通りすがり

コリドラス@仁世亜

通りすがり

 大里町のバス停で降りた。

 停留所に一時たたずんでバスを見送ると、文吉はそばのベンチに腰掛けた。秋の長雨がようやく止んだ。ひと雨ごとに寒くなる。

 上着のポケットに手を突っ込んでタバコを取り出し、一本口にくわえて火を点ける。 吸った。 空いた手を反対側のポケットに入れて――それを確認した。 取り出しはしなかった。 取り出さなくてもわかる。

 一枚の写真だ。

 大きく息を吸うと、雨上がりの鉄臭さが身体中に染み入った。


 浅井クリーニング店という所から電話が掛かってきたのは、昨日の朝だった。

「閉店するのでまだ引取り済みでない洗濯物、取りにきてください」

 商店街の外れ、路地裏にある店だった。なんでも一点ほど置き放しの品が見つかったという。 それも十年以上も前のもの。

「よくそんなものがあったわねえ」

 洋子は白髪がちらほら混ざった髪を、その朝もきちんと頭の後ろで一つに結っていた。最近また頬がこけた。フライパンの上の目玉焼きを器用にさいばしにのせる洋子の様を見て、フライ返し買えよ、と文吉が声をもらす。壊れて一週間にもなるというのに洋子はなかなか新しいものを買いもせず、さいばしなんかに目玉焼きを、ひょいとのせる。

「なまじ手先が器用なのも考えものね」

 洋子は言って皿に目玉焼きを移した。

「そういうの器用って言うんじゃないよ」

 文吉は皿を手前に引き寄せて、黄身を箸で割る。「さいばしにはさいばしの使い方があるだろ」

 洋子がふふ、と笑う。「今朝はむずかしいのね」

 それから、明日にでもわたしが引き取りに行きましょうか、と話を戻した。

「いや、いいんだ。明日の休みに自分で行ってくる」

 言うと文吉は洋子に目をやった。

 うなずく洋子の普段とかわらぬ優しい笑顔。

 そうやっていつも笑ってくれていたな、この十五年、洋子はおれの前でいつだって――

 しばらくして、うん、とつぶやいた洋子の声が、心なし寂しく思えた。

 文吉は箸を止め、先程の通話の内容を思い出した。

「閉店することになりまして」

 預かり物を整理していた際、とっくに処分していてもおかしくなかったはずの文吉のジャケットが、奥から出てきたという。

 一緒に保管されていた1枚の写真。

「ポケットに入っていたんでしょうが……預かった時に確認もせず、すみません」

 受話器の向こうがしおれた。

「写真のことが気掛かりで保管してたんですが……取りにこないようだったら、処分……」

「いえ、行きます」

 文吉は受話器を握り直した。「明日必ず取りに行くので処分しないでください」

 早口で告げると電話を切った。 胸の内がささくれだった。

 あの写真だ――

 記憶の波が押し寄せる。 気持ちを静めるように茶をひと口すすった。

 当初、店から何度か洗濯物の引き取りを催促されていたように思う。 だが、一向に取りにこない所有者に諦めたのか、いつの間にか電話もこなくなった。

 湯飲みを置くと何も言わず席を立った。 洋子の顔も見ずに家を出て、文吉は微かな不安にかられた。

 そして今朝――

 秋風が冷たかったから、というのはただの言い訳か。 引き上げた紺のジャケットを羽織ると、ふらふらと電車を乗り継ぎバスに揺られ、本牧の地に降り立った。 十五年振りだった。

 本牧は文吉の生まれ育った町である。 だがあの日以来、一度も足を踏み入れていない。

 照代と三人の子供たちを捨てたあの日以来。

 汗ばんだ手がポケットの中の写真をつかむ。 そっと取り出す。 赤ん坊を腕に抱いた自分がいる。 照代がいる。 息子が二人。 写真を指でなぞると、その表面のざらつきに胸がずしんと重くなった。

 この時おれはすでに家族を捨てる覚悟をしていた――

 逃げた町で着ていた服一式、洗濯屋に出した。 捨てられなかった。 家族は捨てたくせに、どうしても捨てられなかった。


 アスファルトの道を大通りから左に折れると、民家の通りに出る。 懐かしい風景。 錆付いた酒屋、向かいの乾物屋、風呂屋。

 その横に――アパートはあった。 木造二階建て、今にも崩れそうなぼろアパート。 あるはずのない場所。 この町を出た時、この場所も捨てたはずだ。 しかし実際には残っていた。 ここにも、記憶の奥にも、しつこく存在していた。 それを今こうして確認し、やはり自分は逃げてきたのだと文吉は思う。

