2.

 響子さんも交えての「レッドスパイダーリリー」でのひと時もあっという間に過ぎ去り、わたし達は慣れ親しんだ町へと戻って来ていた。

 響子さんとはバスの車内で別れ、その後は瞳ちゃんとの二人きりの時間をさりげなく楽しみながらの帰宅だった。

 バス停から先は、いつもの帰り道。日々の下校と同じ道を、同じ制服で、わたし達は歩いていた。

 もうすっかり暗くなり、「アマリリス」の音色も聞こえないような時間。

 外灯の淡い光が点々ときらめくいつもの公園まで来ると、そのまま解散もせずにわたし達は東屋に腰を下ろした。

 街で買った飲み物の残りを肴にして、ただただ同じ空間を共有するだけの時間。

 これまでだって楽しいことだったけれど、あの新月の日以降は、わたしにとってもっと特別なものだと思えるようになった。


「さてと、邪魔な狼もいなくなったことだし。ひとまず連休の計画を立てるために……これからちょっとだけわたしの家に行かない?」

「えっ……いいの?」


 驚くわたしをじっと見つめ、瞳ちゃんは微笑みを浮かべた。


「別れる前にちょっとだけ……の」


 囁くように求められて、断ることが出来るはずもなかった。


 瞳ちゃんの家は知っている。わたしの家から程近い場所にあるお屋敷だ。

 お父さんやお母さんの顔も知っているけれど、どうやら二人とも不在のようだった。荘厳な見た目ながら、それだけにお化け屋敷にも見えてしまう洋館。

 瞳ちゃんに誘われるままにその門をくぐり、大きな扉の中へと入ると、沈黙だけがわたし達を迎え入れた。

 瞳ちゃんが電気を付けると仄かに明るくなる。どこかレトロな赤い廊下とたくさんの扉が目に映った。


 このお屋敷は、小さい時に来たことがある。

 瞳ちゃんのお誕生会があって、クラスの友達何人かと招かれてお邪魔したのだ。小学三年生か、四年生の一学期か。今から六、七年前のことだ。

 あの中に、瞳ちゃんをハブった子がいたかどうかまでは覚えていない。


「わたしの部屋はこっち」


 そう言いながら進む彼女に続いていくと、二階の廊下の突き当りに大きな部屋があった。

 南向きの見晴らしのいいベランダがある部屋で、もう真っ暗だけれど海が見えることが分かる。

 瞳ちゃんが大窓をあけると、清々しい風が入り込んできた。


「本当はもっと前にお招きしたかったのだけれど──」


 瞳ちゃんはそう言うと、夜空をそっと見上げた。空には半分の月が見える。あれが上弦の月だ。すでに西側に傾き始めていた。

 瞳ちゃんはそんな月の姿を見つめながら続けた。


「今日の日までは自分の事が少し信用できなくって。それにね、心の準備もしたかった」

「心の準備?」


 問い掛けるわたしを、瞳ちゃんはちらりと振り返る。その眼差しに、緊張を覚えてしまった。

 赤い。目が赤く光っている。昔から感じてはいた、あの赤い光だ。

 一歩近づかれ、怯みそうになる。けれど、何とか逃げずにその場に留まると、瞳ちゃんはそのままぎゅっとわたしの両手を握り締めてきた。


「わたしと佳奈ちゃんはもう絆で結ばれている。二度と解けない固い絆だよ。わたしは佳奈ちゃんの事を裏切れないし、佳奈ちゃんもわたしの事は裏切れなくなる。たとえ、佳奈ちゃんがわたしの事を嫌いになったとしても──」

「わたし、嫌いになんてならないよ」


 思わず口を挟んでしまったわたしに笑みを漏らしつつ、瞳ちゃんは続けた。


「たとえば、の話。たとえ、そうなったとしても、わたし達はもう離れることができないの。運命なんてロマンチックなものじゃないかもしれない。だけど、わたし、あの新月の日の佳奈ちゃんの勇気を忘れないよ」

「……勇気?」

「あの三人に歯向かって、わたしを懸命に護ってくれたこと。わたしを見捨てずに、一緒に歩むと決めてくれたこと」


 握り締めてくるその手はひんやりとしている。いつもと変わらない、心地よい手の感触が、熱った体を優しく冷ましてくれる。そこにむしろ親しみを感じ、わたしは安堵感を覚えていた。

