卷四 夸絕

 幽邃たる夜半、瑩光瀲灧として室中に漂ふ。畫樓緘扉、鐵鍵沈默し、萬籟悉く屏息す。人影一線も無く、唯孤嶼たる軀、幽影を抱き、畫架前に默坐す。——月界深淵、聲無き聲のみ盈つ。

 氤氳たる翳、無窮にして四隅より滲み寄る。意識徐徐に弛緩し、夢寐の底へと沈降す。心腑裏に微燐の火纏ひ、冷然たる月輪像、右眼球の硝子體より白露となりて滲出し初む。白露拭去を企圖し、爪尖を挺て觸れなむとすれば、眼窩周圍皮膚、薄紙の如く裂開す。痛覺は後發到來するのみ。其間指端は已に次一畫を曳き運びぬ。白露漸次凝結、粘血の如く變じ、終に指端より滴り滿ちたり。——白露、凝血して墨と爲り、之を以て畫きて月輪を染む。

 一閃、腦底深處より古文の殘句一條、泡沫の如く浮上す。『復洗右眼、因以生神——』と。曾て何處の頁にて讀みしやも覺えず、唯『右眼』の二字のみ久しく瞼裏に燒き付きゐたりしなり。畫布上、絢爛たる環、黯金の緣を曳き、幽かに自轉す。雲鬢を垂らし、夜靄を拂ふ影一條、輪の心より緩く抽き出づ。彼の人半光半影として罔象の如く虛像を結ぶ。其影を前に瞻みゐる間、胸底に冷銘一條自ら刻まる。此畫、已に世間之物に非ず。我が身より剝落せし聲貌銘之殘屑を悉く收め受くる、他界一切の關與を拒み、唯我一身のみに封緘せらるる終局之器也と。

「嗚呼、美、絕倫にして、言語の域を逸す——」

 吐き出でし聲、喉奧にて泡沫と崩れ、音貌を得る前に闇へ散ず。只白光と紺影と交錯し、微細形骸之輪郭結成を企圖すれども、恆、半步を逸脱す。——夢魂冥冥として反照し、寂滅の波動、影を曳きて循環す。沈默、波の如く靡きて言語を呑む。——影聲色膚脈、悉く稀薄にして透過す。雙手交叉、肉軀相纏綿。月魂畫魂、雙界相互侵蝕、交錯滲潤す。——冥漠之底、夢魂無音而交叉錯綜す。


軀軆戰慄筋束抽搐靈識剝蝕萬疊淪墜脊梁奔湍冷燐穿鑿腦髄燼滅粹美結晶。


 寂滅之底、既非人、唯像殼之遺るのみ。倚子微軋の聲を發す。其細震顫、腰脊を傳ひて椎列を登り、項根に及び冷脈の如く奔る。室氣油彩の臭濃く鬱積し、鼻腔深處に沈滯して咽喉を灼き嗆咳せしむ。口腔乾渇し舌面粗となり、脣裂罅より微血味滲出す。然れども運筆歇まず、雙眸闔ぢず。白雨白夜白影白畫、悉く一色に溶融し、同一白相を呈す。——冥冥たる寂滅、白影を呑み、光すら遺さず。

「孑然不歸。美、極涯に至りて墜つ。幻月に沈み、歸る銘を持たず」

 筆尖光を掬ひ取り、無聲の儘に畫成す。斑斕たる月暈、朧乎として顯現し、輪郭は常に決せられずして震へ在り。嗚呼孤影、無言にして聲の系譜此に斷たる。畫の隅、墨痕の末尾に之を遺す。

『孑然自夸也』

 墨は凝結し、銘は其一語に壓縮されて硬化し、他の稱呼一切悉く剝落す。夜沈み靜謐に溶解す。室氣は窅冥として沈み、美魂悉く月に溶解し、輪の內側へと囘收さる。——夢魂冥漠を漂ひ、歸趨の處を失ふ。

孑夸げっか在此」

 低く囁きて鏡花、自聲の主をも識らず。而して主、影聲銘悉く此世を辭す。肉軀唯畫架側に傾斜し、眼窩內白光を宿して空洞のまま開張す。右眼、已に瞳孔を失ひ、唯月映す硝子玉と化せり。——美、極まれば魂魄散じ、虛無に歸着す。遺る處は唯畫布與其銘のみ。


寂滅無聲萬象空

白影滲境夢魂融

遺痕難覓氣息絕

夜色深沈歸無窮


——聲も形も消え去つた後、一枚の白き影のみが夜の底に沈みゐる。

——此世㪽遺之美唯此一畫耳

    ——萬象既空餘此孤影在

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孑夸 白蛇 @shirohebi_495

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