6:『元警備員との接触(後)』

 画面に、監視カメラの映像が映し出された。

 モノクロの、粗い画質。画面の右上には日時が表示されている。


『令和██年4月15日 23:17:42』


 映っているのは、病院の廊下だった。

 長い廊下。左右に病室のドアが並んでいる。天井の蛍光灯が、等間隔に光を落としている。人の姿はない。


「これが3階東病棟の廊下だ」


 ██さんが、低い声で言った。


「この日の夜、俺は巡回中に人影を見た。記録にも書いたろう」


 私はうなずいた。巡回じゅんかい記録の内容を思い出す。


『23:20 廊下奥の個室(3E-01号室)前に人影』

『23:21 近づくと人影消失』


 画面の中では、何も起きていない。ただ、廊下が映っているだけだ。

 時刻表示が進んでいく。


 23:18:15。

 23:18:30。

 23:19:00。

 何も起きない。


 私は画面を見つめ続けた。


 23:19:45。

 廊下の奥、画面の左端に、何かが映った。


「——」


 一瞬だった。

 人の形をした、黒い影。

 それが、廊下の奥に立っていた。


「止めてください」


 ██さんがリモコンを操作し、映像が止まった。

 画面の中で、影は静止している。

 廊下の一番奥。3E-01号室と思われるドアの前。そこに、人影が立っている。

 だが、おかしい。

 影には、輪郭りんかくがない。

 人の形をしているのに、どこからどこまでが影なのか、判然としない。まるで、闇が人の形に凝縮ぎょうしゅくしたような——。


「顔が見えるか?」


 ██さんの声が、震えていた。


「見えません」

「そうだろう。俺も何度も見た。何度見ても、顔だけが分からない」


 私は画面に近づいた。

 確かに、顔があるべき位置には何もない。黒い影が、そこだけぽっかりと抜け落ちている。

 いや、違う。

 抜け落ちているのではない。

 そこには、もっと深い闇がある。


「再生してください」


 ██さんが、再びリモコンを操作した。

 映像が動き出す。


 23:19:47。

 影が、動いた。

 ゆっくりと、こちらに向かって歩き始める。


 足音は聞こえない。監視カメラには音声機能がないのだろう。だが、映像の中で影は確かに歩いている。一歩、また一歩と。


 23:19:52。

 影が、廊下の中央まで来た。

 そこで、立ち止まった。


 23:19:55。

 影が、カメラのほうを向いた。

 顔がない。

 なのに、こちらを見ている。

 それが分かる。

 見られている。

 画面越しに、見られている。


「——っ」


 私は思わず、後ずさりした。

 心臓が、激しく鳴っている。

 画面の中で、影はまだこちらを見ていた。


 23:20:03。

 影が、口を開いた。

 顔がないのに、口だけが見えた。

 黒い穴が、ぽっかりと開いている。

 何かを、言っている。

 音声はない。だが、唇の動きが分かる。

 二音節。

 繰り返している。

 何度も、何度も。


「わた……ぬき……」


 私は、無意識にその言葉を口にしていた。


「違う」


 ██さんが、鋭い声で言った。


「それは、あいつの名前じゃない」

「え?」

「あいつが言ってるのは、名前を呼んでるんじゃない。名前を聞いてるんだ」


 私は、画面を見た。

 影の口が、まだ動いている。

 よく見ると、確かに違う。

 「わたぬき」と言っているのではない。

 「なまえを」と言っている。


 「なまえを、おしえて」


 23:20:15。

 影が、突然消えた。

 画面には、誰もいない廊下だけが映っている。


「ここで映像が乱れる」


 ██さんの言葉通り、画面にノイズが走った。

 砂嵐のような映像が数秒続き、そして——


 23:20:23。

 映像が復帰した時、影は廊下の反対側にいた。

 カメラのすぐ近く。

 画面いっぱいに、顔のない顔が映っている。


「——!」


 私は悲鳴を上げそうになった。

 影が、カメラをのぞき込んでいる。

 顔がない。

 なのに、笑っている。

 口だけが、三日月のように歪んでいる。


 23:20:25。

 画面が、真っ黒になった。


         ◆


 映像が終わった後、私たちはしばらく無言だった。

 ██さんが、テレビの電源を切った。


「これ以降、このカメラの記録は残っていない」

「壊れたんですか」

「分からない。翌朝確認した時には、カメラ自体は動いていた。でも、この夜の記録だけが消えていた」

「消えていた?」

