5:『元警備員との接触(前)』
元看護師への取材から三日が経った。
その間、私は
だが、核心には辿り着けない。
3階東病棟で何が起きていたのか。あの患者——
看護師も、派遣医師も、口を揃えて言う。「あそこには近づくな」「名前を覚えるな」と。
しかし、誰も具体的なことは話してくれない。話せないのか、話したくないのか。おそらく、その両方だろう。
私は別のアプローチを試みることにした。
警備員だ。
病院の夜間警備を担当していた人間なら、3階東病棟の異変を目撃しているはずだ。先日入手した警備員の
あの記録を書いた人物を探し出せれば、何か分かるかもしれない。
◆
警備員を探すのは、看護師や医師を探すよりも難しかった。
医療従事者は資格があるから、転職先を追跡しやすい。だが警備員は違う。閉院後、どこに行ったのか分からない。
私は
ほとんどは
だが、五社目で転機が訪れた。
「綾瀬総合病院? ああ、あそこか」
電話に出た男性の声が、
「うちから派遣してたよ。七年前まで」
「当時の警備員の方に連絡を取ることは可能でしょうか」
「さあ、どうだろう。もう辞めた人間だからな」
「お名前だけでも——」
「それは教えられない」
男性は言葉を切った。だが、電話を切ろうとはしなかった。
「……あんた、なんであの病院のことを調べてるんだ」
「祖父が、あそこで亡くなったんです」
沈黙。
「閉院の直後に。何があったのか、知りたくて」
電話の向こうで、男性が息を吐く音が聞こえた。
「……名前は教えられない。だが、一つだけ言えることがある」
「何でしょうか」
「あの病院の夜勤を担当してた奴は、全員辞めた。一人残らず」
「全員?」
「ああ。閉院の前に、次々と。理由は皆同じだ。『もう関わりたくない』『夜が怖い』」
男性の声が、低くなった。
「一人だけ、まだ連絡が取れる奴がいる。今は警備の仕事を辞めて、実家の農業を手伝ってるらしい。名前は言えないが——」
男性は、ある地区の名前を口にした。
「その辺りで聞き込みをすれば、見つかるかもしれない」
「ありがとうございます」
「礼はいらない。ただ——」
男性は言葉を切った。
「あんたも気をつけろよ。あの病院に関わった人間は、皆おかしくなる」
電話は、そこで切れた。
◆
男性が教えてくれた地区は、朔望市の郊外にあった。
田園地帯の中に、古い農家が点在している。人口は少なく、住民の顔ぶれも限られているだろう。聞き込みをすれば、すぐに見つかるはずだ。
私は車を走らせ、その地区に向かった。
最初に立ち寄ったのは、地区の中心部にある小さな商店だった。野菜や日用品を扱う、昔ながらの雑貨屋。店番をしていたのは、七十代くらいの女性だった。
「すみません、ちょっとお聞きしたいことがあるんですが」
「何だい?」
「この辺りで、以前警備員をしていた方を探しているんです。今は農業をしていると聞いたんですが」
女性は首を
「警備員ねえ……ああ、もしかして██さんのことかい?」
「お名前は分からないんですが、綾瀬総合病院で働いていた方で——」
その病院名を出した瞬間、女性の表情が変わった。
「……あの病院かい」
「ご存知ですか」
「知ってるも何も、この辺りじゃ有名だよ。閉院してから、誰も近づかない場所だ」
女性は声を潜めた。
「██さんなら、確かにあそこで働いてたよ。でも、辞めてからおかしくなっちまってね」
「おかしく?」
「夜、眠れなくなったらしい。昼間もぼんやりしてることが多くて。しばらく入院してたこともあったよ」
「今は?」
「今は落ち着いてるみたいだけど……あんた、なんであの人を探してるんだい?」
「祖父があの病院で亡くなったんです。当時のことを調べていて」
女性は、私の顔をじっと見た。
「……そうかい。気の毒にね」
彼女は店の奥を指差した。
「この道をまっすぐ行って、二つ目の角を右に曲がったところに、古い農家があるよ。██さんはそこにいる。ただ——」
「ただ?」
「あの人、あの病院の話をするのを嫌がるからね。無理強いはしないでやってくれ」
「分かりました。ありがとうございます」