 前方に見える赤い鳥居。 神社の名は覚えていないが、忘れられない話がある。 この神社の前を、考え込んで、あるいは何かに気を取られて通るなら、隙を突いてキツネに化かされる、そんな昔ながらの言い伝え。 祖母から聞いたおとぎ話。

 文吉が十九の時に祖母は死んだ。 親のいない理由を祖母は最後まで教えてはくれなかった。 ただ、この鳥居の前までくると、決まって、

「お前の親はキツネに化かされちまって、道に迷って帰ってこれないんだよ」

 そんなことを幼い文吉に語って聞かせた。

 両親の事情を文吉が知ったのは、祖母が死んで幾日経ってからのことである。

 妻だった照代の家は製本工場を営んでいた。同じ町の同級生だった二人が面と向かって言葉を交わしたのは、祖母の葬儀の時がはじめてであった。

 何人かの住み込みの従業員に、妹、弟、両親、祖父母といった大家族の中で育った照代は、あけっぴろげで無遠慮で、文吉の祖母の訃報を知るや、ずかずか文吉の家に上がり込んで世話を焼いた。 葬儀が片付いた後も何だかんだとやってきては世話を焼き、それじゃあいっそ結婚でもしちゃいましょうかと照代は笑った。 冗談で、結婚指輪は買ってやれないよと文吉が言うと、おもちゃの指輪でいいわと言うから、お礼も込めて買ってやった。 すると照代は、この指輪を付けてお嫁に行くのだと大いにはしゃいで喜んだ。

 親もない文吉と娘との結婚に照代の父親は大反対だった。

 その二人が許しを得たのは、もともと照代の婿になるだろう存在だった従業員の政信が、あっさりこの話から身を引いたのと、兼ねてから家を出たいと訴えていた照代が、文吉と共に工場で働くと言い出したからである。

 精進しますと照代の家族の前で頭を下げ、高橋という文吉の姓は岡崎にかわった。 それからのち、最初から下心があったのだと笑って照代に打ち明けられた。

「おい、みなし子! なんでお前に親がいないか知ってるか! お前は親に捨てられたんだぞ、揃いも揃って薄情な親だ!」

 酔った義父にそう怒鳴られたのも同じ頃。

 ずっと祖母が守りぬいていた思い。 それを照代の父親は一瞬にして蹴散らした。

 気が付けば祖母と二人だった。 ずっと二人きりで暮らしてきた。 その祖母が死んで一人になった。 十九の夏。

 川崎の缶詰工場で働き出して、初月給で祖母に鰻をご馳走した。 靴下を買ってやった。 それから半年足らず、棺の中に横たわった祖母の足は靴下を履かせても冷たいままだった。 一人が怖かった。 たまらなく怖かった。 だから、自分を選んだ大家族の照代と一緒になった。 照代に下心があったというのなら、おあいこだ。

「なんでおれなんか、よかったんだ?」

 いつだったか、照代に聞いたことがある。 照代は一時も考えず、

「人助けよ」

 と笑って答えた。

 その笑顔は美しかった。 今まで見たこともない、誇らしい照代の笑顔。

 文吉は努力した。 必死に照代の身体にしがみついて、真実にしたいともがいた。そんな矢先――娘の未知が照代の腹にいる時に、洋子がやってきた。


 工場の事務員として雇われた洋子は、照代の女学生時代の後輩だった。 頬がこけ、貧弱な洋子の小さい身体は、案の定あれこれ世話を焼く照代の丸顔とは対照的で、いっそう不憫で痛々しく文吉の目にうつった。

