欠片だけが青い境界線

にわ冬莉

マイキャンディーポップ

 扉を開いた。

 重厚な、古びた鉄の重みが、ギギギと辺りに響く。

 ここは夢の中だ。

 だからこの目の前の青い扉も、その向こうに広がる景色も、すべては命果てる前に見る、都合のいい温かな幻想にすぎないのだろう──。



「はぁぁぁ? なんであんたがここにいるわけっ?」

 目の前に立っている少女は、相変わらずの口の悪さだ。けれど、それがいい。

「やっと会えたね、マイキャンディーポップ♡」

 何度気持ち悪いと言われても、これが愛の証だと胸を張る。

「うへぇ。またそれか」

 全身から嫌悪感をにじませる少女を前に、それでも怯むことなく攻め込む。

「ああ、そんな風に怒った顔も最高にキュートだ! ゾクゾクしちゃうっ」

「だからさぁっ! ほんとキモいんだけどっ!」

 はい、今日の「キモい」をいただきましたぁ! これでもう、思い残すこともない。


「なんでここにいるのよっ? どっか遠くに行くって出て行ったまま音信不通になってたのに……戻ってきたってこと? ……あれ? なんかおかしいな」

 眉をしかめたままだが、自分の安否に関する質問をしてくれた少女を前に、嬉しさがこみ上げる。こみ上げた嬉しさが、体中から駄々洩れてしまいそうだ。

「ぶえっ、ふごっ、マイ……スウィーティー! 俺のことをっ、そんなに思ってくれていたなんてっ。ズズズ」

 声に出してみれば、声だけではなく水分が漏れる。あちこちから。

「ぎゃー! きったな! 涙だけならまだしも、鼻水やめてよっ」

 鬼の形相でこっちを睨み付けてくるその瞳の中に自分の姿がある。ああ、こんなに幸せなことがあるだろうか! いや、ない! 断言しちゃう!


「やっべ、マジで可愛いなぁ。ほんとにさぁ~、ちょっとだけ、頭よしよしすんのとか、駄目かなぁ~?」

 ウルウルの目で迫ってみるも、あからさまに顔を歪められてしまった。アウトだ。完全なる、見まごう事なきアウト。

「だよなぁ。そりゃ無理だよなぁ。うん、わかってたよぉぅ。けどさぁ、こうやって間近で顔見てたらさぁ~、あまりにも可愛くてさぁぁ」

「うげぇ。ほんと最悪」

 そうだ。心底気持ち悪いと思っているのだろう。けれど俺にはわかる。ここまで俺を毛嫌いしているくせに、この場から立ち去ることなく、そこにいてくれる優しさを。そういう子なんだ。本当に愛らしくて、素直で、素晴らしい子なんだ。


「ああ、なんて素晴らしい! 俺のキャンディーポップちゃんは世界一だな!」

「だから、その海外ドラマかぶれ、なんとかなんないわけっ?」

 腰に手を当て文句を口にするが、少しだけ耳が赤く染まっているのを見逃すものか! 俺の戯言を聞き、照れているのだ! 照れてる天使! 照れ天使! おーまいえんじぇる!


「……マジな話さ、なんでここにいるの? ?」

 急にシリアスな顔になり、そう訊ねてくる少女に、俺はふっとニヒルな微笑みを返し、答えた。

「明日が明日に来ない日の夜の話を知っているか?」

「……は?」

「大きくて古い、鉄の扉だ。その扉を開けることができるのは、一生に一度だけ。あれ? 前にこの話……しなかったっけ?」

「知らないし! なにその、なぞなぞみたいな話はっ」


「えーっとな、夜になれば、朝が来る。明日は、今日の次であって、つまり夜の向こう側に明日があるわけだ。でも、明日が明日に来ない夜ってのも存在する。つまり、そういうことだよ」

「……は? ぜんっぜんわかんない」

 ムスッとした顔で、頬を膨らませる。ヤバッ! 破壊力マックス! かわゆ!

「……ちょっとぉ、怒ってる人間の顔見て顔の筋肉ダラダラにするのやめてくんない?」

 でれ~っとだらしない顔を向けているのがバレて、またしても怒られてしまう。ああ、俺のためを思って細かく注意してくれるその心配り! 最高に、愛じゃないか!