店を出ようとした私の背中に、女性の声が追いかけてきた。
「あんたも気をつけな。あの病院には関わらないほうがいい」
何人目の警告だろう。
私はもう、数えるのをやめていた。
◆
教えられた場所には、確かに古い農家があった。
築五十年は経っていそうな木造家屋。庭には軽トラックが停まっており、納屋の前で誰かが作業をしている。
私は車を降り、その人物に近づいた。
「すみません」
作業をしていた男性が、顔を上げた。
六十代くらい。日焼けした肌に、白髪交じりの髪。農作業用の服を着ているが、体格は元警備員らしくがっしりしていた。
「何か用かい」
「
男性は、私を警戒するような目で見た。
「話? 何の話だ?」
「綾瀬総合病院のことです」
その言葉を聞いた瞬間、男性の顔から血の気が引いた。
「……帰ってくれ」
「お願いします。少しだけ——」
「帰れ」
男性の声には、怒りと恐怖が混じっていた。
「あの病院のことは、もう思い出したくない。誰にも話したくない」
「私の祖父が、あの病院で亡くなったんです」
男性の動きが、止まった。
「閉院の直後に。何があったのか、知りたいんです」
「…………」
「お願いします」
長い沈黙が流れた。
男性は、私の顔を見つめていた。何かを測るような、探るような目。
やがて、彼は小さく息を吐いた。
「……中に入れ」
◆
農家の
カーテンが閉められ、昼間だというのに電気が点いている。男性は私を
「茶も出さないが、
「いえ、お構いなく」
男性は——██さんは、しばらく黙っていた。何から話せばいいのか、考えているようだった。
「あんたの爺さん、何号室だった」
「304号室です。3階西病棟」
「西病棟か……」
██さんは、小さく頷いた。
「なら、直接見てはいないだろうな。あれを」
「あれ?」
「東病棟にいた、あの患者だよ」
私は息を呑んだ。
「3E-01号室の患者ですか」
██さんの目が、わずかに見開かれた。
「……どこまで知ってる」
「断片的にですが。意識不明の患者がいたこと。夜になると、その患者が廊下を歩いているのを見た人がいること」
「誰に聞いた」
「元看護師の方に。あと、当時の巡回記録も入手しました」
「巡回記録?」
██さんの顔色が、さらに悪くなった。
「あれを……誰がそんなものを」
「匿名で送られてきたんです。誰からかは分かりません」
██さんは、震える手で顔を覆った。
「……あの記録は、俺が書いた」
やはり、そうだったのか。
「もう誰にも見せないつもりだった。あの病院を辞める時に、全部処分したはずなのに」
「なぜ処分を?」
「怖かったからだよ」
██さんは、顔から手を離した。その目には、七年経った今でも消えない恐怖が宿っていた。
「あの記録を書いている時、俺はおかしくなりかけてた。毎晩、同じ夢を見た。暗い廊下の夢。誰かがいる夢」
「私も、その夢を見ています」
██さんは、驚いたように私を見た。
「あんたも?」
「はい。調査を始めてから、毎晩」
「…………」
██さんは、長い沈黙の後、口を開いた。
「見せたいものがある」
彼は立ち上がり、部屋の隅にある古い棚に向かった。棚の奥から、
「処分したと言ったが、嘘だ。捨てられなかった。捨てたら、何か悪いことが起きる気がして」
箱の中から、██さんは一枚のDVDを取り出した。
「これは、監視カメラの記録だ」
私は息を呑んだ。
「閉院の時に、全部消去されるはずだった。でも俺は、こっそりコピーを取っておいた。証拠として、いつか必要になるかもしれないと思って」
「見せていただけますか」
██さんは、DVDを見つめていた。
「あんた、本当に見たいのか」
「はい」
「
「それでも」
██さんは、小さく笑った。笑いというより、諦めに近い表情だった。
「そうか。なら、見せてやる」
彼はテレビの前に移動し、DVDプレイヤーに
「これを見たら、もう引き返せない。それでもいいんだな」
「はい」
██さんは、再生ボタンを押した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます