靡鑑麌


調査者:佐藤 美咲さとう みさき(民俗学研究室准教授)

調査日:一九七五年十一月二十三日

目的:行方不明者・田中康介助手の捜索および前回調査の検証


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### 一、経緯


 田中康介助手が黯浦村への単独調査から帰還しなくなって、三十七日が経過した。


 大学当局は当初、遭難と判断していた。しかし私は、彼が残した依頼書の写しを発見した。


 『住民は皆、同じ夢を見ている』


 この一文が、私を動かした。


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### 二、村の状況


 田中助手の報告通り、村は異様な静寂に包まれていた。人の気配はある。しかし誰も姿を見せない。


 集会所を発見。扉は開いていた。


 中には十数名の村人が円座を組んで座っていた。全員が目を閉じ、同じ方角を向き、同じ言葉を囁いていた。


 「……ビガンゴ……ビガンゴ……」


 そして、その中央に——


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### 三、田中康介の発見


 彼は生きていた。


 痩せ細り、髪は乱れ、衣服は汚れていた。しかし、確かに呼吸していた。


 彼の膝の上には、一冊のノートがあった。


 彼の手記だった。


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### 四、手記の内容


 最初の数頁は、学術的な調査報告の体裁を保っていた。


 しかし、頁を繰るごとに、文体は崩壊していった。


 日記になり、走り書きになり、断片的な叫びになり——最終的には、意味をなさない記号の羅列になっていた。


 そして、ある頁から先は、ただ一本の線が、震える筆跡で、何度も何度も引かれていた。


 一画。


 一画だけの、線。


 まるで、それしか書けなくなったかのように。


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### 五、手記の分析


 奇妙なことに気づいた。


 手記の後半に進むにつれ、使われている漢字が減っていく。


 最初は「鬱蒼」「蠢動」といった複雑な漢字も使われていた。


 しかし中盤では「声」「見る」「体」といった漢字が消え、ひらがなに置き換わっている。


 終盤では「た」「な」「だ」といった、ごく基本的なひらがなすら消えている。


 最後の判読可能な頁には、「く」「し」「の」「ひ」「る」「ん」——一画で書けるひらがなしか残っていなかった。


 まるで、何かに——認知能力そのものを——削り取られていったかのように。


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### 六、接触


 私は田中助手に声をかけた。


「田中さん。私です。佐藤です」


 彼はゆっくりと目を開けた。


 その瞳は、白濁していた。


 老婆たちと、同じ色。


「来たか」


 彼の声は、田中康介のものではなかった。もっと深く、もっと古く、もっと遠い場所から響いてくる声だった。


「お前も、夢を見るがいい」


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### 七、顕現


 その瞬間、私の意識は引き剥がされた。


 気がつくと、黒い水面に立っていた。


 足元は鏡のように暗く、頭上には星のない虚空が広がっていた。


 そして、目の前に、それがいた。


 ――靡鑑麌――


 その名が、直接、脳髄に刻み込まれた。


 形状は言語を拒絶する。輪郭は認識を侵蝕する。ただ、無数の眼だけが、青白く輝いていた。星のように。いや、星よりも遥かに冷たく、遥かに深く。


 『瞻望セヨ』 ※そう見えた


 その声が響いた瞬間、私の頭蓋の内側で、何かが動いた。


 細い針金のようなものが、脳の皺の隙間を這い回る感覚。


 そして——ぷつり、と音がした。


 何かが、断たれた。


 知性の弦が、一本。


 『汝ノ言語ハ瓦解シ、汝ノ記憶ハ霧散シ、汝ノ認識ハ融解スベシ』 ※その言葉を感じる


 また一本、断たれた。


 『汝ハ吾ガ眷属トナリ、永劫ノ夢ノ裡ニ棲マウベシ』 ※触れてはならないものに触れる


 脳を、細い刃物で削られる感覚。


 ざり、ざり、ざり。


 何かが、確実に、減っていく。


 私の中の何かが。


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### 八、帰還


 目が覚めた。


 集会所の床に倒れていた。


 田中助手の姿はなかった。村人たちもいなかった。


 私は一人だった。


 窓の外は——夜だった。


 月も星も見えない、暗い夜。


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### 九、現在


 この報告書を書いている。


 書けるうちに、書いておく。


 頭痛がする。


 いや、頭痛というより——脳の内部を、何かが這っている感覚。


 時折、ぷつり、と音がする。


 何かが断たれる音。


 私は何かを失い始めている。


 手記を読み返した。


 田中助手も、同じことを書いていた。


 彼は、最後まで書き続けた。


 書けなくなるまで。


 一画だけの線しか引けなくなるまで。


 私も、そうなるのだろうか。


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### 十、


 この報告書を読んでいる者へ。


 あん浦村に行ってはならない。


 「ビガンゴ」という名を口にしてはならない。


 そして——この報告書を、最後までよんではならない。


 


 なぜなら、名前を知ることは、にんしきすることだから。


 にんしきすれば、それは来る。


 それは、あなたを見る。


 あなたも、夢を見る。


 


 私のひとみは、今、少し白くにごり始めている。


 


 アタマの中で、声がする。


 「……ビガンゴ……ビガンゴ……」


 私も、ささやきたくなっている。


 ささやかずには、いられなく——

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靡鑑麌 脳幹 まこと @ReviveSoul

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