霧島夏美:夢の光、約束の影、そして過酷な道へ、エル・ニドの奇跡
志乃原七海
第1話# プロローグ:夢の光、約束の影
## 霧島夏美:夢の光、約束の影、そして過酷な道へ
### プロローグ:夢の光、約束の影
「建人、ごめんね。でも、私、行きたいの。」
霧島夏美、25歳。都内の小学校で、子供たちの笑顔に囲まれながら、教師という仕事に情熱を燃やしていた。彼女の教壇に立つ姿は、いつも輝きを放っていた。黒板にチョークで描かれる文字のように、夏美の人生は、希望に満ちた明るい線で彩られているかに見えた。
その中心には、恋人の佐藤建人がいた。優しく、穏やかな彼との関係は、夏美にとって、日々の忙しさの中で安らぎを与えてくれる、かけがえのないものだった。二人には、未来を共に歩むための、確かな「約束」があった。週末のランチ、他愛ないおしゃべり、そして、いつか二人で描く、温かい家庭の夢。その約束は、夏美の日常を、より一層、色鮮やかなものにしていた。
しかし、夏美の心には、もう一つ、別の光が宿っていた。それは、「夢」への憧れだった。幼い頃から抱いていた、異文化の中で、子供たちの成長を間近で見守りたいという夢。特に、日本とは違う環境で、自らの教育観を広げ、子供たちの可能性を解き放つような、そんな教員になりたいという熱い思い。
そんな時、彼女の元に、フィリピンの、ある島にある日本人学校からの誘いがあった。エメラルドグリーンの海に囲まれ、太陽の光が降り注ぐ、まさに楽園のような場所。それは、夏美がずっと夢見てきた、理想の教育現場そのものだった。
建人は、夏美の夢を理解し、応援してくれた。それでも、二人の「約束」は、容易には語り尽くせない、人生における重要な転換点だった。
「夏美なら、きっと大丈夫だよ。でも…」
建人の瞳に、微かな不安の色が浮かんだ。夏美も、その不安を理解していた。夢を追いかけることの輝きは、時に、すぐ隣にある大切なものを、一瞬だけ、霞ませてしまうことがある。
「大丈夫、すぐに帰ってくるから。それに、きっと、この経験が、私たち二人の将来にも繋がるはずだよ。」
夏美は、建人の手を握り、微笑みかけた。しかし、その微笑みの奥には、夢への期待と、そして、まだ見ぬ未来への、ほんの少しの覚悟が、静かに息づいていた。
それは、若さゆえの、眩いばかりの希望に満ちた旅立ちだった。しかし、その道は、彼女が想像していたよりも、遥かに長く、そして、予測不能なものだった。楽園のような島での日々が、やがて、果てしない絶望へと繋がっていくことなど、この時の彼女は、まだ知る由もなかった。夢を追いかけた先に待つのは、希望に満ちた未来か、それとも、抗いようのない、過酷な現実か。
夢という名の光を追いかけ、夏美は、約束の影を胸に、遥か海を渡る決意をする。それは、彼女の人生における、希望に満ちた、しかし、あまりにも切ない序章の始まりだった。
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### 本編第一話:楽園の序章、迫りくる影
水平線が、夕陽に染まる。長い、本当に長い船旅だった。幾度となく揺れる船上で、夏美は、窓の外に広がる果てしない青を眺めながら、建人との約束を胸に、そして、抱きしめるように夢を抱きしめながら、この島へと辿り着いた。
船が港に静かに着岸すると、熱帯の湿った空気が肌を撫でた。港に集まってきたのは、現地の島民たちだった。荒れた土地の、質素な集落。しかし、彼らの顔には、飾らない、温かな笑顔が溢れていた。
「せんせ、せんせ!」
子供たちが、元気よく駆け寄ってくる。まだ幼い彼らの口から飛び出すのは、片言の、しかし、純粋な日本語の響きだった。その声に、夏美の胸は温かいもので満たされた。不安な気持ちは、いつの間にか消え去り、この場所で、子供たちと共に生きていくことへの、確かな希望が芽生えていた。
「こんにちは!よく来たね!」
夏美は、精一杯の笑顔で応えた。言葉は拙くても、その温かさは、確かに子供たちの心に届いたようだった。彼らの屈託のない瞳に、夏美は、これから始まる新しい生活への期待を抱いた。
日本人学校での日々は、想像以上に充実していた。島民たちの協力もあり、授業の準備は順調に進んだ。子供たちは、物覚えが早く、夏美の教える日本語や算数に、目を輝かせながら取り組んだ。学校の周りには、色とりどりの花が咲き乱れ、夕暮れ時には、子供たちが夏美を囲み、無邪気に歌を歌った。建人とは、定期的に手紙のやり取りを交わし、互いの近況を伝え合っていた。あの「約束」も、いつか必ず果たせる、そんな楽観的な気持ちで、夏美は日々に没頭していた。
しかし、その穏やかな日々は、あまりにも脆く、そして、あっけなく崩れ去る運命にあった。
