第5話
見世に戻った吉野は抱主とお内儀に、出先でのことを有り体に打ち明けた。渋い顔をする抱主は、火鉢に翳した指先を揉んで考え込んでいる。
火鉢に掛けられた鉄瓶が、しゅうと湯気を吐き出しているのを眺めて、吉野は固唾を飲んだ。――金の話が先か、叱られるのが先か。
「まぁ、言わなきゃいけん事は色々あるがの。御前さんは東雲に似てきたのうや」
呆れ果てた言い様で、抱主は吉野を睨んだ。東雲を自分の支度部屋で看取り、今度は妹を庇うために金を貸せという吉野と、かつて吉野を庇護しつづけた東雲を重ねた皮肉だった。
「じゃが、先に金の話をしよう。三年じゃ。年季を三年繰り延ばすと承知するなら、用立ててやろう。」
そも、年季の事は承知の上で願い出た話であるから、吉野には是非もない。
抱主は部屋の隅で小さく仕切られた帳場に腰を移して、吉野の借用書を書き始める。それを待つ間、鉄瓶は何度もちりちりと音を鳴らした。
火鉢の前に腰を戻した抱主が、まだ墨が乾かぬ借用書と紙に包んだ金を脇に置く。一つ咳払いをすると、屹と吉野を睨んだ。
「大元から質せば、御前は迂闊なことをしてくれた」
その低い声に、吉野は顔を強張らせて頭を垂らした。見世の外で贔屓客でもない男と話を交わすなど、言語道断。抱主の叱責を受けることは、吉野も覚悟をしていた。
数日は外に出してはもらえまい。悪くすれば
足抜けや逢引などの不審な素振りはなかった――
話の辻褄を確かめるために呼ばれていた女衒が、改めて吉野の釈明に回ってくれたが、抱主に一喝されて縮こまった。
「お叱りを受けるのは承知しております。お仕置きはいかなりと」
「仕置きもいかようにもじゃと。やれるものなら、そうしてやるわ」
叱責を受け、しおらしく手を突く吉野に、抱主は更に険しい顔をして語気を強めた。
吉野に仕置きを与えるか否か。抱主は借用証文を書きながら考えていた。
吉野は見世の掟に背いた以上、本来なら仕置きは避けられない。それに見せしめとしての効き目もあった。だが――
この筋を通せない
それは単に女衒までもが世間話だと証言する吉野の潔白によるものだけではない。
相手が貧村とはいえ、村庄屋の身内という身分にあることの方が大きかった。
如何わしい仲と吉野に嫌疑をかければ、即ち、村庄屋の倅がその相手と非難を浴びせることに繋がる。村庄屋の面目を潰せば、その村と取引を持つ問屋商から白い目で見られるのは目に見えた話だった。
――客足を遠ざけるわけにもいくまい。まして……
抱主の苛立ちは別な所にある。抱主は火鉢の縁を指先で強く打った。
「今度、同じことをしてみろ。金輪際、一歩も外に出してやらんからな。寄りによって、こんな大事な時に」
目を見開いて、声を荒げた抱主は、叱責というより恫喝に近い怒声を上げた。お内儀が止めに入って、軽率な行動だとする吉野への叱責はこれだけに留まった。
一呼吸を置いて、抱主は話を続ける。
抱主が吉野に神経を尖らせたのは、別見世に立つ太夫が、その称を返上することが決まったからにある。廻船問屋である船主からの身請け話を受けた太夫は、次の便で尾道を去る。それまでに新しい太夫を推し出そうと、町は既に動いていた。
次の太夫になるのは、十中八九、吉野だろうと抱主は見込んでいた。
この時期はまだ茶芸を持つ傾城があまりいないこの新町に、茶芸を見せる。それだけで吉野は他の傾城とは一線を画していた。恐らく、歓待の席にまで出向いて茶芸でもてなしをしていたのは、吉野くらいではないかと思われた。
これまで茶は一部の豪商が嗜むもの。抱主にとって茶芸は、上客のためのささやかな余興でしかなかった。
茶を好む八利の旦那が昼の座敷に望むようになってから、吉野の茶芸は遠来の船主らに喜ばれ、他の商家衆にも評判が広まった。
吉野が点てる茶なら、作法に気負わずともよい――と、中堅の商家さえ茶に関心を寄せるようになっている。
抱主には思いがけない流れではあったが、この先に茶芸は売り物になると踏んだ。