「好きだぞ」

 目をギンギンに開きそう告げると、半眼で無の表情を向けられた。


「……ま、今更そんなこと言われても、あれか、迷惑だろうけど」

 勢いに任せて好きだなどと口にしてしまったことを、恥じる。手放したのは自分の方だというのに、こんな風に未練がましく気持ちを押し付けるのは、よくない。うん、よろしくないな。

「ごめん、今のなし」

 俯いて手を合わせると、目の前で盛大な溜息を浴びせられる。


「はぁぁぁ。もうさ、ほんと、なにがしたいわけ? ずっと考えてんだけど、わかんないの」

 ああ、怒ってる。

 そりゃそうだよな。俺も同感だ。こんな中途半端で、困らせてばかりで、なのに忘れることもできなくて……未練がましいったらない。女々しいよな。……いや、女は悪くないのに女々しいってなんだか嫌な言葉だな。ジェンダーフリーな世の中で、女々しいなんて言葉、死語だろ?


 っと、それはさておき、俺はシュンと肩を落としたまま、上目遣いに少女を見た。もう、あまり時間がないから、やるべきことを済ませてしまわなければ。


「あのさ、俺っ」

「ちょっと待ったーっ!」

 せっかく本題に入ろうと意を決したというのに、即座にストップをかけられる。ああっ、なんだよもうっ。

「なんで止める!」

「あんたがそうやって真面目な顔するときって、大体いつもいい話じゃない。よって、私はこれ以上あんたの話を聞きたくはない」

 きっぱりすっぱり言い切られてしまう。うー。反論のしようもない俺の過去が憎い!

「いや、でもね?」

「でももへったくれもない!」

「またまたぁ、そんな冷たいこと言わないで、ちょ~っとだけお話聞いてほしいなぁ?」

 可愛くお願いしてみる。目をぱちぱちさせ、首を傾げ、手を合わせる。どうよこのあざといお願いポーズ!

「うぜぇ!」

 ……ですよねぇ。


「なぁ、ほんとに頼むよ! 一生のお願い!」

「はぁ? あんた今まで何度一生のお願いしてきたと思ってんの? 冗談じゃないわっ。もうあんたのお願いを聞き入れる耳は持ってないの!」

「ええええ、そんなこと言わないでよぉぉ。俺がこんなに可愛くお願いしてるんだよぅ? 今までのことはさ、一旦こっちに置いといてさ、まずは今日の俺の話をさ」

「聞かん!」

 フンッとそっぽを向くその横顔も、最高にいい……。俺は歪む口元をなんとかキリリと結び、真剣と書いてマジと読むくらいしっかりとした顔を向けた。


「……時間がない。こっちを向きなさい、紗英さえ

 俺は、世界一可愛い娘の名を呼んだ。



「なによ、そんな顔しちゃってさっ」

 俺の顔を見て、紗英がバツの悪そうな顔をする。ああ、俺の娘、どんな表情してても女神級の可愛さなんだが!

 ……というのは、一度置いておく。これから俺は、彼女に言わなければいけないのだから。とても、大切なことを。


「紗英、今まで沢山迷惑をかけてきたことはわかってる。本当に、申し訳なかったと思ってる」

 俺は体をグッと前に倒し、深々と頭を垂れる。こんな風に謝ったところで、とても許してなどもらえないことも理解しているが、それでも、伝えなければならない。

「……今更謝ってどうする気よ?」

「それは、わかってる。許してくれなんて言わないよ。ただ、これだけは知っていてほしい。俺は紗英のこと、心の底から愛して」

「はんっ、バカみたい!」

 話の腰をポッキリ折ってきた娘の声は、どこまでも冷たい。


「なによ、今になって父親面? あんたがしてきたことは、そんなに簡単に許されるようなことじゃないでしょ? お母さんが今までどんな気持ちでっ」

「母さんはっ……里美は大人だからな。もちろんちゃんと謝ったさ。許してくれなんて思っちゃいない。苦労を掛けたのは覆しようもない真実で、原因は俺なんだから。だから誠心誠意、謝った。ものっすごい怖い顔で睨まれたけど」

「……でしょうね」

「だから、今度は紗英に」

「私は謝られたくなんかない」

 バシッと謝罪を拒否。そうか。ごめんなさいすら受け取ってもらえないほど、俺は酷い父親だったんだなぁ。


「あんたね、お母さんが手に職で稼ぎまくってるのをいいことに、自分がなにしてきたのかちゃんとわかってる?」

「……はい」

 事業に失敗すること三回。そのたびに妻である里美に助けてもらい、四回目で愛想を尽かされそのまま失踪。娘の紗英とは、ほとんど一緒にいてやれなかった。可愛くて、宝物で、大切で……そう思っていたのに。