着任して、まだ一月も経たない、ある日のことだった。
いつもと変わらない静かな朝。しかし、遠くから、不穏な音が聞こえ始めた。それは、地鳴りのような、しかし、それよりもずっと鋭く、空気を震わせる音だった。
学校に集まった子供たち、そして、島に住む日本人たちの顔に、次第に不安の色が濃くなっていく。ラジオからは、慌ただしいアナウンサーの声が響いていた。
「……太平洋戦争、勃発……!」
その言葉が、夏美の鼓膜を揺さぶった。太平洋戦争。それは、教科書でしか知らなかった、遠い過去の出来事のはずだった。しかし、その現実は、今、この島に、逃れられない形で迫ってきている。
「……緊急放送です!現地日本人は、直ちに、島からの撤退を……!」
アナウンサーの声に、緊迫感が宿る。撤退。その言葉が、夏美の頭の中に、冷たい氷のように突き刺さった。楽園だと思っていたこの場所が、突如として、危険な場所へと変貌を遂げたのだ。
子供たちの顔を見上げる。先ほどまで、「先生」と笑顔で駆け寄ってきた彼らの瞳に、今は、理解できない恐怖と、戸惑いの色が宿っていた。
その時、港の方から、怒号が響き渡った。
「ジャパン!ジャパン!」
かつて、子供たちの純粋な声が重なった、あの言葉。しかし、今、それは、憎悪と侮蔑を込めた、罵声に変わっていた。島民の大人たちが、ライフルを構えた兵士たちに促されるように、日本人たちに向かって、怒鳴り散らしている。その中には、夏美が「優しい」と感じた、あの顔も、あった。
「どうして……?」
夏美の脳裏に、愛らしい子供たちの笑顔が蘇る。彼らと、親のように接してくれた大人たちの顔が、怒りに歪んでいた。言葉にならない疑問が、彼女の喉を締め付ける。戦争が、彼らの心を、こんなにも変えてしまったのか。それとも、最初から、彼らの心には、我々に対する見えない壁があったのだろうか。
「なんで……どうして……」
理解できない現実に、夏美は、ただ立ち尽くすしかなかった。込み上げてくる熱いものが、目頭を熱くする。静かに、しかし、止めどなく、涙が頬を伝った。それは、失われた平和への涙であり、信じていたものへの裏切りへの涙であり、そして、この先、待ち受けるであろう過酷な運命への、無力な涙だった。
穏やかな日常は、一瞬にして消え失せた。夏美の、夢と希望に満ちた日々は、太平洋の波間に、今、静かに、しかし確実に、嵐の兆しを孕み始めていた。
楽園は、悪夢へと姿を変えた。信じていた温もりは、敵意へと塗り替えられた。これから夏美を待ち受けるのは、言葉にならないほどの絶望か、それとも、絶望の淵から、自らの手で掴み取る、かすかな光か。教師としての、そして一人の人間としての、過酷な試練が、今、静かに、しかし確実に、幕を開けた。
港での衝撃的な光景から数日が経ち、島には張り詰めた空気が漂っていた。子供たちの笑顔は消え、大人たちの表情には、恐怖と絶望の色が濃く刻まれている。かつて「先生」と慕ってくれた子供たちの親たちが、今や自分たちを罵倒し、敵意を向けてくる。信じていた温もりは、冷たい刃となって夏美の心を抉った。
そんな中、夏美は、校長室の片隅に置かれた、一丁のライフルを静かに見つめていた。それは、学校の、そしてここにいる日本人たちの、万が一の事態に備えて用意されていたものらしい。これまで、その存在を意識したこともなかった。だが、今、その銃口が、夏美の視線の先で、鈍い光を放っていた。
「使うしかないのか……?」
その言葉は、誰に問いかけるでもなく、夏美の喉から漏れた。教師としての、平和を希求する心は、この殺傷力のある道具に触れることを拒絶していた。しかし、目の前で繰り広げられる非道な現実、そして、いつ自分たちが「消されて」しまうか分からない恐怖。このまま、ただ恐怖に怯え、絶望に沈んでいるだけでは、待っているのは、さらなる悲劇だけだろう。
「わたしは……生きたい。」
その声は、震えていた。しかし、その奥には、確かな意思が宿っていた。ただ生き延びたい。それだけではない。
「そして、日本へ帰ろう。」
建人との約束。故郷の空。生徒たちの未来。それら全てを取り戻すために。この地獄から、必ず。
ライフルを握る手に、力がこもる。それは、もはや教育者の、平和を愛する者としての手ではない。生き残るために、未来を掴むために、戦う者の手だ。
静かな決意を胸に、夏美は、この島からの脱出を決意する。一丁のライフルと、サバイバルナイフ。そして、何よりも、生への渇望と、帰還への強い意志を武器に。
霧島夏美:夢の光、約束の影、そして過酷な道へ、エル・ニドの奇跡 志乃原七海 @09093495732p
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