東雲から茶芸を継いだ吉野にとって、これは勝機だと抱主は確信を持つ。
吉野が太夫ともなれば、新町にいる女達の頂点に立つことを示す。同時に、町の湊に集う船衆より、尾の浦の華とも謳われ、新町の看板を背負うに等しい。
それ故に、吉野には誤解を招く真似を控えて貰わねばならなかった。
抱主はこの話を吉野に説いて聞かせ、改めて言う。
「吉野。お前は太夫になれ」
まさか太夫の話が転がり込んでくるとは思わなかった。喉の奥に飲み込めない何かが詰まった感覚に吉野は声を失った。
「御前さんは東雲が大事に育てた禿じゃったけぇ。ようよう心して、推して下さる日を待ちんさい」
黙って様子を見ていたお内儀の言に、吉野は額づいた。
太夫推挙の話を重く受け止める様子を見た抱主が証文を差し出した。
「
吉野がその証文に指印を押すと、抱主は紙に包んだ金と引き換えた。吉野の手に乗せられた小さな紙包みは、見た目よりも遥かにずっしりと重い。吉野は口を結んだまま、じっとその手許を見つめていた。
昼に吉野の座を取った客はおらず、暮れ六つ時に小座敷を入れた客があるだけだった。
「その前に御前さん、この金をもっていってくるかね」
「そんなら、あいすみません。座敷を調えねばなりませんで、女衒の
「それじゃ。それでええ。これからはしっかりと頼むで」
抱主は吉野を試していた。
心得て戻ってきた吉野の返事に満足したようで、にやりと口元を緩ませた。一度、吉野に手渡した金は内女衒に任され、村庄屋一行が泊まる宿坊へと遣いが出された。
まだ陽は高く、吉野は客用の花をいくつか見繕って、支度部屋で座敷の準備をしていた。
「吉野姐さん、出てきてくんない」と、部屋の外から離れて呼ぶ内女衒の声がした。吉野が襖をあけてみると、廊下の端から遣いに出された内女衒が顔を覗かせていた。
吉野が近づいてみれば、内女衒は人目を気にしながら、そっと懐から結び文を差し出した。村庄屋の倅から金を受け取った証に預かったという。内女衒から直接渡されることを、吉野は少し不審に思いながら開いてみた。
何かの帳面を引きちぎったような紙に、確かに金を受け取りし旨と父母への孝行心を称えてあり、年季明けには堂々と村に戻れと、端然とした文面が
一緒に野山を駆け回っていた頃からすれば、想像も及ばない流麗な文字を見て、元より大きな径庭があったことを今更ながらに気付かされた。
吉野は、この文をお内儀か取持の姐さんに見せたかと問えば、内女衒は首を振った。
文面は金の受取であるが、万が一にも情文と看做されたら、吉野の目には届かない。だから、先に一目でも読ませたかったと内女衒は声を潜めた。
吉野が前借を申し出ることの
これによって、内女衒が吉野の警護、監視の勤めを疎かにしなかったという証にもなった。文を見せたのはその礼の表れだった。
吉野は内女衒に礼を言いながら、文を元の形に戻して返した。そして、いつもどおりにお内儀か取持の姐さんに文を渡すよう言い添えた。
「そうしないことには、お互いに折檻される。わいは叱られたばかりじゃけぇ、御免被るよ」
半ば自嘲気味に軽口を叩く吉野に、内女衒は年季が明けたら村に戻るつもりかと尋ねた。吉野は黙り込んで、長い廊下を眺めた。
村を出る吉野は、弟を抱く母に見送られた。口入れの女衒について歩き出すと、家の影で外柱に拳を打ち据えて項垂れる父の姿をちらりと見かけた。
――町で奉公すれば、ここにいるより、まんまが食える。
沈んだ母の声が吉野の耳に蘇った。
年季が明ける頃には、二十も半ばを過ぎる。村に帰った所で嫁の行き先があるわけもない。まして遊里の出ともなると口では孝行者と言われても、まともな扱いなどされやしない。ただの穀潰しになるしかないと分かって、どうして帰れようか。
「栓のないことを聞きなんな。兄さんの方が、よっぽど知っとるんじゃないんかね」
吉野はそう言って踵を返した。