「上書きされたのか、削除されたのか。技術的なことは分からない。ただ、俺がコピーしたのはここまでだ」


 ██さんは、DVDをプレイヤーから取り出した。


「この映像を見てから、俺は東病棟に近づけなくなった。巡回も、西病棟だけにした。上司には怒られたが、知ったことじゃない」

「他の警備員の方は?」

「同じだよ。誰も東病棟には行かなくなった。夜勤の時は、詰所から出ないようにしてた」


 ██さんは、DVDを段ボール箱に戻した。


「閉院が決まった時、正直ほっとした。これでもう、あの病院に行かなくて済むって」

「でも、辞めた後も夢を見るんですね」

「ああ」


 ██さんは、窓の外を見た。


「毎晩じゃない。でも、時々見る。暗い廊下の夢。誰かがいる夢。そして——」

「そして?」

「名前を聞かれる夢だ」


 ██さんは、私を見た。


「『なまえを、おしえて』って。あいつが、俺の名前を聞いてくる」

「答えるんですか」

「答えない。絶対に答えない。答えたら終わりだって、分かってるから」


 ██さんの声が、震えていた。


「でも、いつか答えてしまうんじゃないかって、怖いんだ。夢の中で、うっかり自分の名前を言ってしまうんじゃないかって」


 私は、何も言えなかった。

 私も同じ夢を見ている。

 そして夢の中で、私は既に——。


「あんた」


 ██さんが、真剣な目で私を見た。


「もう調べるのはやめろ。今ならまだ間に合う」

「間に合う?」

「あいつに、名前を教えていないなら。まだ引き返せる」


 私は、答えられなかった。

 四月朔日わたぬき

 その名前を、私は既に知っている。

 そして、夢の中で——。


「……遅いかもしれません」

「何?」

「私、夢の中で名前を聞かれた時、答えてしまったかもしれない」


 ██さんの顔から、血の気が引いた。


「覚えてないんです。でも、目が覚めた時、自分の名前を口にしていた気がして」

「…………」

「それって……答えたことになりますか?」


 ██さんは、答えなかった。

 ただ、悲しそうな目で私を見ていた。


         ◆


 農家を出る時、██さんは私に一つの封筒を渡した。


「これは?」

「あの病院で働いていた時に集めた資料だ。新聞の切り抜きとか、噂話のメモとか」

「いいんですか?」

「持っていてくれ。俺はもう、見たくない」


 ██さんは、玄関先で立ち止まった。


「一つだけ、言っておく」

「何でしょうか」

「あいつが欲しがっているのは、名前だ」

「名前?」

「あいつには、名前がなかった。だから、名前を欲しがっている。自分の名前を。他人の名前を」


 ██さんは、私の目を見た。


「『四月朔日わたぬき』というのは、あいつの本当の名前じゃない。誰かが勝手につけた名前だ。だから、あいつはまだ探している」

「何を?」

「本当の名前を。自分が何者なのかを」


 ██さんは、一歩後ずさりした。


「それを教えてやれる奴を、あいつは探しているんだ。自分の名前を知っている奴を」


 私は、その言葉の意味を考えた。

 四月朔日わたぬきは、本当の名前ではない。

 では、本当の名前は何なのか。

 そして、誰がそれを知っているのか。


「気をつけろ」


 ██さんは、ドアを閉めようとしながら言った。


「あいつは、名前を知っている奴のところに来る。名前を教えてもらうために」

「私は、あいつの名前を知りません」

「そうか」


 ██さんは、悲しそうに笑った。


「なら、いいんだが」


 ドアが閉まった。

 私は一人、農家の前に立ち尽くしていた。

 封筒を握りしめながら、考えていた。

 四月朔日わたぬきの、本当の名前。

 それを知っている人間が、どこかにいる。

 そして、その人間のところに、あいつは——。

 スマートフォンが振動した。

 匿名の送り主からのメール。


『映像は見ましたか。

 次は、あの動画を詳しく調べてみてください。

 肝試しで死んだYouTuber。

 彼が最後に見たものを。

 彼が最後に聞いた名前を』


 私は、空を見上げた。

 曇り空。太陽は見えない。

 なのに、誰かに見られている気がした。

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2025年12月28日 22:00
2025年12月29日 22:00
2025年12月30日 22:00

わ た ぬ き 浅沼まど @Mado_Asanuma

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