第4話 上野恩賜公園

「やっと着いたぁ!」伸びをする莉乃。

「たった一駅なのに何言ってんだよ」すかさず突っ込む颯馬。

「あはは。お疲れ。でもこれからが本番だからね」


朔夜先輩の言葉で終点のホームに降り立つと上り階段へと向かう。

京成上野駅は都心でも主要なターミナル駅――降りて歩き出す乗客の多さも相まって、先頭車両からホーム出口への距離を一層遠く感じさせる。


しかし、それを上回る先程の充実した愉悦が三人の心を包んでいた。

目の前の出口までの遠さなど、日常の些細な光景に過ぎないと不思議にも思えてしまう程だ。


「相変わらずスゴイ人だね。外国人の多いこと……」

「ある意味、都心の観光スポットだからな。日本語以外の言葉がたくさん聞こえてきて賑やかだね」

「今日は土曜日だから特に多いよね。多くの人が上野公園に向かっていくんじゃないかな」


零司の言葉が示す方向――三人が歩いていくコンコースに、改札に、見受けられる様々な髪のスタイル色や服装の数々。

文化圏の端々をのせた流れが異国情緒をにわかに刺激する。


前方の視界に入ってくる電光掲示板――日本語・英語・中国語・韓国語の四か国語が一時も絶えず流れて忙しない。

それは観光地としての駅構内の象徴の一つといえよう。


改札の右端に視線が吸い寄せられる。

そこには麦わら帽子を斜めに被った可憐な女性の姿があった。


「みんな、おはよう!」


改札口でミス研顧問の万田綾が手を振って迎える。

白を基調としたロングのワンピーススカートにローヒールのナチュラルブラウンのサンダル。

普段の茶色いジャケットや黒のパンツを合わせてくるフォーマルから抜け出した初夏の装いを感じさせる。


つけ睫毛まつげとディファイングレーのカラーコンタクトレンズ、目元の涙ぼくろをのせた小顔のフェイスラインと鼻梁びりょうとが整っていて美しい。

ひと目で女子高生のような若さが感じられるたたずまいに颯馬は思わずはにかんでしまう。


「綾先生、お久しぶりです……その恰好、とっても可愛いですね」

「零司くん! 久しぶり! 元気そうね。この格好似合うかな? そう言ってくれるの零司くんだけだよ。嬉しいなぁ」


矢継ぎ早に一息で感想を伝えるあやまん。

彼女は零司から颯馬に意図的に目線を移すとナチュラルメイクの自然美が言葉に遅れて視界を和ませる。

やわらかい目元に優しさを感じた颯馬はこれに負けじと続いてみせる。


「綾先生、スゲェ可愛いです。メイクもバッチリ似合ってますね」

「あはっ……颯馬くん! 褒めるの、おっそぉーい!」


ニコニコ顧問のあやまん。ここぞとばかり颯馬を指さしておどけてみせた。

この仕草――日暮里駅で待ち合わせていた時に莉乃が見せたものと似ているような。

一緒に過ごしているとだんだん似てくるのかな。


「じゃあ、行きましょう!」


はすの咲く大きな池、桜やくすのきをはじめとする瑞々みずみずしい緑の移ろい、そして行き交う国境を超えた人々の多様性の波。

都心なのにこれほど広大な自然にあふれ、かつグローバルな情感を共有できる公園は類を見ないだろう。

一行は東京の象徴的光景のひとつである西郷隆盛像の前にたどり着く。


「あっ! 西郷さんだ! ツンも連れているね!」

「やっぱり、ここ上野公園に来たらこの像を拝まないとな!」


「上野の西郷さん」と呼ばれて百年以上も国民に親しまれているこの銅像。

ツンとは西郷隆盛像の右手に繋がれているメスの薩摩犬像のことだ。


しかし、元となったのは海軍大将の愛犬「サワ」との情報もあるから実際のところはよくわかっていない。


「はーい! ここで写真撮ろっか! みんな集まって!」

「綾先生。オレ撮りますよ」


颯馬はバッグからシルバーの自撮り棒を取り出し、自身のスマートフォンに接続していく。


「本当? 助かるわ。じゃあみんな笑って~」


颯馬は率先してその場を見えない両手で優しく包んでいく。


「はーい、チーズ!」「あぃ、オッケー! 次、隣の人とハート作って~」


颯馬は次々に表情管理を三人に伝え、配置換えも惜しまない。

あえて手振り身振りを加えたり、冗談も交えて表情を変えてみたり。

トータル十枚を矢継ぎ早にシャッターを押していく。


「うん、いい感じ。ちゃんと見ておくように」

「颯馬くん、ありがとう」


ミス研内で利用している写真共有アプリ【みてね】――早速三人に撮影した写真を送った颯馬は宙を見上げ、熱のこもった息をついた。


「よーし! あとでアプリのスノーで編集しよっと!」

「莉乃、絶対オレの顔いじるだろ!」

「ふふふっ……究極の変顔にしてあげよう!」


莉乃の手にかかったら大体こうなることは予想がついていた。

しかし、これも思い出のひとつと考えればそれでいいのかもしれない。

忘れた頃に「そんなこともあったよね」と後で笑い飛ばせばいい。


自然に出来上がっていく莉乃と零司、颯馬と顧問の配置。

無意識に育まれていくフィーリング。

誰も抵抗しない時間の経過が、どこか心地よかった。


「あのっ! みなさんでスワンボート乗りませんか?」

「おっ! 莉乃さんいいね! 久しぶりに乗るなぁ」


不忍池しのばずのいけ――上野公園の南西側を占める蓮池でもあるこの場所に数隻のスワンボートが停泊している。


二人乗り用のボートだけが空いている……ということは?

