第7話 沈下
四月、陽子は健二のアパートに引っ越した。
狭い部屋だった。六畳一間にキッチン。陽子の荷物を入れると、さらに狭くなった。でも健二は嬉しそうだった。
「やっと一緒っすね」
「ええ」
「待ってたんです、この日を」
健二が陽子を抱きしめた。強く。
「もう離さないっすからね」
その言葉に、陽子は頷いた。
これでいい。これが私の選んだ道だ。
そう自分に言い聞かせた。
一緒に暮らし始めてから、健二は変わっていった。
いや、変わったのではない。隠していたものが、表に出てきただけだ。
「山本さん、今日どこに行ってたんすか」
「絵画教室よ。仕事」
「何時に終わったんすか」
「四時」
「じゃあ、何で家に着いたの六時なんすか」
「買い物して——」
「何買ったんすか」
「夕飯の材料」
「レシート見せてください」
陽子は言葉を失った。
「……何で」
「何でって、確認したいだけっすよ。山本さんが嘘ついてないか」
「嘘なんて——」
「じゃあ見せてください」
陽子はバッグからレシートを取り出した。健二がそれを受け取り、じっくりと見た。
「スーパー、四時半。確かにそうすね」
「だから言ったでしょう」
「すんません。でも確認しないと不安なんで」
健二は笑った。でもその目は笑っていなかった。
五月。
陽子は絵画教室の仕事を辞めた。
辞めたいと思ったわけではない。健二が言ったのだ。
「山本さん、絵画教室、男の生徒いるんすよね」
「一人だけ。七十代のおじいさんよ」
「でも男でしょ」
「おじいさんよ?」
「男は男っす」
「馬鹿なこと——」
「馬鹿じゃないっすよ。俺、山本さんが他の男と話してるの想像するだけで、頭おかしくなりそうなんで」
「健二さん——」
「辞めてくれませんか。絵画教室」
陽子は黙った。
「俺の稼ぎだけじゃ足りないっすか」
「そういう問題じゃ——」
「俺、山本さんを養いたいんです。山本さんには、俺だけを見ていてほしい。それだけなんです」
健二の目が、陽子を捉えていた。逃がさない目。
結局、辞めた。
倉庫の仕事だけが残った。それも、健二と同じシフトでしか入れなくなった。
「一緒に働けるほうがいいでしょ?」
健二は笑顔で言った。陽子は頷くしかなかった。
六月。
陽子は、自分がどこにも行けなくなっていることに気づいた。
朝、健二と一緒に倉庫に行く。仕事中、健二はずっと陽子を見ている。帰りも一緒。家に帰っても、一緒。
一人になる時間がなかった。
「健二さん、私、少し一人で出かけたいんだけど」
「どこに?」
「美術館。久しぶりに絵を見たくて」
「俺も行きますよ」
「一人で——」
「何で一人がいいんすか。俺と一緒じゃ駄目なんすか」
「そういうわけじゃ——」
「じゃあ一緒に行きましょう」
結局、二人で行った。でも健二は絵に興味がなかった。ずっとスマートフォンをいじっていた。陽子が絵の前で立ち止まると、「まだ見るんすか」とため息をついた。
「もう帰りましょうよ」
「でも——」
「疲れたんで」
陽子は美術館を出た。
帰り道、健二は上機嫌だった。
「今日、楽しかったっすね」
陽子は何も言えなかった。
七月。
陽子は娘に連絡を取ろうとした。
瑠美とは、引っ越してからほとんど連絡していなかった。何度かLINEを送ったが、返事は短かった。「元気」「忙しい」。それだけ。
電話をかけてみた。呼び出し音が鳴る。出ない。
「誰に電話してるんすか」
健二が後ろから声をかけた。
「瑠美よ。娘」
「何で」
「会いたいから。元気か確認したいから」
「必要ないっすよ」
「え?」
「娘さん、山本さんのこと嫌ってるんでしょ。そんな人に連絡したって、傷つくだけっすよ」
「でも、娘だから——」
「俺がいるじゃないすか」
健二が陽子のスマートフォンを取り上げた。
「山本さんには俺がいれば十分でしょ。他の人なんて、いらないっすよ」
「健二さん——」
「ね?」
健二の目が、陽子を見ていた。優しい目。でもその優しさの奥に、冷たいものがあった。
陽子は頷いた。
頷くしかなかった。
八月。
陽子は鏡を見た。
五十歳になっていた。誕生日は、健二が祝ってくれた。ケーキを買ってきて、「おめでとうございます」と言った。二人きりの誕生日。
鏡の中の自分は、疲れていた。痩せた。化粧をしなくなった。健二が「すっぴんのほうが好き」と言ったから。
髪も伸びていた。美容院に行きたいと言ったら、健二が「俺が切る」と言った。下手だった。でも「似合ってる」と言われて、そのままにした。
陽子の世界は、健二だけになっていた。
友人はいない。娘とは連絡が取れない。絵も描いていない。
残ったのは、倉庫の仕事と、健二との生活だけだった。
ふと、明美のことを思い出した。
田中明美。大学の後輩。二科展に入選した。「普通の主婦が描く現代絵画」として脚光を浴びた。
あの人の夫は、「また描いてみたら」と言った。「お前の絵が好きだ」と言った。
陽子の夫は、何も言わなかった。
そして健二は——
「山本さん、俺の絵、見たいっす」
そう言った。でも、「また描いてみたら」とは言わなかった。
描かせてくれなかった。
絵を描く時間も、場所も、心の余裕も、全部奪われていた。
夫が違えば——
その言葉が、また浮かんだ。
でも今は、別の意味で響いた。
夫が違えば、私は幸せになれた。でも健二を選んでも、私は幸せにならなかった。
違ったのは、夫ではない。
私自身だ。
私が、間違え続けてきたのだ。
藤井を捨てたとき。昭雄を選んだとき。健二に堕ちたとき。
全部、間違いだった。
でも、もう戻れない。
陽子は鏡から目を逸らした。
その夜、健二が言った。
「山本さん、俺のこと愛してますか」
「ええ」
「本当に?」
「本当よ」
「俺だけ?」
「あなただけよ」
健二は満足そうに頷いた。
「俺も山本さんだけっす。山本さんがいないと、俺、生きていけない」
「……」
「山本さん、絶対に俺から離れないでくださいね」
「分かってるわ」
「約束して」
「約束する」
健二は陽子を抱きしめた。強く。痛いくらいに。
「愛してます」
「私も」
その言葉は、嘘ではなかった。嘘ではないはずだった。
でも陽子の心は、どこか遠くにあった。
空っぽだった。何も感じなかった。ただ、そう言うことが正解だと分かっていたから、そう言っただけだった。
これでいいのだ。
これが、私の選んだ人生なのだ。
陽子は目を閉じた。
暗闇の中で、健二の腕が陽子を締めつけていた。抱きしめるように。逃がさないように。
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