 あれが瞳ちゃんの言うように勇気と言えたのかどうかは分からない。その根底にあったのは、生粋の善意というよりも独占欲に近かっただろう。瞳ちゃんの為というよりも、わたし自身の為だった。それは間違いない。


 でも、その欲望が瞳ちゃんの命を救ったのならば、わたしはきっと間違ってなんかいなかった。

 だって、人間らしい幸せがこの先、望めなくなるのだとしても、瞳ちゃんがこの世からいなくなってしまう事の方がずっと不幸で悲しいことだから……そうとしか思えないのだから、これでよかった。……今はそう信じなければ。


「瞳ちゃん」


 ひんやりとしたその手を温めるように包み込み、わたしは瞳ちゃんの赤い目を見上げた。


「血を飲みたいんでしょう?」


 訊ねるわたしを瞳ちゃんはじっと見つめてくる。求めている、と思われるのは少々恥ずかしい。はしたないと思われてしまわないか怖くなる。それでも、どうしても期待してしまうものがこの触れ合いにはあった。

 瞳ちゃんは答える代わりに右手だけそっとわたしの手の抱擁からすり抜けると、静かにその指をわたしの左頬へと添えてきた。


 少しだけ温かくなった手が、零れ落ちるように下へと移動する。そのまま絆創膏で隠された痣に触れると、瞳ちゃんは小さい笑みを漏らした。襟元がずらされ、肌が剥き出しになる。

 ひんやりとした外気と瞳ちゃんの手の感触に、緊張感が増していくのが分かった。絆創膏が剥がされると、本能的な恐怖心もわずかに顔を見せてきた。

 それでも逃げる気にならなかったのは、この先に待っている甘美をもう知ってしまっているからなのだろう。

 息を飲むそのわずかな仕草が吸血鬼の本能を刺激したのだろうか。急に瞳ちゃんはわたしを強く引き寄せると、強く、強く、抱きしめてきた。吐息が首筋に当たる。もう何度も血を吸われてきた痣がうずうずしている。


