自由の対価、一時間5000円

@yoll

掌作

 きぃ、と音が鳴る少し建付けの悪いドアを開き部屋の中に入ると、エアコンの少し乾いた生温い風が、ほんの少しだけ後ろにいるあなたのセミロングの栗色の髪を少しだけ揺らしたのが視界の端に映る。

 その揺れる髪を、わたしの手と繋がれていない左手で無意識に抑えるのを横目で見つつ、草臥れた靴を脱ぐ。上がり框を上がったわたしは少しだけ姿勢を低く取ると、あなたは片手だけで器用に黒いパンプスを脱いだ後に、わたしの靴と一緒に並べる。それを見届け、わたしはまたゆっくりと君と手をつないだままソファーへと向かい、ゆっくりと腰掛ける。あなたは手を繋いだまま、わたしの左隣にふわりと腰掛ける。顔を少し横に向ければ、あなたと目が合い、自然と唇を重ねる。その途中で赤い淵のメガネを取り外し、ソファーの背に置くのは随分と手慣れてたものだ。そうした後、何方ともなく名残を惜しむかのようにゆっくりと、絡まり合った指を解きほぐす。


「コート掛ける?」


 出会った頃より少しだけハスキーな声音に変わったあなたの声が耳に届き、わたしは小さく頷き少しだけ雨に濡れたコートを脱ぐ。あなたも微かにベージュ掛かったホワイトのコートを脱ぐ。その下は淡いピンク色のニットセーターが現れる。この間、買い物に出かけた時にあなたが少し視線を向けていた物だった。

 わたしが「似合うと思うよ」と言った時、あなたは少しだけ驚いたような顔をした後で「もうあんな可愛い色はちょっとなぁ」なんて言ってはいたが、結局買ったのだろう。見立て通りにパステルカラーはあなたに似合っている。


「一緒に手を洗ってくる」


 ほんの少し恥ずかしそうな顔をしたあなたはわたしの手からコートを受け取ると、手慣れた感じでクローゼットを開けると、二着のコートをハンガーに掛けた後その中へと締まった後で隣の洗面所へと消えていった。

 わたしは少しだけ時間を持て余し、ズボンのポケットから煙草を取り出すとライターで火を点け、胸いっぱいに煙を吸い込み吐き出すと、始めは勢いよく流れる紫煙はエアコンの吸い込み口に吸い込まれ消えてゆく。よく似合わないと言われるこの煙草も、こんなふとした間を埋め合わせるにはぴったりの小道具だ。そんな見栄から始まった喫煙習慣も、何時の間にか随分と長い付き合いとなってしまったが。


 ガチャリ、と音を立てて静かな部屋にドアが開く音がしてあなたが洗面所から戻ってくる。シュシュでセミロングの栗色の髪の毛を一つに束ねて。


「次どうぞ」


 その言葉にわたしはソファーから立ち上がると入れ違いに洗面所へと入ってゆく。カランを上げ、流れる水で手を濡らし、泡のシャボンを手に馴染ませる。そうしてから少し冷たくなった水で洗い流すと、排水溝に泡が吸い込まれていく。ハンドタオルで手を拭いて顔を上げると、随分と疲れた顔の自分が鏡に映りこんでいた。

 やつれた頬、大分濃くなった目元の隈は何時からの物だろうか。朝に反り残した髭が少し目に見えて、それを親指で一撫でするとじゃりじゃりとした感覚が伝わってくる。溜息を一つ吐き、それから一度目を閉じて笑顔を作る。無理矢理にではない。これから短い短いあなたと過ごす時間を思い浮かべたから。


 目を開けると不思議なほど自然な笑顔を浮かべる自分の顔が鏡に映っている。逆に不自然なほどに。


 後ろを振り向けばバスルーム。いわゆるジャグジーと言う奴だ。そんなものがあるここはわたしたちの住む家ではないことは確かだった。水垢一つ見当たらない位に磨き込まれたバスルームをほんの少しだけ名残惜しく思いながら、ドアを開けてあなたのいる部屋へ向かう。すると目に映るのはソファーで足を組み、わたしの煙草を咥えるあなたの姿。紫煙を吐き出してはその行き先をぼんやりと眺めている。その仕草が妙に心に残り、真似をして煙草を吸い始めたものだ。


