第三話 青春よりも大事なこと

 ――――夕暮れ。逢魔が時。黄昏色に染まった公園。


 曖昧で、幻想的な、赤みがかった灰色の空間は、悪くないシチュエーションだと思った。二人きりではないけれど、いかにも運命的といった風情の出会いな気がする。


 しかしそんな風に考えるのは疑いようもなく、ゲームやアニメの影響なので、実際はそこに、神秘性なんてないのだろう。でも、だとしても、僕にとってこの出会いは、その捏造された印象に酔えるくらい特別なものだ。

 

 彼女には聞きたいことが沢山あった。


 「いつから視えているの?」、「他にも視える人を知ってる?」、「なぜ自分から話しかけたりするんだ?」、そして何より――どうしてそんなに、人目を気にしないでいられるのか。


 町中で、まったく見ず知らずの女の子に声をかけるなんて、普段ならあり得ない行動だ。僕にはそんな気軽さも心の強さもない。つまりこの時の僕は、間違いなく興奮していたのだと思う。


 初めての『同類』との接触に、良くも悪くも頭が回っていなかったのだ。だから不用心にも、まっすぐに近づいて、感情の昂るままに声をかけてしまった。


「なぁ、ちょっといいかな?」


 彼女の服装は、鎖骨を大胆に覗かせたオフショルダーのクロップドニットだった。深いグレーの編み地は肌に沿うように薄く、裾はウエストラインの上で無造作に切り上げられている。


 へそ出しのスタイルに合わせているのは、タイトな黒のハイウエストショートパンツ。首元には太い黒のチョーカーが、その挑発的な装いに、クールなアクセントを加えていた。


「僕と少し話を――」


「あのさ、あたしいま忙しいんで。話しかけんの止めてくれない?」


 血が、凍りついた。


 浮ついた僕の言葉に被せられた、有無を言わさぬ拒絶。

 さっき聞いた、優しく包み込むような声の温もりなど、微塵も感じさせない冷ややかな音。


 慈愛の塊のようだった表情は消え失せ、喜怒哀楽を一切排した顔が、僕を見ていた。ガラス玉のように無機質な赤い視線は、射抜くなんて生易しいものじゃない。僕の心臓を抉りだすものだ。


 全身の感覚が、麻痺したのではないかと錯覚する。

 人間はここまで冷たくなれるものかと、激しい戦慄に襲われ、『恐怖』を感じて身動きが取れなかった。


 情けない話だけれど、僕はこの、僕より一回りほど小柄な女の子のことが、恐ろしくてたまらなかったのだ。だから二の句を告げるどころか、呼吸さえも出来ないまま、その場に立ち尽くしていた。

 滑稽に、惨めに、場違いな異物として。


 固まる僕の前で、無言のまま屈んでいた彼女が、立ち上がる。


 この時僕は、殺されるのかと思っていた。比喩でも何でもなく、本気で、だ。彼女には、そう感じさせるだけの凄みがあった。


 僕の肩上ほどの高さから、人工的な赤い瞳が向けられる。


 部屋の中で大きなゴキブリを見つけたみたいな、あるいは、人を殺すと決意した人間なら、こんな目をするのかもしれない。そう思わせる、そんな目つきで。


 なぜそんな目で僕を見るのかも、真っ白になった頭では、考えることが出来なかった。


 視線を逸らすことも許されず、見つめていた彼女の口元が微かに開きかけた、その時――――、


「は――――ずびびびびっ!」


 彼女の隣から、凄まじい水気のある音が響いた。

 それはまるで、『思いっきり鼻をかんだ』ときのような、そんな風に形容するしかない、ひどく間の抜けた音だった。


 音に目をやれば、泣きじゃくっていた小さい子が、ハンカチで鼻を抑えている。


 艶のある、整えられた長い黒髪。袖口まで優雅に膨らむ白いブラウスと、茶色とベージュの千鳥格子柄のスカート。まるで、古い絵本に出てくるような、どこかクラシックな印象を与える、上品な見た目の女の子だ。