去りがけ、「この町で妹の姿を見るかもしれん。それが嫌だっただけじゃ」と言い残して支度部屋に消えた。
襖が閉まる音を聞くと、内女衒は返された結び文を握りしめた。
栓のないこと――吉野の言うとおりだった。遊里には、東雲のように病で身を崩し、年季明けを迎えられない女達が少なからずいる。その中で無事に年季を全うして帰ったはずの女も、やがて町に戻ってくる者が多かった。
――町の水に慣れた身には元の暮らしが辛い。
と、その出が村にある女達ほど、口々にこれを溢す。芸でも身についていれば、見世の師匠にでもなれるが、半端な芸では料理屋か飯屋で給仕や飯炊として雇われればいい方だった。
そうして、上手く所帯を持つ事が出来れば、これに越したことはない。
けれども、そうはなれず出会茶屋に流れ、隠れて客を取る者もあれば、女衒崩れの男に騙されて夜鷹に身を落とす者まで、内女衒はこれまで多くの女達を見てきた。
時折、吉野は己を指して、運がよかったと漏らす。娼妓、芸者を合わせて二百に届こうかと言われる町の中で、上客を掴み部屋持ちになれる女はほんの一握りにすぎない。
今や、吉野は太夫に上がろうとしている。このまま無事に年季を全うすれば、町に残って、吉野が自らの評判を高める茶の所作を教えて暮らす方が手堅いのかもしれない。
内女衒はその場を退いて、小女達の手を急き立てる取持の声がする方へと足を向けた。
それから幾日か過ぎて、八利の旦那が吉野の座敷を取った。
吉野はいつものように一服の茶を点てる。湯酌から注がれる湯の音、茶筅を振る音を好んで、旦那は静かに耳を傾けていた。茶を喫した後は、吉野に酒を注がせて舌鼓を打つのだった。
旦那の耳にも、新しい太夫を選定し始めている話は届いていた。抱主の見込みと同様、八利の旦那も吉野が推挙されると見ている。
「有り難いことなれど、あの東雲太夫の御姿には程遠ゆうて、身の丈が足らん気も……」
「そう、難しゅう考えんでええ。東雲の禿じゃったから思う事よ。町役の衆らも歓迎して期待を寄せておるからの。御前さんは黙って、町の衆が推してくるのを受けて立てばよし。のう、吉野」
この時の吉野にはまだ太夫の称が重たく感じられて、幾分か顔つきが硬い。
「なんちゅうこともない。吉野太夫。そう呼ばれるようになれば、御前さんを得んと請うて、男どもらは皆、溜息を吐くようになる。じゃから、顔を上げてお笑い」
「どの口が仰いますのや。吉野に茶や酒を振舞わせても、旦那様は一度も請うてくださったことはないのに」
「こりゃ……参ったのう」
前に旦那が発したのは失言だった。吉野はわざと恨めしく旦那の顔を眺めた。
吉野の流れる手捌きを眺めて茶を喫すれば、騒めく腹の内も溶けて消える。接遇の宴席で吉野が舞いを見せれば、商いの話も上々に事が運ぶ。その縁起は
「吉野は得難い女ゆえ、請うにも身が震えてしまうんじゃ。剥れた顔などせず、機嫌をお直し」
通人にして風雅と他に言わせる旦那が、口先も滑らかにして言うには空々しい。それが戯れであっても、こうまで言われれば吉野も不機嫌な顔を解くしかなかった。
吉野の水揚げから、八利の旦那は事あるごとには贈り物を届け、接遇の宴席には必ず吉野を呼んだ。時には上方から茶に通じた門下を招いたと言い、吉野にもてなしを預けた。その折には吉野に茶の手解きをするよう頼んであったほどだった。吉野に篤く目を掛けているのは、誰の目にも明らか。
ただ四年にも渡って、吉野を馴染みとしながら持ち部屋に進んだことはなく、吉野も見世の者もいい加減に首を傾げていた。
もっとも、八利の旦那が座敷のみで終われば、その後に泊まりの別客を通せる分、一夜につく稼ぎが跳ねると喜ぶ抱主の姿はあった。
今宵も酒に舞にと一通り楽しんだ八利の旦那を見送る。今日の客はこれで仕舞いと思えば、別客が吉野を待っていた。
梅香の茶 錦戸琴音 @windbell383
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