 あなたはわたしに気が付くと、最後に大きく煙草を吸うと控えめな胸をゆっくりと上下させ、細く、長く、紫煙を吐き出した。それでも肺活量の足りていないあなたが吸い終わった煙草は何時も、半分ほどを残して灰皿に綺麗に並べられる。折らない様に火を消すのがマイルールなのらしい。そうして右手を開けたあなたはわたしに甘えるようにその手を差し出した。勿論わたしはその手をつかむと、少しだけ力を込めて自分の方へを引き寄せる。


「少し瘦せたんじゃないの」


 ふと、感じたままを口にする。


「最近は仕事が忙しくて。4キロくらい痩せた」


 思った通りの言葉が返ってくる。


「じゃあ、今度は美味しいものでも食べに行って太ってもらわなきゃ」

「やだよ。折角痩せたのに」

「痩せ方が健康的じゃない」

「お腹周り痩せたんだから良いの。触ってみてよ」

「じゃあそうしようかな」


 あなたの手を取り、キングサイズのベッドへ二人で倒れ込む。


「触ってみて」

「じゃあ遠慮なく」


 真っ白な掛布団カバーの上でわたしはあなたのお腹のあたりに手をやると成程、随分とすっきりとしているようだった。


「勿体ない」

「そんなこと言わないの」

「お腹触ってると幸せな気分になれたんだけどなぁ」

「もう。そう言えばお腹触るの好きだもんね」

「そりゃあもう。こっちも好きだけど」


 そう言って、手をセーターの中へと潜り込ませてみるが、頬を膨らませたあなたに見事に止められてしまう。


「明るいからヤダ」

「……なんでさ」

「恥ずかしいから」


 それ以上の事を数えきれないほど繰り返してきたというのに、未だに恥ずかしいという気持ちは消えることはないあなたに思わず笑ってしまうと、少しむっとしたあなたが上に乗り、唇を重ねられる。明るい部屋で胸を触るのはダメらしいが、キスをするのは良いらしい。不思議なあなたのマイルールに則り、求め、求められるままに唇と舌を動かしてゆく。途中で息が続かなくなり、離れようとするあなたに悪戯心が湧き、両腕で抱きしめ逃げられない様にしてみると握った拳で胸のあたりをドンドンと叩かれる。


「……死ぬ」


 ゆっくりと両腕の力を抜くと、慌てたようにあなたは顔を上げて大きく息を吸う。離れ際、その薄い唇の端に混ざり合った唾液が一本線を引いたあと、重力に従ってわたしの顔に垂れてくる。それをあなたはぺろりと舌を出して舐め取った。


「意地悪」

「可愛いから悪戯をしたくなる」

「恥ずかしい」


 目を閉じてあなたの体に触れても間違える事が無いほどに知り尽くしたはずなのに、あなたはこんな言葉一つで顔を真っ赤にさせる。触れていない場所なんて無い筈なのに。そして、浮いた足をバタつかせるその様子はちょっとばかし、年代を感じさせるリアクション。それも何だか愛おしい。


「ほら、お布団に入ろう」

「うん」


 体を起こして掛布団を捲るとあなたはシーツとの間に潜り込む。その後でわたしも隣に体を横たえる。


「おいで」


 声を掛けると、あなたは少し丸まりながらコアラみたく、何時ものように左腕のあたりにしがみついてくる。小動物感が物凄い。


「少し眠っても良い?」

「……良いよ」


 あなたの問いかけに、少しだけ考えたがそう答えると、もう一度長い長いキスをした後で満足したのかわたしの胸のあたりに顔を乗せると、直ぐに静かな寝息を立て始める。ゆらりと揺れるその体を逃さないようしっかりと両腕に抱きしめて。


 所謂、ラブホテルと言われるこの場所で、お互いの体温と鼓動を感じるためだけにベッドに潜り、ただ唇を重ねる。わたしとあなたに許された時間はとても短い。シンデレラでさえ12時までは魔法が解けなかったというのに、19時には魔法が解けてしまうあなたが少々恨めしい。

 大人になれば、もっと自由が待っていると思っていたのに。その自由の尊さを知らぬまま、自由に振り回されて、何時しか自由は自由で無くなってしまっていた。気付いてしまった時にはもう手遅れで、もう一度自由を手にするためには色々な物を捨てたり、失ったりするしかなかった。それでも、そうやってまでも手に入れてしまったシンデレラを、この腕から失うことには耐えられそうにもない。


 18:45のアラームが鳴るまで、わたしはあなたの体温をただ抱き留める。ほんの少しの劣情を振り払うように。

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