【完結】最終話 肉の解脱(げだつ)
私の手首から溢れ出した鮮血が、村松の傷口に侵入していく。
血液の型も合わせた。
送り込んだ血から、逆流してくる彼女の血が、損傷した内臓の詳細を伝えてくれた。
開いている右手で、可能な限りの
腹の横、一㎝を切開し、手のひらを当てる。
彼女の口元が激痛に歪む。
麻酔すら用意してやれない環境に、私の顔も歪んでいるに違いない。
勝算はあるか。何を弱気になっている。
心臓が、早鐘を打つ。
首を振って涙を散らした。
恐怖ではない。
自分の中身が、急速に空になっていく喪失感と、それが彼女を満たしていくという奇妙な充足感によるものだ。
「つか……ささん、やめ……て」
「痛むのか?」
「うう……ん、つか、ささんに、死んで……ほしく、ない」
「静かにしろ。私ほどの高次元な人間が、簡単に死ぬと思うのか」
視界がホワイトアウトしていく。
身体の感覚が消える。
アスファルトの硬さも、血の熱さも、全てがノイズとして処理され、フェードアウトしていく。
男の子が泣きながら、私の背中に抱き着いた。
温もりを感じる。
この温もりのために、彼女は――。
♢
――あぁ、そうだ。
私は、思い出した。
意識が混濁する中で、遠い記憶が蘇る。
この星に降り立つ前。
漆黒の銀河――うしかい座の空洞(The Boötes Void)で、私は『彼ら(上位存在)』と交信していた。
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『№1に警告する。惑星アースの環境は、高純度の精神体にとって猛毒だ』
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『有機生命体「ヒト」の肉の器に入れば、その脆弱なハードウェアに、№1の高度な精神が干渉され、
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『観測したクリニックの有機炭素体なら、人間関係が誰ともない。選ぶなら、この個体だが、周りの人間が不審死している。劣悪な環境だぞ。千年程度、見送る考えはないのか、№1』
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彼らの警告を、私は鼻で笑った。
『愚かな。私の脳は完璧な演算装置だ。肉の器ごときに汚染されるなどあり得ない。数ヶ月で現地の生態を解析し、支配構造を確立してみせる。心配はいらない。そんなものは、余裕だ』
――余裕だ。
そう言い放って、私は大気圏へとダイブした。
♢
……滑稽だ。実に滑稽だ。
結果はどうだ?
支配するどころか、私はたった一人の『不格好な人間』に支配されている。
彼女が買ってきた惣菜に。
彼女の不器用な笑顔に。
彼女の、「司さん」と呼ぶ声に。
私の論理は、感情というウイルスに完敗した。
だが――不思議だ。
敗北の味は、あの黒飴のように、ひどく甘い。
「……ん……っ……」
腕の中で、村松が小さく呻いた。
致命傷だった頭部の傷が、青白い光を帯びて塞がっていく。
停止しかけていた心臓が、力強く鼓動を再開する。
彼女の頬に、赤みが戻る。
等価交換だ。
私の命と、彼女の死。
上位存在が
だが、そんなものはどうでも良い。
どうせ、自分ではダイヴする勇気もない連中だ。
私の永遠と、彼女の刹那。
私の意識が崩れ始めたようだ。
指先から感覚が消え、視界は完全な闇に覆われる。
それでいい。
人間は『死』という区切りを持つ。それは美しいと今なら分かる。
どんなに逆境に立たされても、生き抜いたご褒美が用意されている。
私の星の連中のように、永遠の時間を生きる無駄さは、この限られた命を生きてみなければ絶対に分からない。
「……つかさ……さん? 泣いているの?」
不意に、首筋に温かい感触が蘇った。
彼女が、私の首元に抱き着いている。
彼女の意識が戻ったのだ。
見えなくても分かる。
彼女は今、泣きそうな顔で、けれど安心して、私を見上げているはずだ。
「……おはよう、村松」
私は目を閉じたまま、残った力を振り絞り、口角を上げた。
かつて鏡の前で練習した完璧な笑顔ではなく、彼女のような、不格好で自然な笑顔ができているだろうか。
「お願い死なないでください! やだ、死んじゃダメ! 早く、救急車を――」
「……行くな。それより、ご飯は、まだか?」
「血が……手首から血が……。ちょっと、なんで止まらないの」
「生きろ。私はお前の中にいる」
「もう、死にそうなんだから喋らないで!」
私の唇が、彼女の温かい唇で塞がれた。
彼女を抱く両腕に、力が一瞬、宿った気がした。
それが、私の最後の出力だった。
肉体という檻から、精神が解き放たれる。
重力から、痛みから、孤独から。
これが死か。
いや、これが――
私は光の粒子となり、白金の空へと拡散していく。
大気中の窒素へ。酸素へ。
他人のために命を投げ出せる人間を、どうして下等だと考えた。
確かに、こいつらは同族を殺すし、非効率な犯罪を繰り返す。
他の生命体だって、平気で食す。
だが、悪くない。
私は他に知らない。これほどまでに、他の生命体に、自らの命を差し出してまで尽くせる生き物を。
こいつらは、殺すが、生かす。
戦争のような愚かしい行為もするが、同時に、金も食料もない子供をたくさん救う。
環境を破壊するが、環境を守るために生涯を捧げる。
可能性のある生き物だ。
「つかささん! 嫌だ! 死んじゃ、嫌だって!」
太陽に照らされて。
私は舞う。
彼女がこれから吸う、大気の一部となり、
彼女を温め続ける、陽光の一部となる。
私は消滅するのではない。
この星の一部となって、彼女の
――悪くない。
人間は愚かだが、崇高だ。
「……君という人間が、好きだ」 ――完。
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