第8話 連鎖

 九月。

 陽子のもとに、一通のLINEが届いた。

 瑠美からだった。何ヶ月ぶりかの連絡。

『お母さん、元気?』

 陽子は驚いた。慌てて返信を打った。

『元気よ。瑠美は? 大学どう?』

 返事はすぐに来た。

『まあまあ。今度、会えない? 話したいことがあるの』

 陽子の心が跳ねた。娘が会いたいと言っている。話したいことがある。

『もちろん。いつでも』

『来週の土曜日、お昼、駅前のカフェで』

『分かった。楽しみにしてる』

 陽子はスマートフォンを握りしめた。

 瑠美が会いたいと言っている。何かあったのだろうか。でも、会えるだけで嬉しかった。

 健二には——

「誰からLINE来たんすか」

 背後から声がした。健二だった。

「瑠美よ。会いたいって」

「会う必要ないでしょ」

「娘よ?」

「山本さんのこと、散々傷つけた娘でしょ。また傷つけられるだけっすよ」

「でも——」

「俺がいるのに、他の人に会う必要ありますか」

 健二の目が、陽子を見ていた。冷たい目。

「……分かったわ」

 陽子は頷いた。

 LINEを開いた。返信を打とうとした。「ごめん、その日は無理」と。

 でも指が止まった。

 瑠美の顔が浮かんだ。十八歳の娘。冷たい目で自分を見ていた娘。でも、あれは娘なのだ。自分の腹を痛めて産んだ、たった一人の娘なのだ。

「山本さん?」

 健二が覗き込んできた。

「何してるんすか。早く断ってください」

 陽子は——

 断った。

『ごめんね。その日は予定があって。また今度ね』

 送信した。

 健二が満足そうに笑った。

「良かった。山本さんには、俺だけいればいいんすよ」

「……ええ」

 陽子は頷いた。

 頷きながら、自分の中の何かが死んでいくのを感じた。


 それから三ヶ月後。

 陽子は、一枚の写真を見た。

 SNSで流れてきた写真。瑠美がアップしたものだった。

 瑠美と、年上の男性が一緒に写っていた。四十代くらいだろうか。スーツを着ている。知的な顔立ち。

 キャプションには、こう書いてあった。

『大切な人』

 陽子はコメント欄を見た。友人らしき人たちのコメントが並んでいる。

『え、教授じゃない?』

『マジ? あの人、奥さんいるよね』

『瑠美、大丈夫?』

 陽子は画面を見つめた。

 手が震えていた。

 教授。奥さんがいる。つまり——

 瑠美は、妻子ある男と関係を持っている。

 あの日、瑠美が会いたいと言ったのは、これを相談したかったのではないか。母親として、何か言ってほしかったのではないか。

 でも陽子は断った。健二に言われて、断った。

 娘を、見捨てた。

 陽子は笑った。声を出して、笑った。

 何を笑っているのか、自分でも分からなかった。でも笑いが止まらなかった。

 瑠美は、母親と同じ道を歩もうとしている。

 妻子ある男に惹かれ、禁断の関係に堕ちていく。母親を非難しておきながら、同じことをしている。

 血は争えないのか。

 それとも、私が見せた背中が、娘をそうさせたのか。

 分からない。分からないまま、陽子は笑い続けた。


「山本さん、何笑ってるんすか」

 健二が不審そうに聞いた。

「何でもないわ」

 陽子はスマートフォンを閉じた。

「それより、夕飯何にする?」

「何でもいいっすよ。山本さんの作るものなら」

「じゃあ、パスタにするわね」

「はい」

 陽子はキッチンに立った。

 鍋に水を入れる。火にかける。沸騰するのを待つ。

 その間、何も考えなかった。

 考えることを、やめていた。

 瑠美のことも。明美のことも。自分の人生のことも。

 全部、もう遠いことだった。

 今の陽子には、健二しかいない。

 健二だけが、陽子を見ている。

 健二だけが、陽子を必要としている。

 それでいい。

 それだけでいい。

 パスタが茹で上がった。ソースをかけて、皿に盛る。

「できたわよ」

「ありがとうございます」

 二人で食卓につく。狭いアパートの、小さなテーブル。

「美味いっすね」

「良かった」

 健二が笑う。陽子も笑う。

 幸せそうな光景。でもその幸せは、薄い膜のようだった。触れれば破れる、脆い膜。

 陽子は気づいていた。

 これが幸せではないことを。

 これが愛ではないことを。

 ただ、沈んでいるだけだということを。

 でも、もう浮かび上がる力がなかった。

 健二の視線が、陽子を捉えている。優しい目。でもその優しさの奥には、冷たいものがある。

 陽子を逃がさない、という意志。

 陽子は目を伏せた。

 これでいい。

 これが、私の選んだ水底だ。

 暗い。冷たい。息ができない。

 でも、誰も私を傷つけない。誰も私を捨てない。健二だけが、私を求め続けてくれる。

 それだけでいい。

 それだけで——


 窓の外で、鳥が鳴いていた。

 陽子は空を見た。青い空。どこまでも続く空。

 あの空の下で、瑠美が同じ道を歩もうとしている。

 母と娘。二人の女が、同じ闇に落ちていく。

 連鎖は、終わらない。

 終わらないまま、続いていく。


〈了〉


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水底 卦位(けい) @wsedrf

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