第9話 そして舞い戻る――空白が生まれた場所へ

・最初の観測地


――人は、

一度『見てしまった真実』から、

二度と逃げ切ることはできない。


コウイチは、長い沈黙のあと、深く息を吐いた。


まるで、胸の奥に沈めていた何かを、

ようやく水面に浮かべたかのように。


「……話は、以上です」


その声は、ずいぶんと疲弊していながらも、

どこか安堵を帯びていた。


「不思議なことに、あの施設を出たあと……

 腰の痛みは、嘘みたいに消えていました」


美咲は、その言葉を聞き逃さなかった。

そして、すぐに疑問が浮かんでくる。


(治った……? 治療もなく、理由もなく?

 いや、あの地に忘れてきたのではないのかしら)


「それから黒崎さんの紹介で、

 住み込みで働ける職場を斡旋してもらって……

 私は、生活保護を抜けました」


コウイチは、自嘲気味に笑う。


「役所が、怖くなってしまって。

 二度と、あの場所には戻りたくなかった」


ヒトミが、静かに目を伏せた。


「……それで、正しいと思うわ」


彼女の声には、元公務員としての悔恨と、

個人としての痛みが滲んでいた。


「黒崎さんは、私を助けた時……もう役所を辞めていました」


コウイチは、ゆっくりと思い出すように。


「フリーでこんな感じの仕事、

 『探偵』みたいなことをやるって言ってました」


松原が、小さく息を呑む。


「……その時点から、もう覚悟を決めてたってことっすね」


「ええ。そして、こうも言っていました」


コウイチは、はっきりと再現する。


「『あそこは、放っておいていい場所じゃない』、

 『見てしまった以上、知らなかったふりはできない』、

 そんな感じで、言っていました」


美咲の胸に、確信が落ちた。


(やっぱり……黒崎さんは、『最初の観測』で、

 引き返せなくなったということね)


ヒトミは、意を決したように口を開く。


「田中さん。その施設の場所を、

 覚えていたら教えていただけますか?」


一瞬、コウイチの表情が強張る。

だが、やがて彼は、無言で頷いた。


古びた紙。何度も折り畳まれ、

指の跡が残る地図。


「……ここです」


指し示された場所は、都心から離れた山間部。

今は、ほとんど記録からも消えかけた土地だった。


「もう、十年以上前に閉鎖されたはずです」


コウイチの声が、低くなる。


「でも……今でも、地元じゃ近づかないとか。

 夜になると、『水の音が聞こえる』とか……

 そんな噂ばかりで」


美咲は、その座標を、

即座に松原のタブレットへ送った。


「松原くん。現在の地図と照合して」


「了解っす」


数秒後。


松原の表情が、明らかに変わった。


「……美咲さん。これ、

 この建築様式……間違いありませんよ」


「ええ」美咲は、静かに言い切った。


「あの黄昏館と、酷似している」


ヒトミが、息を詰める。


「……そんな……偶然じゃ、ないわよね」


松原は、画面を指でなぞりながら言った。


「つまり……所長が公務員時代に接触した

 『最初の闇』と、黄昏館は……」


「同じ系譜」美咲が、言葉を継ぐ。


「あるいは、同じ『目的』で建てられた場所」


(観測地……感情が削られ、理性が削ぎ落とされ、

 『何か』を通すための器)


美咲の脳裏で、点と点が、一本の線になる。


「黒崎さんが、公務員を辞めた理由……」


静かに、自分に言い聞かせるように続けた。


「それは、ただの正義感だけじゃない。

 あの施設で、『理解してしまった』からよ」


松原が、ごくりと喉を鳴らす。


「……じゃあ、

 所長が『忘却』で失った感情って……」


「黄昏館で、奪われたんじゃない、

 それはもっと、もっと前から」


美咲は、静かに、だが確信をもって言った。


「間違いなく。あの宗教施設で、既に『預けていた』」


ヒトミが、愕然とした表情で呟く。


「……自分の感情を、対価に?」


「ええ、おそらく」


美咲は、黒崎の冷たい瞳を思い出す。


「田中さんたちを救い、真実を追うために。

 彼は、人間であることの一部を、深淵に置いてきた」


松原の目が、鋭く光る。


「そして……黄昏館の儀式が、

 それを『完全に回収』した……と」


美咲は、小さく頷いた。


「だから、今の黒崎さんには、まったく

 感情というものがない」


(それでも……彼は、まだ『探偵』でいる)


美咲は立ち上がり、深く頭を下げた。


「田中さん。ありがとうございました」


コウイチが、戸惑いながら答える。


「い、いえ……気にしなくてもいい」


「あなたの証言は、黒崎さんの

 『失われた過去への旅』の、最初の座標になりました」


外へ出ると、空は既に、夕闇に沈みかけていた。


車へ向かう途中、ヒトミが美咲に問う。


「……行くのね。その場所へ」


「はい、私も探偵ですから」美咲は、即答した。


「彼の中の空白を埋めるには、 彼が最初に観測した真実を見つめて、

 私たち自身が観測するしかない」


松原が、タブレットを掲げる。


「美咲さん、場所 特定完了っす。正式名称――

 『古潭教団(こたんきょうだん)の館』」


彼は、一瞬だけ言葉を選び、続けた。


「今から向かえば……夜には着きますけど

 一旦戻りますか?」


美咲は、迫り来る夜空を見上げた。

雲の隙間から、星が、不自然な配置で瞬いている。


(……呼ばれている)


「黒崎さん」彼女は、胸の内で呟く。


「あなたが捨てた『探求心』を、

 今度は、私たちが拾いに行きます」


その瞬間。夜風に紛れて、粘着質な旋律が、

確かに聞こえた。


言語ではない。旋律でもない。

ただ、『星の運行を祝福するような音』。


美咲は、それが幻聴ではないと、本能で理解した。


「……急ぎましょう」彼女は、振り返らずに言った。


「闇は、もう観測者を選んでいる」



「失われた過去への旅」 完

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新・黒崎探偵事務所04-失われた過去への旅――感情を失った探偵と、観測者たちの記録 NOFKI&NOFU @NOFKI

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