エピローグ 受肉(じゅにく)


 太陽系第三惑星、地球――。


 その衛星軌道上、ラグランジュポイントの暗闇に、不可視の観測船が浮かんでいた。


 無機質なブリッジに、ホログラムの光が明滅する。


『報告。個体識別名:№1・任務失敗』

 冷徹な機械音声が響く。


【原因:有機生命体との過度な接触による、論理回路の汚染および、自己犠牲による個体の消滅】


 モニターには、地球の映像が映し出されている。


 美しい青い星。

 だが、そこは高次元生命体にとっては、精神を腐らせる『肉の沼』だ。


『想定外の結果だ』

 別の声が響いた。より深く、重厚な意思を感じさせる声。


『「愛」と呼ばれるバグは、我々の種族にとって致死性の毒となり得る。№1はその毒に耐えきれず、融解した』


『では、この惑星の調査は打ち切りですか?』


『否』

 重厚な声が否定した。


『データは収集できた。肉体(器)の脆弱さと、それに反比例する精神の爆発力。№1が最期に見せたエネルギー値は、我々の想定を遥かに上回っていた……実に興味深い』


 ホログラムが切り替わる。

 映し出されたのは、新たな『器』の設計図。

 そして、次に派遣される精神体のパラメータ。


『肉の檻に囚われず、かつ肉の力を利用できる個体が必要だ。№1の失敗を修正できる個体を』


『彼女ならどうでしょう?』

 ポッドが開く音がした。

 中から、まばゆい光が溢れ出す。


『行けるか? №1の結果に恐怖するなら、後日でも構わない』


『恐怖とはなに? 地球に行って、戻ってくるだけのこと。死んだ№1は、とんだ無能だわ』


『では、許可する。目的地は日本、座標は、そうだな№1とは別の都道府県が良い。なんせ、データが足りない……今度こそ、この星を解き明かしてみせろ』


『簡単すぎでしょ』


 光の塊が、観測船から射出された。

 それは流星となり、再び地球の大気圏へと突入していく。


 肉と精神の実験は、まだ終わらない。


 新たな『受肉じゅにく』の時が、すぐそこに迫っている――。


 ❖❖❖


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じゅ‐にく【受肉】 〔名〕(incarnation)

① 霊や精神が、肉体を得ること。また、その肉体。

② 抽象的な観念が、具体的な形をとって現れること。具現化。

③【キリスト教】神であるロゴス(言葉)が、イエスという人間の姿をとってこの世に現れること。無限かつ完全な存在が、有限で不完全な「肉の器」にあえて宿り、その不自由さと苦難を引き受ける愛の神秘。

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  〜あとがき〜


 私たちは皆、肉という名の檻に閉じ込められています。


 この『受肉』という物語を書き進める中で、私は常に一つの問いと向き合っていました。

 精神だけで存在できれば、人はどれほど自由で、合理的で、傷つかずに済むだろうか、と。


 主人公は、まさにその『完全なる自由』を持った存在として、空から堕ちてきました。彼にとって、私たち人間は理解不能であり、非効率の極みです。

 しかし、彼は最後に気づいてしまいます。この不自由な肉体があるからこそ、他者の体温を知ることができるのだということに。


 痛みがあるから、癒やしがある。

 空腹があるから、食卓の温もりがある。

 死という絶対的な終わりがあるからこそ、私たちは他者のために何かを遺そうと足掻き、その刹那の輝きのために頑張れる。


 主人公が選んだ結末は、高次元の論理からすれば『敗北』かもしれません。


 けれど、その愚かしくも美しい敗北こそが、人間の正体であり、私たちがこの厄介な肉体を纏って生きる理由なのだと信じています。

 ここまで、不格好な彼の旅路を見守ってくださり、本当にありがとうございました。


 もし、この物語を通じて、皆様の胸の内に小さな灯火ともしびがともり、夜空を見上げたくなったなら――。

 どうぞ、彼が還っていった空に、弔いの形で評価の『星』を飾っていただければ幸いです。


 その光はきっと、次の旅人への道標となるはずですから。


                ――著者拝

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受肉(じゅにく) 冬海 凛 @toshiharu_toukairin

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