第5話 最後の客

 ある朝、ベルが鳴らなかった。ベルが鳴らないことが特別なのかどうかは、最初はわからなかった。僕は豆を挽き、お湯を沸かし、コーヒーを淹れた。誰も来ないのにコーヒーを淹れるのは無駄に見えるかもしれないが、無駄かどうかは重要ではなかった。僕はただ手順を繰り返した。


 窓の外の曖昧さが少し変わっていた。曖昧さの濃度が薄くなっているように見えた。向こう側に輪郭が見えそうで見えない。僕はそれを見続けたが、目が慣れることはなかった。


 昼頃、扉の向こうに影が見えた。ベルは鳴らなかった。影はゆっくりと中に入ってきた。昨日までの客とは違う歩き方だった。歩き方に迷いがなかった。


 その人は、僕自身だった。そう見えた。だが完全に同じではなかった。僕より少し年上に見え、目の疲れ方が深かった。彼は僕を見ると、頷いた。僕も頷いた。頷きは会話よりも便利だった。


「コーヒーはある?」

 彼は言った。

「ある」

「じゃあそれを」


 僕はコーヒーを淹れた。手が震えることはなかった。彼はカップを受け取り、飲んだ。飲み方は僕と似ていた。彼は飲み終えると、棚の下の地図のほうを見た。僕は地図を取り出し、テーブルの上に広げた。


「端は動いた?」

 彼が聞いた。

「少し」

「少しで十分だ」


 彼はそう言った。十分という言葉の基準はわからなかった。わからないまま、僕は引き出しを開けた。金属片とリボンと数字の紙片を取り出し、テーブルに並べた。彼はそれを見て、何も言わなかった。


「これは何?」

 僕は聞いた。

 質問してしまったことに気づいたが、止めなかった。

「ただのものだ」

 彼は言った。

「役に立つ?」

「役に立つかもしれない。役に立たないかもしれない」


 それは、ここでよく聞く形式の答えだった。彼はリボンを指で触れ、次に金属片を触れ、最後に数字の紙片を触った。数字は「17」だった。彼はそれを少し眺め、紙片を裏返した。裏には何も書かれていなかった。


「帰る?」

 彼は聞いた。

「帰るってどこに」

「君が元いた場所だ」


 元いた場所。僕はそれを想像しようとした。だが、具体的な街並みや部屋は浮かばなかった。浮かんだのは、コーヒーの匂いと、朝の走り始めの空気だけだった。僕はその二つを「場所」と呼べるのかどうか迷った。


「君はここに残る」

 彼は言った。

「僕が?」

「君は君だ。だが、君はここに必要だ」


 必要という言葉は、意味が強いはずなのに、ここでは薄く響いた。僕は反論しようとしたが、反論の材料がなかった。材料がないことが、反論しない理由になった。


 彼は立ち上がり、扉のほうへ向かった。ベルは鳴らなかった。扉の向こうは、少しだけ輪郭を持っていた。輪郭の向こうに何があるのかはわからなかったが、「ない」感じは薄れていた。


「最後にひとつ」

 彼が言った。

「なに」

「コーヒーは、うまかった」


 それは評価だった。評価はここでは珍しかった。僕は「そう」と答えた。そうとしか言えなかった。彼は出ていった。ベルは鳴らなかった。


 僕はテーブルに残された物を引き出しに戻した。戻す順番は適当だった。地図は棚の下に戻した。窓の外はまた曖昧になり始めていた。濃度が戻っていくのがわかった。世界は、変わるようで変わらない。


 そのあと、客は来なかった。来ない時間が長く続いた。僕はそれでも毎日コーヒーを淹れた。淹れて、すすった。味はいつも少し違ったが、僕は違いを気にしなかった。気にしないことが、ここでの仕事の核心なのかもしれないと思ったが、結論は出さなかった。


 世界の端は、今日も端だった。ここより先があるのかないのかは、まだわからない。わからないまま、僕はカップを置いた。理由はなかった。ただ、そうする手順だった。

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世界の端でコーヒーを淹れる仕事 nco @nco01230

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