「明日からしばらく……好きなだけ一緒にいられるんだね」


 口を付ける前に瞳ちゃんはそう言った。


「大好きだよ、佳奈ちゃん。絶対に……誰にも……渡さない」


 そして、柔らかくひんやりとした唇が、わたしの首筋の痣に触れた。


「あっ──」


 思わず声が漏れ出し、わたしは唇を結んだ。瞳ちゃんの腕にしがみつき、恐怖と快楽の渦に飲まれそうになるのを必死に耐える。

 あの新月の日以来、もう何度もしてきたことだ。けれど、今日は何かが違った。いつもは学校で、公園で、人目を避けるように抱き合い、時間をかけずに終わらせるせいだろう。

 瞳ちゃんを支えなくてはいけないという責任感と、誰かに見られていないかという不安がそこには常にあって、血を捧げることの悦びなんて感じる余裕があまりないのだ。

 しかし、今は違う。誰の目も気にしなくていい。

 二人きりで邪魔される心配もない。そんな安心感がわたしの心を解しているせいなのだろう。気を抜くと、この快楽の中に心も体も溶けてしまいそうだった。


 そんな悦びの中、平常心を保ち続けるのも難しかったのだろう。気づけばわたしは冷たい床に膝をついていて、瞳ちゃんに体を支えられていた。

 それだけじゃない。あんなに気を付けていたのに、体内の血が巡り、首筋から瞳ちゃんの口へと流れていくのを感じるたびに、声はどうしても漏れてしまった。

 いつまでそうしていたのだろう。もっと溶け合いたい。一つになりたい。そんな願いで心がいっぱいになった頃に、瞳ちゃんはわたしの首筋からそっと唇を離した。


「……佳奈ちゃん」


 名前を呼ばれ顔を上げると、そのまま唇を奪われた。燃えるように熱くなる体が、瞳ちゃんのひんやりとした肌に冷やされる。

 そのまま溶け合うように舌と舌が絡み合う。恍惚とした喜びの果てに、僅かに感じたのは血の味だった。

 わたしの血。この血が、瞳ちゃんの心と体を支えることになる。

 そう思うと嬉しかった。

 結局、途中からは恥ずかしいという感情も何処かへ行ってしまって、全てが終わった頃にようやく理性が戻ってから、赤面する羽目になった。

 脱がされかけた制服をそそくさと着直すと、血を吸って満足した瞳ちゃんがいつの間にか消毒液と新しい絆創膏をくれた。


「傷にはなっていないけれど、一応、綺麗にしとこうね」


 そう言って消毒液が首筋に垂らされるなり、ヒッと声をあげてしまった。沁みはしなかったけれど、とにかく冷たかったのだ。

 瞳ちゃんの手はどんなに冷たくても心地良いのに不思議なものだ。そう思っているうちに、新しい絆創膏がぺたりと貼られた。


「名残惜しいけれど、今日はもう解散だね」


 瞳ちゃんは時計を見ながらそう言った。その横顔、その全身。スカートを夜風になびかせながら佇む彼女があまりにも美しくて息を飲む。

 もっと一緒にいたい。そんな純粋な願いがこみ上げてくる。けれど、今日のところは帰らないと。


「……うん」


 小さく頷くと、瞳ちゃんは人間と変わらない眼差しをこちらに向け、微笑んだ。


「でもいつか、ここに泊まってほしいな」

「──え? いいの?」

「勿論。だけど、その日は特別な日にしようね。佳奈ちゃんの誕生日とか、わたしの誕生日とか……この先のお楽しみにとっておきたいの」


 秘密の計画を立てるように怪しく微笑む彼女の言葉に、わたしもまたわくわくしてしまった。わたしの誕生日は六月。瞳ちゃんの誕生日は九月。ゴールデンウィークが過ぎ去った後にもまた楽しみなイベントが待っているのだと思うと、生きること自体が楽しみになっていく。そのことを実感して、わたしは思わず瞳ちゃんに抱き着いてしまった。


「嬉しい……楽しみにしている」


 ああ、やっぱりわたしは間違ってなんかいなかった。

 今はただ、鬼塚さんたちから瞳ちゃんを護り切れたことが誇らしくてたまらない。


「それと、よかったらさ」


 と、感動に声を震わせながら、わたしは瞳ちゃんに言った。


「わたしの家にも遊びに来てね。それにも他にも……色んな所に一緒に行こう。瞳ちゃんと一緒に思い出をたくさん作りたいの」


 小さな頃からの将来の夢でも語るような気持ちで、わたしは瞳ちゃんを見つめた。まず待っているのは明日から七日間のゴールデンウィークだ。

 何処へ行くのも、何をするのも、きっとふたり一緒ならば楽しいに違いない。だって彼女は、わたしの愛しい瞳ちゃんなのだから。


 わたしの誘いに応える代わりに、瞳ちゃんは小さな声で呟いた。


「あの恐ろしい予言が外れてくれてよかった」


 小学生の頃の思い出。本気で怖がっていたあの終末予言。

 鬼塚さんたちのような退魔師が実は暗躍していたなどと響子さんが言っていたのは本当だろうか。

 いずれにせよ、世界は滅ばず今日まで続いている。その喜びを胸にし、ふと、わたしは思い出したことがあって瞳ちゃんに訊ねた。


「そういえば、瞳ちゃん。あの時、何か言いかけていたよね。『もしも、あの予言が外れてくれたらさ──』って。あれってあの後、何を言おうとしていたの?」


 長年の謎をぶつけてみるも、瞳ちゃんは静かに目を細めるばかりだった。そして、しばしの沈黙の果てに、ごく小さな声が返ってきた。


「……もう忘れちゃった」



 翌日……二〇〇四年四月二十九日。

 当時はみどりの日だった祝日の朝。

 わたしは勉強道具と宿題の束をひとまとめに鞄に入れ、家を出た。向かうのはいつもの公園。

 瞳ちゃんがそこで待っている。連休初日に宿題を全て片付けてしまおうという彼女の計画に従うのが今日の目的だ。

 温かな日差しのもとで公園へと向かうと、東屋にはすでに日傘をさした少女が待っていた。


 ──瞳ちゃん。いつもの制服ではなく、在りし日を思い出すような赤い服を着ている。その色合いが周囲の景色によく映えて、とてもしっくりくる。

 赤色が抜け落ちて、かつては味気なく感じていたこの世界が、今では赤色が戻ってきて華やかに見えて仕方がない。

 その変化に驚きと幸福を覚え、噛みしめながら、わたしは瞳ちゃんのもとへと駆け寄った。


 かつて赤は瞳ちゃんの色だった。

 でも今は、わたし達の色だ。

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わたしの愛しい瞳ちゃん ねこじゃ・じぇねこ @zenyatta031

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