「で、今更なんであんたなのよ。私はてっきり、お母さんだとばかり」

「……は?」

「……は?」

 思わず顔を突き合わせる。

「紗英、なに言って……」

「だからぁ、扉の向こうにいるのはお母さんだと思ってたの! それなのにあんたがいるって、どういうことなのよ?」

「え?」

「は?」

 話が嚙み合わない。この可愛い娘はなにを言っているんだ? 扉?


「……あのな、紗英。扉を開けたのは俺なんだぞ? 紗英に繋がってるって、俺はわかってたし」

「え? なに言ってんの? 扉を開けたのは、私だけど?」

「……え?」

「だからぁ、私が開けたのっ」

「えええええ!? そんな馬鹿なことあるかっ。この扉がどういうものなのか、紗英は知らないだろうっ? これはなっ、明日が来ない夜のっ」

「ああもう、そのわけわかんない説明やめてよ! 要するに、死ぬ前に会いたい人に会うための扉でしょうっ? そのくらい、流れでわかるっつーの!」


 なんて賢い子なんだ! 教えてもいないのに、ちゃんと知ってるんじゃないかぁぁ! ああ、俺の子は天才だな。こんなに可愛くて、その上天才だ。天は二物を与えるんだなぁ……ぢゃない! さっきなんて言った? 私が開けた、って言ってなかったか? は? そんなはずないだろうっ!


「ななななな、なにを言ってるんだ紗英! 俺が開けたんだぞ? 最期にお前に会いたくて。ちゃんと謝って、そしてさよならを言おうとっ」

「……待って」

 紗英が手を伸ばし、俺の前に掌を差し出す。掌まで美人とは、罪深い。

「私が望んだ相手は、『私を助けてくれた人』なんだけど? ……私への臓器提供者はお母さんだって聞いてたんだけど? は? もしかして私、騙されてたってことぉ!?」

 拳を握り締め、わなわなと震え出す紗英は、ブラックホールに投げ込まれたのに、ピンク色のリボンで埋め尽くされてたみたいな可愛さを身に纏っている。


「あ~、それ、多分あれだな。俺の臓器を、なんて話をしたら紗英が断固拒否するだろうってわかってたから、里美が嘘ついたんだな」

「うがぁぁぁぁ! お母さん!」

 ここにはいない人間に向ける悪態。くぅぅ、腕を上げたな、紗英!

「当たり前じゃない! あんたが提供者だってなら話は別よ! こんな話、受けなかったわっ」

「だろ~? でもさぁ、そんな状況じゃなかったじゃないか。一刻を争う事態だった。だから、俺が適合者だってわかった時点で、もう選択肢なんかなかったわけだ」

「そんなのっ、それが私の運命だって言うなら甘んじて受け入れるっつーの!」

「そんなわけにいくか! 俺と里美の大事な娘が死の淵にいるってのに、見捨てる選択肢なんかあるもんか!」

「手術したって、助かる可能性は低かった! 大体、あんたは手術に耐えうるような体じゃないでしょうが!」

 ああ、神様! 俺の可愛いパンプキンパイが、心配をしてくれている! こんな幸せがあってもいいのか!


 ……そう。よく人からは「心臓に毛が生えてる」と言われる俺だが、実は病弱。心臓に爆弾を抱えている上に、珍しい血液型のせいで輸血もままならない。だから手術どころか、ほんのちょっとの怪我でも大変なことになるのだ。しかしあの日、妻からの連絡を受けた時、俺は一も二もなく病院に駆け付けた。紗英のためならなんでも差し出す。命など惜しいはずもない。雪崩に巻き込まれたら、全部マシュマロだったくらい可愛んだぞ?


「……ちょっと、私怒ってるのに、なんで笑いながら泣いてんのよ? マジキモい」

「だってぇ。紗英が俺の体を思い遣ってくれるなんて……もう死んでもいい!」

 言ってから、気付く。

「あ、俺死んだわ」

 そうだった。

 ここはこの世とあの世の境目だ。(多分)


 この重厚な青い扉は、死ぬ前に最期に会いたい人の元へと繋がる扉。昔なにかで読んだことがある、神様からの最後の贈り物。いや、誰かに聞いたんだったか?


