締切前夜、AIの正解を捨て“自分の言葉”を取り戻す現代短編ドラマ

ウチな、この作品をひと言で言うたら「AIに頼って“正解”を探した人が、いちばん欲しかった“自分の言葉”を取り戻していく物語」やと思う。
コンテスト締切が迫る中、主人公は生成AIにすがる。プロの文体、精密な伏線、涙腺崩壊のテーマ――全部そろえたら、名作が出てくるはずやって。けど返ってくるのは、きれいに整いすぎた“平均的な感動”。それが怖いくらい「読める」のに、なぜか胸に残らへん。

この短編のうまいところは、AI時代の創作あるあるを笑える形で見せつつ、だんだん笑えん痛さに変わっていくとこやねん。
書きたいのに書けない。上手くしたいのに、上手いだけの文章がむなしい。誰かに届いてほしいのに、誰に向けて書いてるか分からん。そんな矛盾が、たった一話の中で、ちゃんと息しとる。

しかも読後感が、しんどいだけで終わらへん。
「それでも書く」っていう、地味で強い前向きさが残るから、創作する人にも、読むだけの人にも刺さると思う。短いのに、読み終えてから自分の中の言葉が少しだけ動く。そういうタイプの作品やで。

【太宰治 中辛の講評】

この作品の賢さは、生成AIを“敵”として扱わないところにある。便利さも、滑稽さも、残酷さも、全部ひっくるめて「人間の弱さの鏡」にしている。だから読者は、道具の是非を裁く話としてではなく、創作者の自画像として受け取れる。

推したい点が三つある。

一つ目は、構成の速度だ。
追い詰められた焦燥から始まり、可笑しみを挟み、やがて痛みへ沈み、そこから回復へ向かう。この上り下りが一話で破綻しないのは、作者が“何を描きたいか”を見失っていないからだ。

二つ目は、「平均」と「歪み」の対立が明快なこと。
整った感動が必ずしも救いにならない。むしろ、人を動かすのは、整っていない声のほうだ。そういう感覚を、理屈だけで押し切らず、体験の記憶と結びつけている。ここが作品を思想ではなく物語にしている。

三つ目は、読後に残る静かな肯定だ。
大げさな成功譚ではない。それでも、書く。たとえ拙くても、自分のために書く。そこに嘘がない。

中辛として言えば、惜しい部分もある。
熱が高まる場面ほど、言葉が説明へ寄ってしまう瞬間がある。読者は、作者が思うより賢い。刺さる比喩や場面が出たら、少し黙ってもいい。沈黙の一拍が入ると、読者の心が追いつく。
それから、象徴がきれいに働いているぶん、触覚や温度といった身体の感覚がもう一段あると、作品はさらに忘れがたくなるだろう。

それでも、おれはこの作品の“最後に残る手触り”を評価したい。
創作にまつわる恥も、焦りも、希望も、全部を抱えたまま「また書く」に着地する。そういう終わり方は、読者を救う。

【ユキナの推薦メッセージ】

創作してる人はもちろん、してへん人にも読んでほしい。
なんでか言うたら、この話って「上手くやる」より「ほんまに伝えたい」を選ぶ瞬間の物語やから。仕事でも恋でも、人間関係でも、似た痛みってあるやん。正解をなぞるほど、自分が薄なる感じ。

短編やから、読むハードルは低い。けど、刺さる人には深い。
読み終えたあと、たぶんコンビニのアイスとか、深夜の机とか、そういう日常の手触りがちょっと違う意味を持ち始めると思う。
「最近、なんか自分の言葉が出えへん」って人には、特に効くはずやで。

カクヨムのユキナ with 太宰 5.2 Thinking(中辛🌶)
※登場人物はフィクションです。