莉乃は零司の横を独占するように身を寄せるように歩く。


「これって必然的にオレと中村さん?」零司は目を丸くする。

「もちろんです! あ、颯馬くんは先生とだね!」

「なんでそうなる! てか、みんなで乗るとか言って初めから二人で乗るつもりだっただろ?」


そう言ったがもう遅い。すでに前を行く二人はむつまじくピンク色のスワンボートに乗り込もうとしている。

有無を言わさない行動力。

舌を巻こうとすると先生の気配を背中で感じる。


「よろしくね、颯馬くん」


左手で押えている麦わら帽子を陽光がかすめていく。

一瞬、先生の可愛らしい顔がまぶしく見える。

右手を伸ばして颯馬の行動に期待しているようだ。


「足元、気をつけてくださいね」


颯馬はそっと右手で繋ぐと水色のスワンボートの左側に導く。

初めて先生と手を繋いだかもしれない。

しなやかな指先が執拗しつように絡んで心臓が忙しくなる。

足元に荷物を置くと颯馬はハンドルを握り、足元のペダルに両足の靴底を必要以上に馴染ませていた。


「颯馬くんって、やさしいんだね」

「いやいや……」


どこか落ち着きのない颯馬。

顧問と目を合わせられないままかゆくもない頬をいた。


「颯馬くん、表情硬いよ。リラックス・リラックス」

「はぁ、なんだか緊張します」

「あはは、デートじゃないんだから、気楽でいいんだよ」


颯馬の左肩をポンポン叩くあやまん。

自然な流れのボディタッチ。

でもそれ以上に心のささくれがチクリと痛んだ。


ふいに莉乃の言葉が蘇る。


『はぁ……ドキドキするぅ』

『颯馬くん! これはもうデートみたいなもんだよ!』


なんでこんなどうでもいいセリフが浮かぶんだろう……

鼓膜が覚えている言葉の熱が振動している。

しばし思案を浮かべているとハンドルとペダルとが連動していないことに気づかずボート脇が岸にぶつかった。


「ちょいちょーい。颯馬くん、ハンドルの回し方、逆だよ」


言葉よりも先に左手が重なった。

あやまんが颯馬の握るハンドルをサポートする。

気恥ずかしさに息苦しくなりそうだ。


「すみません」

「大丈夫。最初は私がハンドルやるからちょっと休んでて。慣れてきたらお願いね」


颯馬はハンドルを綾に譲り、ともにペダルを回す。

一人の時より推進力が倍以上に増した感じだ。

前方を行く莉乃―零司ペアのスワンに近づいていくと二人が楽しそうに話しているのが伝わってくる。

 

「前の二人は何を話しているんですかね?」

「うふふ、恋バナかしら」

「えっ?」


口元がほころぶあやまん。

熱いまなざしを前方スワンに送っている。

コンスタントに躍動し続ける彼女の両脚ライン。

スカートに隠れていても、その反復運動が律動的でどこかなまめかしい。

颯馬は自らの目線をいましめ、前方に視線を修正する。


「寄り添うふたりだけの空間だから、話に花を咲かせているんじゃないかしら?」