 ……盛大に鼻をかんでいたけれど。


「あーー……ズズッ。なんだかすまないねぇ。この小さな身体のせいなのか、感情が上手く抑えられなくてねぇ。ええ、本当に」


 小さな女の子――幼女はハンカチを下ろし、鼻をすすりながら、困ったような顔を浮かべて言った。


 その様子を、呆気に取られて眺める僕とギャル。

 互いの間にあった殺伐とした空気は、言わずもがな霧散していた。


「お嬢ちゃんも、一生懸命お話してくれたのに、悪いわねぇ。なかなか落ち着けなかったものですから、どうか気を悪くなさらないで」


 申し訳なさそうな声は幼く高く、とても見た目通りの声なのだけれど、その話し方に違和感があった。まるで耳に優しい子守歌のような、なんていうか、こう――――、


 具体的に言えば、『お婆ちゃん』みたいな感じだったのだ。

 そして、幼女を眺める僕の隣で、ギャルは言った。


「アンタ――この子が視えるの?」


 それからこの、幼女のような老婆なのか、老婆のような幼女なのか、良く分からない怪異との心温まる一件を経て。


 僕とギャル――汐遠の関係は、現在に至る。


 偶然に端を発したこの、奇妙なゴールデンウィークの事件については、いまは置いておくとして。これが『見えちゃうズ』と、汐遠が呼んでいる理由だ。


「――パイ。おーい、囮センパーイ」


「ん? あぁ、ごめん。ぼーっとしてた」


「あらら。寝不足ですか? お引越し疲れですかね?」


 汐遠が突然、妙なことを言い出した。


「……なんで瑞々みずみずさん――汐遠がそんなこと知ってるんだ」


 口にしかけた呼称を、じろっと睨まれて言い直す。


「えー? なんでってあたしー、好きな人のことはー、何でも知りたくなっちゃうタイプなんでー」


 モジモジと上目遣いに僕を見る汐遠。


「怖っ。仮にそれが冗談じゃなくても普通に怖いわ」


「嘘ですよ。あたしご近所さんなんで。見かけたら気になるじゃないですか?」


「気になる? 別に他人の引っ越しなんて気にしないだろ」


「そりゃ気になりますって。だって一年も空き家だった『お化け屋敷』に、誰かが引っ越してきたんですよ?」


 お化け屋敷……ね。

 あの家、そんな風に思われてたわけだ。


「あ……ごめんなさい。先輩のお家なのに、失礼なこと言っちゃって」


「いや、別にいいよ。間違ってないし、そもそも僕だってあの家は――」


 嫌いだった――なんて、彼女に話すことでもないか。それにわざわざ自分から、不必要に提示したい話題でもなかった。


「先輩?……やっぱりちょっと怒ってます?」


「まったく。全然気にもしてないから、汐遠も気にしないでくれ」


 本当にそうなのだけれど、汐遠は申し訳なさそうに眉を下げていた。どうも否定すればするほど、沼っていく気がする。


「……近くに住んでたのか。新市街じゃないんだな」


 なので話題を変えて、適当にお茶を濁すことにした……つもりだったのだけれど、なぜか彼女は困ったように笑う。


「あー……それはその、今日はたまたま旧市街にいて、みたいな? 彼氏が帰らしてくれなかったから――って言わせないでくださいよ! 恥ずかしい!」


 汐遠は視線を地面へと逸らし、左手を口元に添えて、恥じらいながら言った。


 別に可愛くて明るい後輩に彼氏がいても、僕は驚いたりしない。しないけど、なんか変に、モヤっとした気持ちにはなる。


 『いつか』の選択肢が消えることへの抵抗、無意識に感じてしまう、『選ばれなかった』ことへの反応。この気持ちに無理やり理由をつけるなら、そんなものなのかもしれない。


 だから決して、汐遠に彼氏がいたからどうというわけではないのだ。そう、これはあくまで一般的な感覚として。


「……聞いてねぇし。なんなら知りたくもなかったっての」


「あは! ショックでした? 安心してください。全部嘘ですから。ご近所さんは本当ですけど、あたしフリーですし、ちゃんと、未経験、ですよ?」


「だから聞いてねぇよ! そういうの反応に困るからやめて!?」


「あれれー? 先輩ってば顔真っ赤ですよー?」


「うっさいわ!」


 にしし、と彼女は悪戯っぽく、楽しそうに笑う。後輩にイジられるのは、先輩としてどうなのかとは思うけど、意外と悪い気はしなかった。


「……ほんと、素直な人。だからきっと、好かれちゃうんでしょうね」


 汐遠は落ち着いた声でそう言うと、いつの間にか、また俺の背中にしがみついていた猫を、そっと掴んで引きはがす。掴まれた途端、「んなー」と不満げな声を上げて、猫は消えてしまった。

 

「迷惑でしかないよ……こんなの、嬉しくもなんともない」


「あたしみたいに、視えるだけならともかく――ですか。でもでも、おかげで私と出会えたわけですし? 面倒なこと全部ひっくるめても、絶対プラスですよ」


「そういうの、ガチで自信満々に言える人間、初めて見たぞ」


 ニコッと笑顔を浮かべる汐遠の、その自信はどこから来るのだろう?


 まさに自己肯定感の塊だ。どこまでも前向きで明るい彼女の振る舞いは、いかにも僕の想像する、ギャルという存在のイメージに合っていた。


「ふふっ。ちゃんと先輩に、良かったーって思わせる自信がありますからね」


「……なんか、その言い方だとさ」


「はい? どうかしました?」


 まるで、彼女にでもなってくれるみたいな感じじゃないか。そう口にしようとして、止めた。汐遠は別にそんなことは言っていないし、そんなつもりもないだろう。僕が彼女を意識してるみたいだし、変に気まずくなっても困る。


「いや、なんでもない」


 確かに彼女のような女の子がそばにいれば、学園生活も、この嫌な体質のことも、気にならないほど華やかで、楽しいものになるのかもしれない。


 とはいえ――それはあくまで、『普通の学園生活』に限った話だ。彼女がいくら明るく僕の青春を照らしてくれようとも、この不安だけは拭えないのだから。


 去年は違ったはずなのに、進級してから僕にとっての学園は、危険極まりない場所になってしまった。割と真剣に、『命がかかっている』と言えるほどまである。


 だからいまの僕に必要なのは、充実した青春の兆しではない。身を守るための、情報収集こそが最優先なのだ。本来なら青春の一部でしかないだろう古典的な、全国どこにでもある『それ』に対処するために。


 のどかな怪異たちとは違う、実害を持って僕に襲い掛かってくる存在。『それ』とはつまり————、



 『学園の七不思議』という、子供じみた噂の脅威だ。

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2025年12月18日 18:06

家隠囮の異常な日常 夜ノ烏 @yorunokarasu

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