第4話 帰れるかもしれない話

 ある日、客が来た。いつもより身なりの整った男だった。服は上等そうで、靴も汚れていなかった。だが目だけは疲れていた。疲れはここに来る人の共通項なのかもしれないと思った。思っただけで、確かめはしなかった。


「君はここで何をしている?」

 男はそう聞いた。

「コーヒーを淹れてる」

「それは見ればわかる」


 男はコーヒーを注文し、砂糖もミルクも入れなかった。飲み方は丁寧だった。彼は飲み終えると、引き出しの方向を見た。見えないはずの場所を見ているようだった。


「物が集まっているだろう」

「少しずつ」

「それは、集めているのではなく、集まっている」


 彼の言い方は説明的だったが、説明の核心は避けていた。僕は頷いた。頷く以外にすることがなかった。


「帰りたいか?」

 男は聞いた。

「帰れるの?」

「帰れるかもしれない」


 その言い方は曖昧だったが、ここでは曖昧さが標準だった。僕は自分が帰りたいのかどうかを考えた。考えたが、結論は出なかった。帰りたいという感情は、具体的な景色と結びついていなかった。


「帰還には条件がある」

 男は言った。

「条件?」

「揃うべきものがある。君の引き出しの中のものだ」


 僕は引き出しを開けた。金属片とリボンと数字の紙片があった。ほかにも、客が置いていった小さな物がいくつかあった。ボタン、石、折れた鉛筆。どれが揃うべきものなのかはわからなかった。


「全部必要?」

「全部ではない。だが君は選べない」

「誰が選ぶ?」

「選ばれる」


 男はそう言った。意味は理解できそうでできなかった。僕は理解できないことに慣れ始めていた。慣れは、理解よりも生活に向いている。


「君はここを出ないほうがいい」

 男は言った。

「どうして」

「質問しないでください、だ」


 彼は紙の文章を引用するように言った。それが冗談なのか忠告なのかはわからなかった。男は立ち上がり、扉のほうへ向かった。出ていく前に振り返った。


「世界の端は、端のままではいられない」

 彼は言った。

「動く?」

「変わる」


 男は出ていった。ベルが鳴った。僕は引き出しを閉めた。棚の下の地図を取り出し、広げた。線は相変わらず途中で終わっていた。端の向こうは白かった。白い空白は、説明よりも正直に見えた。


 その日、客は来なかった。僕は何度もコーヒーを淹れ、飲んだ。飲むたびに味は少しずつ違ったが、違いを説明しようとは思わなかった。夜、僕はベッドに横になり、天井の白さを見た。白さは変わらなかった。

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