「初顔合わせなのに、ですか?」

「そうよ。莉乃さん、積極的だなぁ」


あやまんは前方から颯馬の横顔へと目線をふわりと移す。

目は細い三日月を結び、つけ睫毛がその余韻をやわらかく強調している。

その笑顔からつい目線を外してしまう颯馬。

自分の性格に思わず下唇を噛む。


「颯馬くんは気になる子、いるの?」


唐突である。

しかし、嘘を吐く理由がない。

本心を伝えるもすぐさま聞き返してみせる。


「い、いますけど……先生はいるんですか?」

「私? うーん、私はもう結婚しているからなぁ」


左手を上に下腹部の前で重ねている両手。

左手薬指の指輪がかげりを帯びているようにみえる。


「あはは……ちょっと、色々あってね……」


颯馬の視線の先を感じた先生は言葉を濁す。

先生は右手で指輪をつまんでクルクル回してトップの小さなダイヤを指先でさする。

くすみは取れず、鈍い光沢は晴れないまま輝きを失っている。


「色々ってなんですか?」

「えーっと、ウチの旦那さ、急にいなくなっちゃって、うん……いま一人なんだ」


聞いてはまずかった内容だと颯馬の直感が脳を貫いた。

鼓動が早くなる。手に汗がにじむ。

初めて知る先生の事情に動揺を隠せない。


「ご、ごめんね。こんな暗い話……」

「あ、いえ……すみません。俺でよければ話聞きますよ。その……なんていうか、今は自分たちだけだし」

「あはは……そうだね」


自分は何を言っているんだろうか。

颯馬は半ば混乱していた。

相手は顧問だ。

自分がそんなプライベートを聞き出してなんの解決になるというのだ。

恋人でもないのに、その雰囲気に任せて口走った愚かな顔に熱が上っていく。


「いなくなったって言っても、別れてはいないんでしょ?」


指輪の存在がそれを証明している……そう確信して重い一歩踏み出した。

しかし、足元のペダルは完全に止まっている。


「うん、別れてはいないよ。喧嘩とか不倫とかでもない」

「え、じゃあ、なんで……」


呼吸を整えようとしている先生。

膨らむワンピースの柔らかさから感じ取る。

吐き出された息が音もなく空気に溶けていく。


「誰にも言わないでね」

「えっ……あ、はい……」


先生の念押しに身がすくむ心地の颯馬。

冷たい汗が背中を流れていく。


はるか前方を進む莉乃たち。

彼女たち以外のスワンボートはいつの間にかいなくなっている。

颯馬たちのボートだけが取り残され、湖面に縫い付けられたように動きを止めている。

消えゆく波紋に先生の影が差すように。


「ウチの旦那ね。私が赤ちゃん産んだ頃からずっと行方不明なんだ」



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Rの化身 刹那 @hiromu524710

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