「いいか紗英、俺はやっぱり手術には耐えられなかったらしい。ふわ~んと体から抜け出した俺は、手術台の上で横たわる自分の姿を見た。そしてこの扉が現れた。だからな、願ったんだ。紗英に……せめてさよならだけでも、って」

 駄目な父親だった。不甲斐ないことばかりだ。だけど、それでも伝えたかった。愛している、と。ずっと、俺の宝だったと。

「つまり、これは俺の扉だ」

 バンと扉を叩き、言い切る。


「……それが、そうでもないのよねぇ~」

 腕を組み、斜に構えた紗英が扉に凭れ掛かる。

「どういうことだ?」

「私も死んだみたいだから」

「は?」

 まさかの発言だった。紗英が、死んだ?

「私も見たの。寝台の上にいる自分を。つまり……手術は失敗だったってことね」

 紗英の言葉に、俺は死んでいるにもかかわらず、血の気が引いていくのを感じた。



「嘘だと言ってくれよぉぉ」

 目と鼻からみっともなく液体を垂れ流しながら崩れ落ちる俺を前に、さすがの紗英も、神妙な面持ちで俯く。

「お母さんに……申し訳ないよ」

「えぐっ、ひっく、うえぇぇ……紗英のいない世界なんて、説明書を全部読んだあとに“本体別売り”って気付くくらい滑稽で残酷なテーゼじゃないかぁぁ」

「……意味わからん」

 紗英が眉を寄せた。

「お母さん、大丈夫かな。私だけじゃなくあんたまで、なんて。せめてあんただけでも生きてたら、少しは気が紛れただろうに」

「そんなわけないじゃないかぁ! この場合、死ぬのは俺だけでよかったんだっ! 紗英は生きて、お母さんと二人で幸せに生きててくれれば、それが一番のハッピーエンドじゃないかっ」

「それがさぁ、そうでもないっていうか……」

「へ?」

 紗英が迷っているかのように視線を細かく動かし、最後に俺を見る。


「私にはまったく理解できないけど、お母さんさぁ、あんたのこと好きっぽいし」

「ほぇ?」

 情けない声で聞き返す俺に、紗英が続けた。

「あんたが家を出て、もう二年? 私、何度も『離婚したらいいのに』って言い続けてたんだよねぇ」

 ……当然だろう。勝手に家を飛び出し、しかも飛び出した理由は四度目の事業の失敗なのだ。里美の、心底呆れ果てたあの顔を、俺は忘れない。自分が本当に情けなくて、惨めで、いたたまれなかった。俺は……逃げたんだ。


「でもさ、お母さんは頑なに離婚しようとしなかった。理解できなかったけど、リビングに飾ってる家族写真眺める目がさぁ……優しいんだよねぇ」

「優しい?」

「そ。なんていうか、愛おしそうな目っていうか。それ見てると、ああ、まだ好きなのかなぁ、って思えてさ」

「うおおおおお、ざどみぃぃぃ」

 俺はその場に膝を突き、突っ伏して、泣いた。

「ったく、みっともないなぁ」

 紗英がしゃがみこんで、話を続ける。

「だからさ、あんただけでも生き残ってれば……」

「やだやだーっ。紗英が生きててくれなかったら俺が生きる意味なんかないだろうっ? 俺はっ、俺は誰も幸せにできない男だぞ!」

 言い切った!

「威張るな、アホ!」

 ぺしん、と紗英に頭を叩かれた。


「とにかくっ」

 紗英は立ち上がると拳を握り締める。

「二人でくたばっちゃ、まずい! ねぇ、ここから引き返すことってできないのかな?」

「引き返す?」

「あんたさっき、言ってなかった? 明日がどうとか夜がなんとか」

「ああ、『明日が明日に来ない日の夜』のことか?」

「そう、それ! 明日がくればいいわけじゃん、要するに」

「いや、だからそれは……」


 あの鉄の扉は、死にゆく人間が最期に会いたい誰かのところへ向かうための扉。つまり、扉が現れた時点で、死んでるってことに……いや、待てよ?