 タバコ屋の角で顔を伏せる。

 ここにもよく通った。

 いつからだったろう。 タバコを買いに行くついでに洋子を送るようになったのは。

 何を話したのかは思い出せない。 だが一度、月を見ながら寄せた洋子の肩の感触は、今でもよく覚えている。 痩せた小さい肩だった。

「あの子、身寄りがないのよ」

 洋子の事情を文吉が知ったのは、照代の口からである。

 住み込みで洋子が働くと決まった晩、照代は次男を腕に抱えミルクを飲ませながら、洋子の身の上をついでのように語った。

「でね、あたしお父さんに頼んだの、ここにおいてやってって」

 六畳の寝室に寝そべっていた文吉は、ひょいと身体を起こした。

「あの子、大変だったのよ、昨年の夏に子供が流れちゃって、そんで旦那さんに追い出されちゃったってわけ。戻ってきてからは昔の施設の知り合いのとこにいたらしいけど」

「やめろ!」

 つい声を上げた。

 照代が不思議そうな顔で夫を見る。 どうしたの? とでも言いたげな妻に、すまん、と文吉はひと言詫びた。

「あらあら、あなたが声を上げるなんて、珍しいのね」

 照代はさらりと言って笑った。 あなたがわたしに声を上げるなんて。笑顔が無言でそう問いかける。

 この時ほど、照代の無遠慮さを鬱陶しいと感じたことはなかった。 それに甘えてきたのは自分自身なのに、すごく、鬱陶しい。

「…… 人のこと言うの、よくないよ」

 歯切れの悪い文吉に照代は言った。

「でもあなた、かわいそうじゃない?」

 突然次男が泣き出した。 慌てて我が子をあやす照代の顔が、見慣れた妻の顔になる。

 人助けよ、と言った照代の言葉が文吉の頭の中でぐるぐると巡った。 自分に差しのべられた照代の手も、洋子へ向けられた哀れみも、同種だった。 照代の手の中で文吉は一人だった。 照代と一緒になろうとも、その大勢の中で、文吉は一人ぼっちだった。

 自分は照代を愛していない――

 その年の冬、文吉は岡崎の家を出た。 未知が生まれて一ヵ月後のことである。


 ぐずぐずと歩いて二丁目の角にたどり着いた頃には、何となく日も傾き掛けていた。

 セミの鳴き声を耳にしたように思う。 本当なら赤トンボが飛び交う時期だろうに、それともただの空耳だったのだろうか。

 乾いた秋風が、文吉の頬の辺りを掠った。

 足を進めるにつれ、見覚えのある門が近付いてきた。 鼓動が早まる。足が心なし震えた。 そっと庭を覗くと、草木の残骸が黄昏色に包まれている。 夕焼けがはじまったのだ。

 騒ぎ声に文吉は振り返った。 夕焼けに背を押され、子供たちが路地を駆けて行く。

 家族を捨てた文吉が、職を転々としながらようやく腰を据えられた仕事が学童の送迎ドライバーであったというのも皮肉な話だった。 それを、文吉は自分のしたことの報いとして受け止めた。そんなことで許されるはずはなかったが、精一杯仕事に打ち込んだ。

 洋子に対してもそうだ。 照代を裏切ることはできないと一度は文吉の申し入れを断った洋子が、どんな決心で自分についてきたのか。 そして今なお罪の意識に苦しみながら洋子は自分と暮らしている。フライ返し一つ自分の意思で買えぬ女にしてしまったのは、他ならぬ文吉自身なのだ。

 子供たちの背を追った視線がつと止まる。 視線の先に立っていた、十五、六の少女。

 文吉の顔を不思議そうに見つめると、少女は言った。「うちに何か」

 思わず口元を手で覆った。

 みっちゃんまたね、その声に、少女は手を振り言い返す。 じゃあね、またあした。

 照代かと思った。

 違う、未知だ。

 十五年前、満足に抱いてもやらなかった娘の未知。

「今、家に誰もいないけど…… 工場になら、じいちゃんもばあちゃんもいると思うから」

 それだけ言って駆け出した未知を文吉は咄嗟に呼び止めた。「あの!」

 未知が振り返る。

「…… 照代さんは」

 そう口にしていた。

 文吉の言葉に、しばらく突っ立ったまま未知はきょとんとしていたが、

「母の知り合いの人?」

 言うと庭の戸を開けて、どうぞ中へ、と未知は突然の客を促した。 お構いなしに奥へと進み、一度振り返って手招きをした。

 鼓動がせわしなくなる。

 ふらふらよろけて文吉は戸口に手を掛けると、 それをきっかけに、何かに導かれるようそのままするりと中へ引き込まれていった。

 工場から機械の音が聞こえてくる。 カタンカタン。 懐かしく、冷たい無機質な音。 五年あるかないかの月日を文吉はここで過ごした。 そして、ここで一番失ってはいけないものを失った。 いや、捨てた。

