「じゃ、行こっか」

志乃原七海

第1話『暖かい缶ビール3本』



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週末の温泉旅行の帰りだった。

深夜の高速道路は、オレンジ色の街灯が等間隔に流れ去っていくだけの、退屈な世界。ラジオから流れる気だるい洋楽が、眠気を誘う。


「…ん…」


助手席で、彼女の菜々美が小さく身じろぎした。俺はちらりと横目で見る。シートを倒し、俺の上着をブランケット代わりにして、すうすうと穏やかな寝息を立てていた。その無防備な寝顔に、自然と口元が緩む。


「疲れたよな。ずっと運転させちまって悪かった」


返事はない。

ちょうど「○○パーキングエリア 2km」ピンクカラー🩷の標識が見えた。


「ちょっとご休憩しようか。…コーヒーでも買ってくるかな」


俺は独り言ちて、ウインカーを出す。気味が悪いほど静まり返ったパーキングエリアに車を停めた。トラックが数台、亡霊のように闇に沈んでいるだけだ。


エンジンを切ると、完全な静寂が車内を支配した。

起こすのもかわいそうだ。そっと彼女の髪をなでる。


「…お前のも買ってくるな」


いたずらっぽく微笑みかけ、俺は静かにドアを開けて車を降りた。


自販機コーナーの蛍光灯だけが、蛾を集めながら煌々と闇を照らしている。冷たい夜風が首筋を撫でた。俺はポケットの小銭を確かめ、温かい缶コーヒーのボタンを押す。ガコン、という音と共に、熱い缶が3本、ビールが取り出し口に落ちた。


車に戻り、そっとドアを開ける。


「お待たせ。ほら、お前の…」


そう言って、助手席を覗き込んだ、その時だった。


…あれ?


菜々美じゃない。


そこに座っていたのは、一度も見たことのない女だった。

灰色のパーカーを着て、焦点の合わない目で、まっすぐ前だけを見ている。俺がかけた上着は、足元に無造作に落ちていた。


血の気が引くのが分かった。全身の毛が逆立つ。


「…だ、誰だ?お前ッ!菜々美はどこだ!」


俺が叫んだ、その瞬間。


後部座席のドアが、音もなく開いた。


振り返る間もなかった。

冷たく、硬い何かが、俺の右のこめかみに強く押し付けられる。

錆びた鉄の匂い。


視界の端に、鈍く黒光りする拳銃が見えた。


ばきゅー!ん!


乾いた音がして、


ドキューン!


脳に直接響くような轟音と、焼けるような衝撃。

俺の体から、ゆっくりと力が抜けていく。手から滑り落ちた熱い缶コーヒーが、アスファルトの上で甲高い音を立てて転がった。


薄れゆく意識の中、パーキングエリアの建物から、**本物の菜々美**が小走りでやってくるのが見えた。

彼女は、目の前の光景に凍り付く。


倒れ、血を流している俺。

車内にいる、見知らぬ女。

そして、俺に銃口を向けたまま、ゆっくりとこちらに顔を向ける、黒い影。


菜々美の口が、声にならない形で開く。

そして、静寂のパーキングエリアを引き裂くような絶叫が響き渡った。


「ぎゃああああああああああああああああッ!」


…と、俺は思った。


だが、菜々美の口から発せられた言葉は、俺の想像を、常識を、世界そのものを破壊するものだった。


**「…遅いよ、お兄ちゃん。早くしないと誰か来ちゃうでしょ」**


は?


こめかみを押さえていた男が、銃を下ろす。俺を見下ろすその顔には、面倒くさそうな表情が浮かんでいた。

助手席に座っていた灰色のパーカーの女が、だるそうに車から降りてくる。


「アンタがなかなかトイレから出てこないから、こっちが焦ったわよ」


パーカーの女…菜々美の兄の彼女だという女が、菜々美に文句を言う。


何だ?何が起きている?

菜々美は、血の海に沈む俺を一瞥すると、心底鬱陶しそうに言った。


「うわ、汚な。…で、ちゃんとやった?保険金、ちゃんともらえるんでしょうね?」


「ああ。事故に見せかける準備はできてる」


兄と呼ばれた男が、車のトランクから何かを取り出す。ガソリンの匂い。

混乱する俺の脳が、ようやく真実を理解し始めた。

温泉旅行。深夜の高速。誰もいないパーキングエリア。


すべて、このために。


「じゃ、さっさと終わらせよっか」


菜々美が、まるでゴミでも見るかのような目で俺を見下ろし、そう言った。


男が車に液体を撒き散らす。

俺はもう、声も出せない。裏切られた絶望が、死の恐怖を上回っていた。


男がライターを擦る。小さな炎が闇に揺れた。


**ドガーンッ!!**


俺の愛車が、俺の体ごと、轟音と共に爆炎に包まれた。


熱い。痛い。

でもそれ以上に、信じられない。

なんで、菜々美が…。


燃え盛る炎を背に、菜々美は携帯を取り出して誰かに電話をかけている。その声は、もう俺には聞こえない。


やがて、闇の向こうからヘッドライトが近づいてくる。

一台の高級外車が、燃える俺の車の横に、音もなく停まった。


運転席から降りてきた、いかにも金持ちそうな男が、菜々美の肩を優しく抱く。


「お疲れ様、菜々美ちゃん。大変だったね」

「ううん、全然。これで邪魔者もいなくなったし、スッキリした!」


菜々美は、さっきまでの愛らしい寝顔が嘘のような、甘えきった声で新しい彼氏に笑いかけた。


「じゃ、行こっか!お腹すいちゃった!」


ちゃお!とでも言うように、彼女は軽やかに新しい彼氏の車に乗り込んでいく。

兄とその彼女も、自分たちの車へと戻っていく。


遠ざかるテールランプ。

燃え尽きていく俺の意識。


最後に見たのは、ルームミラー越しに、一瞬だけこちらを振り返った菜々美の、冷たい、冷たい笑顔だった。

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「じゃ、行こっか」 志乃原七海 @09093495732p

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