「紗英、帰れるかもしれん!」

「え、マジでっ?」

「ああ、この扉は、一人一回一扉のはずだっ。しかしここには扉が。つまり、俺か紗英、どっちかは死んでない!」

「……そう……なの?」

「多分!」

「たぁぶぅん~っ?」

 ものすごい形相で睨まれた。だけど、俺だって死んだことないもん、わかるわけないじゃんよぉ! 大体、この扉が現れたのだって驚きだったんだ。本当にあるんだなって。大事な人にさよならを言いに行ける、奇跡の扉。


「いや、ま、大丈夫だと思う。うん。だからほれ、紗英、帰りなさい」

「は?」

「だってこれは俺の扉だから」

 バン、と扉を叩いて見せる。が、

「なに言ってんの? これは私の扉だし!」

 バンバン、と紗英が扉を叩き返す。

「違う! これは俺のだぞっ」

 バンバンバン

 バンバンバンバン

 バンバンバンバンバンバンバン


「うっるさぁぁい!」

 紗英が怒って俺に突進し、胸倉を掴んでくる。なんだこれっ、この距離感! なにかのご褒美なのかっ?

「あんたがそこまでしつこいならさっ、そりゃ、私が戻るわよ! あんたが戻るより私が戻る方が、お母さん喜ぶって知ってるしぃぃ?」

 イーッと顔をしかめてくる紗英。


「……紗英、里美によろしく伝えてくれ。くたばるのが遅くなってごめん、って。こんな俺と一緒にいてくれて、紗英という宝物をくれて、ありがと、って」

「それは……」

 紗英が俺の胸倉を掴む手に力を込める。グイッと引き寄せたかと思うと、次の瞬間俺の体はふわりと宙に浮かんでいた。

「直接お母さんに伝えてこ~い!」

 ブンッという空気の擦れる音がして、俺の体は、落ちた。


 ……落ちた?


 なんで落ちる感覚がこんなに長いんだ? 紗英に投げ飛ばされただけなら、もう地面に届いてる頃だろう? 地面……? いや、さっきまで俺たちがいた場所はどこだった? 地面なんか、あったか?


 落ちていく俺が最後に見たのは、崖の上のような場所から、落ちてく俺に手を振ってる紗英の笑顔と、その向こうに聳え立つ大きな青い扉だった。

 嘘だろ……?

「俺のハニーメイプルシロップぅぅぅ!」


 俺が堕ちるべきは、地獄だ──。



「……目、覚めた?」

 頭上から聞こえてきた声は、俺のよく知る人物からのものだった。

 ぼんやりとした頭で、記憶を辿る。視線を巡らし、ここが病院であることは理解した。目の前で難しい顔をしている美人は、里美。勘違いでなければ、まだ俺の妻だ。それで……、


「……ここが、地獄?」

 呟いた瞬間、赤鬼が俺のデコを思いっきり平手で叩いた。

「痛いっ」

「あんたねぇ、なにが地獄よ! 失礼なっ」

 美しい赤鬼は、しかし、次の瞬間真面目な顔で俺を見た。

「意識……戻ってよかった」

 俺は……生きているのか? 死んだはずでは……と、そこまで考えて、思い出す。


「駄目だ!」

 半身を起こそうとするが、里美に肩をトンと叩かれ、ベッドに撃沈する。体に全然力が入らない。

「馬鹿ね。意識が戻ったばかりで急に動かないでよ。大体、あんたどれだけの間寝てたかわかってんの?」

 里美よ。今の質問を聞くに、俺はのだろう? 寝ながら日にちの把握までは、さすがに難しいぞ? しかしそんなことを口にしたら、殴られるだけでは済まなそうなので、黙る。


「一週間も目を覚まさなかったのよ?」

「……そう、か」

 俺は、落とされた。地獄にではなく、この世に……。

「紗英は……なんであんなに強いんだ?」

 ぽつりと呟けば、里美が近くのパイプ椅子に腰かけ、俺を見る。

「は? 強いって……物騒な世の中だから、女の子も強くなければいけない、ってあんたが言ったんでしょ? だからあの子、格闘技を習って。そりゃ、強いわよ。だけど、それがなに?」

 なるほど、格闘技。そういや、そんな話を聞いたことがあった。学校で不良に絡まれてた子を助けたのはいいが、不良に怪我をさせて云々……。引っ掻いた程度だと勝手に思っていたが、骨折マジなやつだったか。


「だからって……だからってあんなっ、あんな場面で力を発揮すること……ないじゃんっ」

 こみ上げてくる涙を堪えることもできず、俺は情けなくも、エグエグと泣き出してしまう。そんな俺を見下ろしながら、里美が溜息を吐いた。そりゃそうだよな。俺なんか生きてたってどうしようもないのに。紗英がいなきゃ……紗英がっ。