 靴を脱いで覚悟を決めた。 どんな言葉で詫びようにも許されはしない。

 座敷に通された文吉の目に真っ先に飛び込んできたものは――仏前に飾られてある一枚の写真だった。

 おぼつかない足取りで仏壇に向かうと、文吉は無気力に倒れ込んだ。

 写真の中の照代は相変わらず笑っていた。 笑っていたが、ふくよかだった頬はこけ、小さかった。 かつての世話好きが、今は仏壇の片隅に小さくおさまっている。

「昨年、風邪の菌が肺だか何だかに入っちゃって、とても悪くなって、それで」

 未知は仏壇の明かりを点けると文吉の前に線香を置いた。 おじさん何て人?  と訊ねる未知の横顔に、文吉は祖母の葬式ではじめて照代と座を並べた時のことを思い出した。

 肩が震えた。

 愛してもいない女に三人の子供を生ませた。 挙げ句、その罪に苦しむように別の女と逃げた。 照代を手段にし、それでもだめだとわかると逃げた。 照代に何の罪がある。 なぜ照代が死なねばならぬ――

「お線香に来てくれた人、久しぶりなんだ」

 何かを察した未知が線香に火を点けて差し出した。 震える手でそれをつかむ文吉の手元から線香が落ちた。 未知が拾う。 それを受け取る文吉。

 二人の目と目が一瞬重なる。

 未知が席を立った。

 お茶、入れてきます、言うと足早に座敷を出て行く。

 それは文吉への思いやりだったのだろうか。 それとも、突如として溢れた見知らぬ男の涙に驚いたせいだったのだろうか。

 一人になった座敷で文吉は静かに泣いた。 今さら流す涙を恥じながら、文吉は泣いた。 泣いた。

 ひとしきり泣いて、流れた涙をぬぐったその時、

「文さん……」

 聞き覚えのあるその呼び方に、油断して文吉は振り向いた。

「あッ」

 低い悲鳴を上げる。 涙をぬぐっていた文吉の手が宙に浮いた。

 額に巻いた手ぬぐいをずるりと引き下げると、政信はその場にかくんと膝を折った。

「…… なんてこった」

 その拍子に落ちた手ぬぐいを政信はぐいと拾い上げた。 年を取って幾分痩せた気はするが、作業服姿の政信はやはりたくましく、昔とちっともかわらない。 かわらぬ政信の目は、今、真っ直ぐ文吉に向けられている。

