神。
その正体はおろか、性別、年齢、身元、何もかも不明。ただ確かなことは、現場に残る痕跡が皆無なこと、その犯行はまるで超人的な力の様に、被害者は一撃必殺の鮮やかさで殺されているということ。そして、死神に殺しを依頼した人間は全員行方不明になっているという話だ。世間ではその存在は都市伝説として語られている。一部では、その正体は怨霊だとか、幕末の時代から暗躍し続けているなど、話に尾鰭が付いている。
しかし、その存在は公には公開されていないが、実在はする。夏寧はまだ直に対峙した事はないが、先輩の中には目撃をした者もいる。
ただ確実なのは、今の技術力を、公安警察の力をもってしても、伝説級と言わしめる匿名性を持っているという事だけだ。
その名が現場を駆け巡るだけで、空気が一段と重くなるのを夏寧は感じた。
「おう、やっと来たか」
背後から野太い声がかけられる。振り返ると、上司の清水康太郎警視正が、いつものだらしない笑みを浮かべて立っていた。
「お疲れ様です」
夏寧が形だけ頭を下げると、清水はじろりと彼女を見て、にたりと笑った。
「流石に荷物は置いてきたんだな」
一瞬、夏寧は言葉に詰まる。図星を突かれた気がして、冷ややかな笑みで返した。
「……あまり詮索しないでもらえます? 出るとこ出ますよ」
清水は「悪かった、悪かった」と手を仰ぐ。何度目か分からない上司の本気ではないハラスメントも、今日ばかりは本当に嫌気がさす。
だが、この男が自分たちを新人時代からここまで引き上げ、育ててきた事実は、夏寧も否定できない。彼は、組織の中で己の矜持を曲げず、現場の人間を守ってきた数少ない上司だった。側から見たら、世間的には問題のある発言をするデリカシーの無い中年男だが、その軽口は夏寧との間の長い信頼と、互いを理解し合う間柄だからこそ許されるものだと、夏寧は知っていた。
「お前の私生活がどうあろうと構わんが、仕事だけはきちんとやれ。お前は俺の片腕で、お前が潰れたら俺が困る」
その言葉にもどこか、夏寧への配慮が滲んでいた。
かつて、清水の上司や信頼していた同期の捜査官たちは、全て『死神』の手にかかり命を落としている。清水自身も、積み重なる仲間の死体に埋もれながら、その犯行をただ見ていたという。
運良く生き残った彼が、その日から誰よりも、人一倍、死神拿捕に執念を燃やし続けている――そんな過去を、夏寧は以前一度だけ、酔った席で耳にしたことがあった。
普段の清水はそんな素振りは微塵も見せないし、過去を語ることもない。だが、その底知れない決意と、時に見せる瞳の奥の冷たい炎こそが、彼が警視正になっても現場を離れない最大の理由だと、夏寧は確信していた。
雨上がりの風が吹き抜け、規制線がかすかに揺れる。
私生活で味わったばかりの冷たい虚無感が、この血の匂いのする仕事に引きずり込まれていく。
「それより――ついに現れたんですね。蒼の死神が」
清水は眉をひそめる。「ああ。ここしばらくは三巴の犯行ばかりだったが、今回は死神だ。マル暴が潜入してマークしていた指定暴力団の幹部たちが、全員やられた。混ぜっ返しやがって……まったく、参っちまう」
軽口のようでいて、目の奥には疲労が滲んでいた。
夏寧と清水が所属するのは、警視庁公安部――その内々で編成された非公開の“特別捜査班”。本来は過激派やテロ対策が主務だが、常識では説明のつかない異常事案を専門に捜査する。
その関連と見られる事件は、公式記録から切り離され、この班に丸ごと落ちてくる。刑事部の初動は形だけ。以後は公安の密行に付け替えられる。ここから先は、表には出ない捜査だ。
老舗料亭『赤坂・松月』の離れの奥座敷。現場検証の靴音が、敷かれた畳の上に乾いた反響を返す。
座敷には、合計で十の影が倒れていた。喉を一文字に断たれた者、眉間に一点だけ穴を穿たれた者――いずれも一撃必殺、無駄がない。
「……死神の犯行ですね」夏寧は表情を変えずに遺体の損傷具合を確認していく。「三巴とは明らかに違います」
三巴の鬼――それは、ここ最近突如として東京の闇に現れ始めた、連続殺人鬼だ。
犯行現場には、人間の腕力ではありえない圧倒的な破壊の痕跡が残される。遺体は単なる刺殺ではなく、骨格が粉砕されていたり、壁に叩きつけられる形で潰されていたりする。
さらに、現場の一部は高熱に晒され、金属が溶けたり、遺体の一部が衣服ごと瞬間的に炭化している。
そして何より、被害者の血や煤を使って、現場に三つ巴の紋様を残すのが特徴だ。
その姿はとても背が高く、黒い鱗のような肌をして、ツノが生えている。まるで鬼のような見た目だったという目撃証言もあり、三巴の鬼と呼ばれている。
対して死神の犯行には、そうした無駄も、余計な痕跡もない。その殺しには、ただただ冷たい殺人のプロの技術だけがある。だからこそ今回の事件は、死神によるものだと断定できたのだ。
「清水警視正、藤田隊長!」
駆け寄ってきたのは、公安部所属の後輩・
「どうした、サイズ」清水は流し目で応じる。名前がそのままあだ名になっている男だ。
「現場近くのホテルから、若頭派の組員たちの遺体が見つかりました」
「そっちも死神の仕業ってか」
「ええ。ただ、若頭の身元だけ行方が不明だそうです」
「若頭? ホトケの中にいなかったのか?」
「はい。先ほど鑑識と一課が全遺体の身元を確認し終えたので、確かかと」
「警視正、つまり……」と夏寧。
清水は苦い顔をして頷いた。「ああ。この件は若頭が仕組んだんだろう」
「ということは、若頭はもう……」
夏寧は言葉を飲み込んだ。この殺人を若頭が依頼し、蒼の死神が実行したのなら、これまで通り、依頼主は軒並み行方不明となり、その足取りを掴めたことはない。つまり依頼主である若頭も既に『消された』可能性が高い。発見される可能性も、限りなく低い。
清水が短く言い切った。「こいつは『標的の殺し方』も『依頼人の消し方』も、本物の蒼の死神だ。いつも通り記者には出さない。押さえは公安で引き取る。いいな」
夏寧は小さく息を吸い、遺体袋に詰められていく男たちを黙って見つめた。
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