第8話 旅の終着駅――観測者の始まり

・病院と聖堂――循環する檻


――救済を名乗る場所ほど、

騙され……人間は容易く『素材』に成り下がる。


コウイチの沈黙は、言葉以上に雄弁だった。


部屋の空気が、一段、重く沈む。


(……来る。ここから先は、『制度の歪み』じゃない)


美咲は、そう直感した。


「新しい担当の役人たちは……

 最初から、私を『人』として見ていませんでした」


コウイチは、喉を押さえながら続ける。


「腰の痛みを訴えても、『それは病気じゃない』、

 『気のせいだ』、『予算がない』……その繰り返しです」


「……典型的ね。制度上、『存在しない苦痛』」


ヒトミが、低く呟く。


「ええ。そして私は、次々と病院を回されました」


松原が顔をしかめる。


「セカンドオピニオン、どころじゃないっすね……

 まるで、たらい回しだ」


「検査をしても、原因は不明。

 治療はされない。ただ、『次へ』回されるだけ」


コウイチは、その『次』を思い出した瞬間、

身体をこわばらせた。


「……最後に連れて行かれたのが、

 『宗教施設』でした」


美咲の心臓が、嫌な音を立てる。


「宗教……施設?」


「ええ。『無料で面倒を見る』と。『病院より、心を癒せる』と」


(来た……病院と宗教の『循環』)


美咲は、黄昏館で辿った構図を、脳裏でなぞる。


「そこは、病院じゃありませんでした」


コウイチの声が、わずかに震える。


「古い洋館のような建物で……昼間でも薄暗くて。

 窓は、全部、外から見えないように塞がれていた」


松原が、唾を飲み込む。


「……隔離、っすか」


「ええ。中では、いつも香が焚かれていました」


ヒトミが、眉をひそめる。


「……どんな香り?」


「甘くて、でも、喉の奥がひりつくような……

 長く吸っていると、考えが、鈍くなる匂いでした」


(精神の鎮静……いや、思考の劣化)


美咲は、背筋を冷たいものが這うのを感じる。


「私は、そこに『預けられた』はずでした」


コウイチは、はっきりと言った。


「でも実際は……監禁です」

「か、監禁!? 通報とか……!」松原が、思わず声を荒げる。


「できませんでした。携帯は没収。

 外部との連絡は禁止。『治療の一環』だと」


「地下がありました」コウイチは、目を伏せる。


その一言で、空気が凍る。


「……地下?」


「ええ。大きな井戸のような空間です」


コウイチの指が、机の上で、無意識に円を描く。


「底は見えない。でも……水の音が、

 常に聞こえていました」


(『蠢く』音……)


美咲の脳裏に、『深淵の落書き』が浮かぶ。


「信者たちは、その井戸に向かって、紙を燃やしていました」


「紙?」


「幾何学的な模様が描かれた紙です。

 直線と曲線が、意味を拒むように絡み合って……」


(……間違いない)


美咲の胸が、早鐘を打つ。


(これは、あの『落書き』と、同系統の記号)


「そして、彼らは奇妙な歌を歌うんです」


コウイチの声が、掠れる。


「言葉じゃない。意味も分からない。

 でも…… 聞いていると、『自分が自分でなくなる』」


ヒトミが、震える息で問う。


「……あなたは、そこで、何を告げられたの?」


コウイチは、一瞬、言葉を失った。


「……『選ばれた』と」


沈黙。


「『あなた方の魂は、古き神々の器となる』と」


松原が、完全に言葉を失う。


美咲は、静かに目を閉じた。


(やっぱり……黒崎さんは、ここで『神話』に触れた)


「正直……そこから先の記憶は、曖昧です」


コウイチは、うーんと頭を押さえる。


「理性が、剥がれていく感じでした。

 名前も、時間も、どうでもよくなる……」


その時。


「――黒崎さんが、来てくれたんです」


空気が、一気に張り詰める。


「……!」美咲は、身を乗り出した。


「役所を、辞めていたはずなのに目の前に現れてくれた」


コウイチの声に、かすかな熱が戻る。


「まるで、探偵のようでした。一人で、

 あの施設に乗り込んできて……」


「無茶を……あの人らしい……」ヒトミが、唇を噛みしめる。


「黒崎さんは、私を見つけると、即座に判断しました」


コウイチは、その瞬間を、

鮮明に覚えているようだった。


「逃げるべきだ、って。でも……」


美咲が、息を詰めて尋ねる。


「でも?」


「施設の壁を見た時、彼、立ち止まったんです。

 そしてずっと静かに睨んで」


コウイチは、低く言った。


「よく分からない……変なマークを見て」


(やはり……)


「その時、彼は呟きました」


コウイチは、はっきりと再現する。


「――これは、『論理では解けない闇だ』って」


美咲の胸に、強烈な確信が走った。


(おそらくその瞬間だ。黒崎さんは、『探偵』なるしかなくなった。

 そして同時に、決して見てはならないものを、完全に観測してしまった)


コウイチは、最後に、こう付け加えた。


「……彼は、恐れていました」


「恐れ?」


「ええ。私を救うことじゃない。

 『自分が』何かに気づいてしまったことを」


その言葉が、静かに、しかし確実に、

次の扉をしずかに叩く。


(黒崎さん……あなたは、あの場所で、

 『何を理解してしまったの?』)


美咲は、深淵の縁に立っていることを、

はっきりと自覚した。



▶第8話へ続く

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