「どんな夢見てたか知らないけど、相変わらず泣き虫ね」

「ざどみぃぃ、ごめんなぁぁ。俺が生き残るなんて、意味ないのにっ。紗英はっ……紗英は俺のことを庇って……俺が死ねばよがったぁぁ」

 おんおんと声を出して泣き始めた俺に、里美が冷たく言い放つ。


「ば~か」


 いくらなんでもそりゃないぜ、ハニー。俺は今、心臓抉られるほど悲しんでるんだ。それなのに、生き返った俺に対する言葉がそれなのかっ? ……いや、そうだな。その言葉、正しいよな。俺はなにを言われても仕方のない人間なんだ。そうだ! お前の気が済むのなら、もっと俺を罵倒すればいい!


「……もっと言って」

「は?」

「もっとキッツい言葉で罵倒してください」

 俺は、仮面を被り鞭を片手に持ち、ピンヒール履いた女王様に言うみたいなセリフを口にした。当然、里美の顔が虫けらを見るようなそれに変わる。

「ほんっと、その気持ち悪さは一生もんなのね」

 吐き捨てるように言われた。

「ご……ごめん、なさい」

 ヒック、ヒックと肩を揺らす俺に、里美が続ける。

「あんた、わかってないみたいだから言うけど、紗英も無事だから」

「……へ?」


 今、なんと?

 紗英が……?


「生きてるのかぁぁぁぁっ!?」

「うっさいなぁ! 当たり前じゃん。私を誰だと思ってんの? あんたも紗英も、ちゃんと生きてるわよっ。……ま、途中危なかったけど」

 腕のいい外科医として、界隈では有名な女医。それが俺の妻だ。今回の執刀も彼女がやると聞いていたから、俺はなんの心配もしていなかった。少なくとも俺はさておき、紗英の身になにかあろうはずはないだろう、と。だけど、扉の向こうで紗英があんなことを言うもんだから、俺はてっきり……。


「俺の……マロンショコラちゃんは?」

 辺りを見渡すが、ここは一人部屋だ。紗英の姿はない。

「あんたの、でもないし、マロンショコラでもないけど、紗英なら隣の部屋。問題ないわ」

「おおおおおん、ざどみぃぃ」

 縋りつこうとする俺を、里美がそのゴッドハンドで止める。頭を鷲掴みって……相変わらず男前だなぁ。


「ちょっと、うるっさいんだけど?」

 バンとドアを開け、入って来たのは……

「さ……ささささ紗英!」

 俺は今度こそ半身を起こした。くらっくらするが、これはきっと最大の推しである我が娘を目に焼き付けたがために、脳がスパークしたのだろう。

「ほら、急に起き上がったら倒れるわよっ」

 よろけた俺を、里美が支える。


「紗英……本当に、生きて……」

「生きてるわよっ」

「だって紗英、あの時さぁっ。俺だけが戻ってきちゃったのかと思って……うえぇぇ」

 泣きながら語る俺。しかし扉の話を、紗英は覚えているのだろうか?


「あんな扉、ぶっ壊してやったわ」

「へ?」

「なかったことにすれば戻れるんじゃないかな、って」

 なんてワイルドな! 俺の娘は異世界で勇者でも経験しているのかっ? 見た目は聖女様なのにっ!


「記念に欠片を持ってきたんだけどね、さすがに目覚めたらなくなってたなぁ。残念!」

 肩を竦める紗英を見て、俺は安堵した。安心しすぎて、そのまま気を失った。

「……ねぇお母さん、本当に、どうしてこんなのと結婚したわけ?」

 半眼で訊ねる娘に、里美が答えた。

「愛に命を懸けられるところ……かな?」

 命を救われたのは、紗英だけではないのだ――。



 俺は生き残った。地獄にも行けなかった。

 目を覚ましたその先にあったのは、天国だ。

 

 いつか、本当に最期が来たら……。

 その時はまた、命果てる前に見る、都合のいい温かな幻想の中で、扉の向こうにいるお前に声をかけるよ。

 その時まで、どうか見守らせてほしい。今度こそ逃げることなく俺は、俺の愛した二人のために生きて行こうと心に誓ったんだ。


「マイキャンディーポップ♡」

「うるさい、気持ち悪い!」



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