「文さんだろッ、なあ、文さんだろッ」

 政信の必死の形相を目にし、文吉は返す言葉を失った。

「おじさん帰ったのオ」

 奥から未知の声が響いた。 文吉が身体を起こす。 それを制するようにして政信がむんずと立ち上がる。

「未知、ばあさんが裏で呼んでるぞオ」

「えェ?  だってお客さんにお茶ア」

「いいから行くんだ!」

 政信の声に未知の言葉が途切れた。

 しばらくののち、遠慮がちに戸の閉まる音が聞こえた。未知が出て行った気配に、文吉の胸は空っぽになった。

 どこかでカラスがアァと鳴いた。豆腐屋のラッパの音が遠くで響き、 工場の機械の音も、今なお流れてくる。

 だが、二人の間にあるものは重苦しい沈黙。

「今さらなんなンだ、文さん…… 今さら、なんだってンだよ」

 二羽目のカラスが鳴いた後、押し殺した政信の声が沈黙の中に割って出た。

「未知に何言ったんだ、何を言って、ここに」

 文吉は両の手を強く握った。

「あんた…… なんなンだよ、あの女と…… ちきしょう!  照チャンもう死んじまってンだぞ、それとも今さら現れて父親ヅラでもしようってのか!」

「違う、違うんだ、照代のことは今知ったんだ、本当だよ」

「照代なんて呼び付けにすんなよ!」

 政信が声を荒げた。「呼び付けにすんな」

 すまん、文吉が頭を垂れる。

「政チャン、君が怒るのも当然だ。今さらのこのこ現れて、勝手に上がり込んで」

 声が震えた。 それを遮る政信。

「未知は、あいつは何も知らないんだ…… 文さん、あんたの顔も名前も……」

「…… ああ」

「あんたの存在は迷惑なんだ」

「わかっている」

「二度とこないでくれ」

 政信の言葉に文吉は黙ってうなずいた。

 その瞬間、政信は持っていたタオルを壁に叩き付けた。

「あんた、いつだってそうだ!」

 文吉が顔を上げる。 二人の目と目がぴたりと合った。 その合った目を、どちらも逸らそうとはしない。

 もう一度、すまん、と口にしそうになり、文吉は慌てて飲み込んだ。 息を殺す。 苦しかった。 そう、ずっと苦しかった。

 罪の意識を背負いつつ、それが薄れていく月日の流れ。 そんな事実をふとした拍子に見る怖さ。 今の生活に安住していく恐怖。

 自分は今もなお裏切っている――

「あんた、ほんとは岡崎の家にくる気なんか最初ッからなかったんだ。 あんた、いつだって逃げてたじゃないか、親父さんからもおれからも、照チャンからも。 親父さんがあんたの籍を抜くって言った時、照代がどんな気持ちで首を縦に振ったか、あんた考えたことあンのか!」

 政信の息が上がる。 二人の視線がずれた。

 照代と文吉の結婚を真っ先に賛成してくれたのは政信だった。 照チャンは妹みたいなもんだとあっさり身を引いた政信に、引け目を感じていたのは文吉の方だ。

「その通りだ政チャン」

 その通りだよ、政チャン――

 おれは一人が怖かった。 だからいつも大勢に囲まれている照代に惹かれたんだ。 だけど、おれには結局そういう生き方はできなかったんだよ。 寂しさを偽って、何より自分を偽って生きることが。

 そんなおれ自身からも逃げたかったんだ。 おれは、逃げたかった。

 洋子は一人だった。 本当に独りだった。 あいつは何も悪くない。 おれが勝手にあいつの手をつかんだだけだ――

 殴られると思った。

 文吉は観念し、じっと耐えた。

 それは政信も同じだったのかもしれない。

「…… 帰ってくれ」

 しばらくして、ぽつんと政信はつぶやいた。

 わずかに震えた政信の拳は、あっさり音もなく崩れた。「帰ってくれよ」

 夕日はすでに薄闇にかわっていた。

 ゆっくりと仏壇の方へ身体を向けると、文吉はもう一度照代の写真に向かって手を合わせ、立ち上がった。

 一礼をして立ち去る文吉の背に、政信が呼び掛ける。「なあ文さん」

 その声に振り返りそうになる。

「なんでだよ、文さん」

 ――なんでなんだよ

 だが文吉は振り返らなかった。振り返らず、いつかは我が家だったその懐かしい家の廊下を、ただ出口に向かい歩き続けた。

 すまん、政チャン――

 おれにはやっぱり、一つの生き方しかできないのだよ――


 街灯が通りを照らしている。

 そのうち、一つ二つ民家の明かりが混ざりはじめた。

 踏み締める足元に落ち葉が軋む。風が吹いてそれらは散り散りになった。

 ふいに文吉は振り返った。

 振り返ったその先にいたのは未知だった。 黄昏色に染まった未知の顔が、歩みを止めた文吉の目の前にゆっくりと浮かび上がった。「間に合った!」

 ようやく文吉に追い付いた未知は、わずかに息を弾ませながら右手を差し出した。

「お母さんの形見、よかったら」

 そっと開く。

「政おじさん…… うちの、おじさんから。 さっきの人に渡してこいって言って、それであたし、走ってきたの」

「政チャンが?」

 文吉は言うと、恐る恐るその手のひらのものを受け取った。

 小さい指輪は軽かった。

 周囲に散々ばかにされた初めての贈り物。 二人だけの交わしごとに使われた、数千円のおもちゃの指輪。 照代はそんなものを、ずっと大事に持っていてくれたのだろうか。

 瞬時、押しとどめていたものが溢れ出した。

「おじさんは優しくしてくれるかい?」

 未知の顔に戸惑いが走る。 だが文吉は堪えきれなかった。

「おじさんは、お兄ちゃんは、どうだい?」

 二人のお兄ちゃんは、妹の君を、大事にしてくれるかい――?

