「こっちさこい」
をはち
「こっちさこい」
鈴木雅也は、山を欲していた。
それはただの土地欲しさではなかった。
都会の喧騒に疲れきった彼にとって、山は最後の逃げ場であり、再生の場所だった。
深い緑に包まれ、誰にも邪魔されず、ただ一人で生きる。そんな幻想が、彼を駆り立てていた。
その山は、所有者が複雑に絡み合っていた。
複数の地権者がいて、全員と交渉をつけるのは至難の業だった。
だが雅也は粘り強く動き回り、ついに平坦な部分だけでも自分のものにした。
頂上近くには小型の前方後円墳があり、昭和の時代に発掘調査が済んでいた。
文化財としての価値はすでに失われ、ただの古い土饅頭として残るだけだ。問題は斜面だった。
「斜面は古い墓地じゃ。個人が所有できるようなもんじゃない」
村の古老は、煙草をくゆらせながら言った。
歯の欠けた口元が、薄笑いを浮かべているように見えた。
「数百の墓石が、ぐるりと山を囲んどる。誰も手をつけられん。放っておくのが一番じゃよ」
それでも雅也は、古老の案内で斜面を見に行った。
そこは、異界だった。納骨堂などない。
ただ、苔に覆われ、黒と緑が混じり合うように変色した墓石が無数に倒れ、重なり合い、腐りかけていた。
百年どころか、二百年、三百年は経っているだろう。
石の表面は風雨に削られ、刻まれた文字はほとんど読めない。
それでも、かすかに残る名残が、かつてここに無数の亡骸があったことを語っていた。
「飢人」「餓亡」」——そんな断片的な文字が、雅也の目を刺した。
「わしが生まれた頃から、この有様じゃ。事情を知る者は、もうおらん」
古老は、遠い目をした。
「わしの爺さんが言うておった。墓石をじっと見るな。手を合わせるな。供えるな。…なぜかは、わからん」
その言葉が、雅也の胸に冷たく刺さった。
それでも彼は、山に住み始めた。
簡素な山小屋を建て、六畳ほどの広さで、一人には十分すぎるくらい快適だった。
冬の暖を取るため、斜面の木を切り倒し、薪にした。
古老は言った。
「持ち主の定かでない土地じゃ。木を切っても咎められんよ」
確かに、斜面には枯れ枝が無尽蔵に落ちていて、火起こしには事欠かなかった。
自然に溶け込む生活は、雅也に合っていた。飯ごうで炊いた米を握り、にぎり飯を頬張る。山の空気は美味だった。
ある日、握り飯の一つが手から滑り落ち、斜面を転がっていった。
それを目で追った雅也は、息を呑んだ。
暗がりの奥から、無数の手が——影のような、骨のような、腐ったような手が、
土の中から這い出して、にぎり飯に向かって蠢いていた。
指が折れ曲がり、爪が剥がれ、腐肉が滴りながら、それでも必死に、飢えた獣のように…
錯覚だ。
雅也はそう自分に言い聞かせ、その場を離れた。
だがその夜、夢を見た。
「米を…下され…米を…下され…」
無数の声が、重なり合い、絡み合い、お経のように朝まで続いた。
耳にこびりつき、頭蓋の奥で響き続ける。飢えの声だった。
長い長い飢えが、か細い喉から絞り出される声だった。
翌朝、雅也は米を多めに炊いた。
そして、握ったにぎり飯を、斜面の墓地に供えた。
その夜、また夢を見た。
今度は、無数の人影が現れた。顔は腐り、目は落ちくぼみ、口だけが異様に大きく開いている。
彼らは雅也を取り囲み、優しく、優しく、囁いた。
「どうだ…お前も…俺たちと…一緒に…」
「こっちさこ…」
「こっちさこい…」
「いいから…ほれ…こっちさに…」
声は甘く、温かく、飢えに満ちていた。
翌朝、雅也は発見された。
斜面の墓石の山に、深く埋もれて。
無数の墓石が彼を押し潰し、抱きしめ、飲み込んでいた。
まるで長い腕のように石が絡まり、口の周りには米粒がこびりつき、その喉には肺にまで達するほどの米が詰まっていた。
目は見開かれ、笑っていた。
村の古老たちは、遠くからそれを見ていた。
「去年の若者と同じ死に方しおったな」
一人が呟いた。
「やはり、あの斜面に残土捨てて処理場にするのは、やめた方がいいかもな」
別の古老が、煙草を深く吸い込んで言った。
「まあ、自給自足だなんて言う若造は、いくらでも来るじゃろ。何度か様子を見てからでも、遅くはあるまい。
部外者であれば、いくら死んでも問題は無いからのう。」
ちょうどその時、不動産屋の車が、山道を上って来た。
新しい、若い男を乗せて。目を輝かせ、夢を語りながら。
古老たちは、薄く笑った。山は、飢えていた。
長い長い間、米を。命を。魂を。
そして今も、飢えている。
「こっちさこい」 をはち @kaginoo8
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