第2話**エピローグ:名札のない日々**
**エピローグ:名札のない日々**
田所が会社を去る日は、小雨が降っていた。
送別会は辞退した。部下たちがそれを聞いて、露骨に安堵した空気を彼は感じ取っていたからだ。
夕刻、フロアの出口で、総務が用意した定型の花束を受け取った。
「長い間、お疲れ様でした」
代表して花束を渡したのは、あの期間従業員の田中だった。
田所は花束を受け取りながら、最後に何か言わなければと思った。今こそ、彼を「田中くん」と呼ぶべきではないか。そうすれば、少しは何かが修復されるのではないか。
「……あ、ああ。ありがとう……」
喉まで出かかった名前は、結局、声にならなかった。今さら名前で呼んだところで、積み上げた「冷徹な管理職」という仮面が崩れるだけの気がしたのだ。あるいは、名前を呼んだ瞬間に、「え、名前知ってたんですか?」というような冷ややかな目を向けられるのが怖かったのかもしれない。
田中は深々と頭を下げたが、その瞳は業務時間中と同じく、田所という個人を映してはいなかった。ただ「退職者」という処理対象を見ている目だった。
エレベーターの扉が閉まる瞬間、フロアの喧騒が聞こえた。
「おいバイト君、あそこの在庫!」「派遣さん、次これお願い!」
新しい部長の声だろうか。そこではすでに、田所のいない新しい「機能」のサイクルが回り始めていた。
***
退職から半年が過ぎた。
田所の朝は早い。会社に行く必要はないのに、長年の習慣で6時に目が覚める。
することもなく、近所の公園へ散歩に出るのが日課になった。
ベンチに座り、鳩を眺める。
かつては「部長」という肩書きが、彼の背骨を支えていた。誰かに指示を出し、誰かを枠にはめ、組織という機械を回している自負があった。
だが今、彼は何者でもない。
「すみません、そこの**おじいさん**」
突然、背後から声をかけられた。
田所はビクリとして振り返った。若い母親が、ボールを指差して立っていた。
「ボール、取ってもらえませんか?」
「あ、ああ……」
ボールを拾い上げ、子供に渡す。
「ありがとう、**おじいちゃん**!」
子供は無邪気に笑って走り去った。
田所は呆然と立ち尽くした。
おじいさん。おじいちゃん。
かつて部下たちを「パート」「派遣」と呼び、個性を剥奪して記号化していた自分が、今は社会の中で「老人」という巨大なカテゴリの中に放り込まれ、一塊の記号として扱われている。
「……私は、田所だ」
小さな声で呟いてみたが、それは公園の風に流され、誰の耳にも届かなかった。
その日の午後、自宅の電話が鳴った。
妻は買い物に出かけている。田所は重い腰を上げて受話器を取った。
「はい、田所です」
『おう、田所さんかね?』
聞き覚えのある、のんきな声だった。半年前に会社にかかってきて、彼を恐怖のどん底に突き落とした、あの町内会長だった。
『今度の日曜の清掃活動じゃがな、人が足りんのよ。あんた、暇になったんだろ? 出てくれんかね』
「はあ……まあ、構いませんが」
『助かるよ。じゃあ頼むよ、**新人さん**』
プツリと電話が切れた。
受話器を持ったまま、田所は力なく苦笑した。
部長から、新人へ。
人を役職や属性でしか呼んでこなかった男の、これが第二の人生の始まりだった。
ここには部下もいない。命令権もない。ただの「地域社会の新人」として、彼はこれから、自分の名前を覚えてもらうために、一からゴミを拾わなければならないのだ。
田所はカレンダーの「清掃日」という文字を指でなぞった。
その背中は、現役時代よりもずっと小さく、そして少しだけ人間らしく見えた。
**「おい、パート」「こら、派遣」。部下を記号で呼んだ男が、定年後に「老人」という記号になるまで。 志乃原七海 @09093495732p
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