 指輪を強く握り締める。二人の間に遠慮がちな沈黙が流れた。

 先に口を開いたのは未知だった。

「あたしんち、お父さんがいないんです」

 未知は続けた。

「あたしが生まれてすぐ死んじゃって。だから、政おじさんがお父さんみたいなもので」

 ゆっくり振り返ると、未知は遠くを指差した。

「あれ、あの赤いの、見えますか?」

 文吉が未知の指差す方へ目をやる。 視線がある場所で止まった。

 その時、思い出した。

 赤い鳥居の名は稲荷神社だったと、文吉ははっきり思い出した。

「稲荷神社……」

「知ってるんですか?」

 うなずく文吉に誘われるように、未知の言葉が流れた。

「あの鳥居の前を通るとね、キツネに化かされるっていう話があってね、それが笑っちゃうんだ、あたしがまだ子供の頃お母さんがね、言うの。未知のお父さんはキツネに化かされて、道に迷って帰ってこれないんだよって、言うの」

 言葉が途切れた。

「変なのね」

 小さくつぶやく。   

 文吉は未知の言葉を脳裏で繰り返し繰り返し、鳥居を見続けた。

 何となく、祖母の幻影を見た気がしたからか。 いや、それはもしかしたら照代だったかもしれない。

 でも、もういいんだ――

 遠くに、小さく、ぽつんと見える鳥居は、何だか嘘っぱちのように思えた。 そこにあるようで、ないようだった。

「あの……」

 未知の声で我に返る。風が冷たかった。 その冷たさに、未知の頬は青白かった。

「なんだい?」

 文吉が訊ねる。青白いせいか未知の表情はかたくなに見える。いや、そうじゃない。 かたくなに堪えているのだ。

 声が小さかったのは、堪えていたから。

 突如、未知の目が涙で溢れた。

 ぽろぽろと、だがそれはほんの一時だった。 すべてが零れ落ちてしまうと、未知は何ごともなかったかのように、手のひらでぐいと涙を拭いた。 そして文吉に向かって、おじさん何て人?  そう聞いた。

 抱きしめてしまおうかと思った。

 何もかもを投げ出して、目の前の娘を抱きしめてしまいたい。 文吉は腕に力を込めた。

 だができない。 できないのだ。

 背後で泣く赤ん坊を、自分はあの時、振り捨ててきたじゃないか――

 大きく息を吸う。 吐く。

 そっと未知に手を伸ばすと、頬をぬぐった。 冷たいその感触が文吉の心を切なく震わせた。

「ただの、通りすがりだよ」

 薄闇に月が揺れはじめる。

 文吉は未知の頬から手をはなした。

「もう、帰りなさい」

 指輪を上着のポケットにしまうと言った。

 もう、お帰り――

 文吉の言葉に未知は黙って一礼だけすると、ゆっくり背を向けた。 わずかに走った後で、一度振り返った。 手を振った。 おじぎをして再び走り去った小さな後ろ姿は、二度と振り返ることはなかった。


 一つ手前の停留所で降りた。

 夜の八時を過ぎていた。 文吉は上着のポケットに手を入れて、確認する。

 写真と指輪。

 冷たい夜風が身に染み入る。 タバコを取り出しても、吸う気になれない。

 なんだかおかしかった。 おかしくて、切なくて、涙が溢れる。

 悲しかった。

 見飽きた商店街の角に洋子は立っていた。

 今朝見た格好と同じ、白いカーディガンに紺のズボン。 ぽつんと地面を見つめている。

 点滅した青信号を駆け足で文吉は渡った。

「洋子!」

 その声で洋子は顔を上げた。 文吉に気が付くと、スーパーの袋を引っ掛けていた手を振り上げて、慌てて戻す。 照れくさそうに反対の手で小さく振り直した。

「何やってんだ、お前」

 少し息が弾む。

 足をゆるめた。 小走りで向かってくる洋子に手を伸ばすと真っ先に肩をつかんだ。 相変わらず痩せた肩。 袋を持ってやると洋子は嬉しそうに、ありがとう、とつぶやいた。

 文吉は思う。

 洋子は気付いているだろう――

「こんな時間まで、何やってるんだ」

 自分が聞かれてもいいようなセリフを口にして、文吉は苦笑した。 そして思い出す。 あの夜もやはりこうして、洋子はぽつんと一人街角に突っ立っていた。

 二人であの町を出た夜も。

 文吉の横を歩きながら洋子は頭を垂れた。

「仕事帰りに買い物してたら、遅くなっちゃって」

 いくらも入っていないスーパーの袋。 洋子はうつむいたまま、気まずそうに隣を歩いている。 文吉は袋を肩に掛けた。

 そして言った。

「フライ返し、買いに行こう」

 洋子が顔を上げる。

「でも今日は遅いよ、もう帰ろう」

 文吉の言葉に洋子はゆっくりうなずいた。

 街灯の明かりを背に、二人の影が揺れた。










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