卷三 眾夢

 幾晚も月を描き重ねし後、其等ばかりを一處に集むる個展、京の片隅の小さき美術館にて催されることと定まりぬ。その告知、殆ど夢寐に他人事の如くして我が心に毫も翳差さず。夜の帳に包まれた硝子の檻に、自らの月ばかりが懸けられると言ふ實感は未だ微塵も起こらず。孰が圖りしか、幾枚もの月の畫、薄明の壁に靜かに竝べられたり。蒼白き影ら、夢裡にて咲き出でたる屍花の如し。

 開幕の日、我は光の中に立ちゐたり。然れど世界は既に色を失ひ、寂滅の相を呈す。聲無き光、色無き聲、無聲色の世界也。訪れし群れ無音の裡に月を仰ぐ。彼らの貌は悉く剝落し、情無き能面の如く月光に照らされ蒼く凝りぬ。孰の聲も靄の向ふ、遠き鐘の響きの如く微茫にして實感を缺く。言の葉は輪郭を失ひ、耳の底に沈みて泡沫の如く消え失せぬ。美しきもののみ夜の奧闇より色と音とを攫ひて走る。畫布の前に佇む者どもの影、床に淡く伸び、寂然として閑寂たる裡に溶け合ひて個を失ふ。壁の隅には『非常口』と記されたる小牌一枚、蒼白き光を洩らしつゝ、孤り點りゐるのみ。幽觀無語、心影空寂たり。我が眼のみ夜に向けて開かれ、宵闇の中、唯色と美のみ氾濫し溢れ出づ。

 一人の男が指を這はせ、幼き女が圓を擦り、若き女が淚を落とす——それら個々の振る舞ひは、最早人としての意思に非ず。彼らは唯、光に引かるる羽蟲の如く畫に蝟集し、喉の奧より「月、月……」と譫言の如き摩擦音を漏らすのみ。其は祈りにも似て、又肉が腐りゆく際の微かなる水音にも似たり。皆同じ畫を夢中に彷徨ひ見、幽魂は夢に溺れたり。夢魂浮沈し、時空崩解す。夜、異界を逍遙するが如し。囁き合ふ聲は、次第に意味をなさぬ喧囂へと變ず。或る老いたる女が夢の顛末を語らむとして口を開けば、其處より溢れしは言葉に非ずして、枯沼の底より湧く瘴氣の如き吐息のみなりき。彼女の語る「夫の不在」、「川邊の月」、既に個人の記憶としての輪郭を保たず、其處にゐる全ての者の腦裏へ、粘りつく共通の惡夢として傳染しゆく樣が、我の眼前にて展開されゐるを覺ゆ。眾、囘顧無人の戰慄を識り、肩上、無形の重壓を覺ゆ。

「……あなたかえ」

 誰かが掠れたる聲にて虛空へ呼びかければ、返り來たる聲は自らのものに非ず。男とも女とも聞こえぬ、白き歪みの如き響きなりき。仰ぎ見れば空の月は益々畫の月に似通ひ、圓輪の內側に誰かの影一つ、細く立てり。老女も、若き男も、幼子も、夢の裡にありながら、其白き輪の只中に己が手を伸ばしたり。指先が何かに觸れた刹那、世界の色は悉く零れ出づる水の如く、音もなく流れ落ちぬ。目を覺ませば、掌には白き繪具の如きもの薄く乾き殘れり。掌を閉ぢても其粉は不復返、戾らざる光の塵として指紋の溝に固着し、二度と取れること無し。其よりの日々、彼らは幾度も美術館を再訪し、月の畫の前に亡靈の如く立ち盡くす。

「月を見れば、何かえ思ひ出でざるを得ずなりぬ」

「光の下ばかり、死にし人に逢ふやう思ほゆ」

 孰もが銘を忘れ、言の葉を落とし、斯くして只膠のやうに重たき闇へ身を沈湎せしむるばかり也。其處には靜けさに代へて、銘を失ひて濁りたる息のみ、うすく澱み溜まりゐる也。

 我も亦夜光を浴びし刹那每に、聲、貌、銘悉く幽かに散り消ゆ。自失形骸、聲銘皆滅す。晝の畫室は總ての物音が薄れ、世界と言ふものの境さへ微かに搖らぎて見ゆる。日輪の下では左の目ばかりが眩さに灼かれ、影は直ぐ溶けてしまふ。手の甲を月明かりに翳せば骼の象が透き通り、影だけが白く浮かび上がる。形骸幽微にして、靈魂は身を離れ遊離せり。街市の喧噪、遠き昔の物語の如し。晝の光の下、世界は只色褪せたる畫卷物の如く展延するのみ。美を見つめ續けるとは、人としての輪郭を音もなく削り取らるゝこと也。街市の騷めきは玻璃越しの雜音に痩せ、銘を呼ばれても一拍置きて後に非ずんば、己が銘とすら氣付かぬ。削がれた分だけ肉の銘も聲の癖も、畫布の地の色へ細やかに混じり沈みゆく。私は畫を畫く度、少しづゝ塗料の側へと移されつゝあるを覺ゆ。

 或夜、畫の前に立ち盡くした客一人、膝より崩れ落ちたりと言ふ。翌朝、床板に溫き染みの環のみ殘れり。私は其乾きゆく輪郭を、只一瞥したるに過ぎぬ。笑ふ聲と嗚咽とが混ざりし粘液質の殘響、耳の奧にこびりつきて離れず。袂の中の異物、何時しか微かに震動を發し、小さき光點一つ、硝子面の隅に瞬き出づ。學窗の友の銘、電子の列に淡く浮かびゐたり。然れど我は之に目を遣らず、唯畫布の月輪を凝視するのみ也。其光點は、遠き星の死骸よりも尚、疎遠なるものに映じたり。影に沈みし我ら常に其光の裡に在り。聲も銘も月に映され、何時しか自らを忘れ果つ。月、俯瞰して萬象を照らし、我らは其一隅に過ぎざるを遂に知ることすら能はず。


 閉館の刻迫る頃、室の闇隅より濡布を絞るが如き水音、密やかに洩れたり。其は肉塊の蠢動の如く、我、敢へて顧みず。唯、生溫き獸ごとき臭氣、一刹那にして靴の周圍を這ひ纏ふも、直ちに空調の無機なる冷風に掻き消されぬ。彼處に在りしは人か、影か、將た月光の凝結せしものか。今宵も亦畫布の前に佇立し、美しきものを描き繼ぎたり。夜の底にて銀白き月光、影を靜かに貪りぬ。只美界の裡に沈溺しゆくばかり。影の邊にて銘を失ふ。今宵聲も無く、唯月のみ有り。

    無明。

  美魂は溺沒し、知覺は消散す。

      闇聲、永く絕えたり。

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