**「おい、パート」「こら、派遣」。部下を記号で呼んだ男が、定年後に「老人」という記号になるまで。
志乃原七海
第1話:名無しの王様
***
**タイトル:名無しの王様**
営業三部のフロアには、乾いた蛍光灯の光と、キーボードを叩く音だけが響いていた。
部長の田所(56歳)は、自分のデスクから太い声を上げた。
「おい、**派遣さん**。この見積書、数字がズレてるぞ」
呼ばれた女性、派遣社員の佐藤は、眉をひとつ動かしただけで立ち上がり、無言で書類を受け取った。田所は彼女の名前を知らないわけではない。座席表には書いてある。だが、彼にとって彼女は「派遣という機能」であり、それ以上でも以下でもなかった。
「**パートさん**、悪いけどコーヒーのお代わり」
「**バイト君**、郵便出してきて」
田所の呼びかけは、記号の羅列だった。彼はそれを「区別」であり「効率」だと信じていた。人の入れ替わりが激しい昨今、いちいち個人の背景に踏み込むのはリスクだし、情が移ればリストラの時に切りにくい。それが彼の管理職としての処世術だった。
だが、その「効率」が揺らいだのは、工場から応援要員が来た日だった。
やってきたのは三十代半ばの男、田中。
彼の雇用区分は**「期間従業員」**だった。
「田所部長、着任しました田中です」
「ああ、ご苦労」
田所は初日にそう返したきり、彼をどう呼ぶかで詰まってしまった。
(「期間」……呼び捨てにするとなんだか語呂が悪い。「期間さん」……変だ。「期間工」……今は差別的だと人事がうるさい。「期間従業員さん」……長すぎる)
「パートさん(3拍)」「派遣さん(4拍)」のリズムで回っていた田所の辞書に、7拍以上の「期間従業員」は馴染まなかった。
「おい、そこの……えー、期間の……」
結局、田所は彼を指差して呼んだ。田中は静かな目で田所を見つめ、「はい」と短く答えるだけだった。
***
繁忙期のピーク、フロアの空気は殺伐としていた。
田所はイライラしていた。上層部からの突き上げと、進まない現場の板挟み。
「おいバイト! まだか! 派遣さん、その資料じゃない!」
怒声が飛ぶ。その時、電話が鳴った。
近くにいた派遣の佐藤が受話器を取る。
「はい……はい、少々お待ちください」
彼女は保留ボタンを押し、冷ややかな声で言った。
「部長、**『お取引先さん』**からお電話です」
田所は顔を上げた。
「どこの?」
「さあ。『お取引先』としか名乗られませんので」
「社名を聞けよ!」
「聞きましたが、『いつも世話になってる取引先だ、部長ならわかる』と」
田所は舌打ちをして受話器をひったくった。
「お世話になっております! ……あ、なんだ、西日の鈴木さんか……ええ、はい……」
電話を切ると、今度は入り口からアルバイトの学生が顔を出した。
「部長、入り口に**『お客様』**見えてます」
田所のこめかみに青筋が立った。
「だから、どこの誰だ!」
「いや、アポなしの『お客様』なんで。僕、バイトなんでよくわかんないっす」
部下たちの目が、静かに田所を見ていた。誰も助け舟を出さない。田所が彼らを「機能」として扱ってきたように、彼らもまた、田所に対してマニュアル通りの、感情のない「機能」として接し始めていた。
その時、デスクの奥で、あの期間従業員の田中が電話を受けた。
彼は受話器を耳に当てたまま、少し困ったような、それでいてどこか冷徹な表情で田所を見た。
「部長」
「なんだ! 今度は誰だ!」
「**『会長さん』**から、お電話です」
フロアが一瞬、凍りついた。
田所の顔から血の気が引いた。
会長? 本社の? まさか、今回のトラブルが耳に入ったのか? それとも人事異動の通達か?
田所の脳裏に、定年後の再雇用や退職金の減額といった文字が走馬灯のように駆け巡る。
「か、会長……?」
「はい。威厳のあるお声で、『会長じゃ』と」
田所は震える手で受話器を受け取った。喉がカラカラに乾いていた。
「お、お待たせいたしました! 部長の田所でございます!」
彼は椅子から立ち上がり、直立不動で電話に向かって叫んだ。
『おう、田所さんか? わしじゃよ、町内会の会長じゃ』
受話器の向こうから聞こえたのは、田所のマンションの自治会長の、のんきな声だった。
『今度の週末の清掃活動なんじゃがな……』
田所はガクリと膝をついた。全身の力が抜け、脂汗がワイシャツに滲んだ。
「……今は、勤務中でして……」
力なくそう答えて電話を切ると、フロアには、パソコンのキーボードを叩く音だけが戻っていた。誰も田所を見ようとしなかった。
「……おい、田中くん」
田所は思わず、その期間従業員の名前を呼んでいた。
しかし、田中はパソコンに向かったまま、聞こえていないふりをして作業を続けている。
田所は気づいた。
自分が部下たちの名前を奪ったように、自分もまた、この職場で「部長」という名のただの記号になり果てていたことを。
「誰か……コーヒーを……」
そのつぶやきは、誰の耳にも届くことなく、乾いた空調の音に吸い込まれていった。
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