番外編8 声

※番外編です。アイリが消える前のお話になります。

 自作の「物語創作システム」を使用しています。


1.


「ツキヨミー、今日の依頼ってどんなの?」


アイリが傘の柄にしがみついて、覗き込んでくる。

今日は珍しく雨が降っていて、二人で一つの傘に入っている。

アイリは濡れないけど、ツキヨミが入れてあげるのだ。


「えっと…」


ツキヨミは依頼書を確認する。


『妹の声がおかしいんです。いえ、妹の声じゃないんです。死んだ姉の声になってるんです』


依頼人の名前は、鳥海ヒナタ。環の兄だという。


「声?」

アイリが首を傾げる。

「消すのって、物とか場所とかじゃないの?」


「声も…残ることがあるよ。録音とか、誰かの記憶の中とか」


「ふーん」


目的の家に着く。住宅街の一軒家。表札には「鳥海」とある。

インターホンを押すと、若い男性が出てきた。

ヒナタだろう。二十代後半、神経質そうな顔立ち。


「依頼した者です…」


「ああ、待ってました。どうぞ」


案内されて居間に入る。

そこに、一人の若い女性が座っていた。

二十代前半、黒いセーターを着て、膝の上で手を組んでいる。


「妹の環です」


「はじめまして…」


ツキヨミが挨拶すると、環が顔を上げた。


「こんにちは」


その瞬間、ツキヨミは違和感を覚えた。

環の口から出てきたのは、彼女の声ではない。

いや、正確には、彼女の声なのだが、その下に別の声が重なっている。

まるで二人が同時に話しているような——


「あの…」

とヒナタが緊張した様子で言う。

「わかりますか? 妹の声が…」


「ああ…。二つの声が、重なってますね」


環が驚いたように目を見開く。


「わかるんですか?」


今度ははっきりとわかった。

環の声の下に、もう一つの女性の声。

少し高めで、明るい響き。環の声とは違う。


「姉さんの声だ」ヒナタが呟く。「志麻姉さんの…」


「志麻さんは…」


「一年前に事故で亡くなりました」

ヒナタが重い口調で語る。

「車の事故で。即死でした」


環は俯いたまま、何も言わない。


「最初は気づかなかったんです」

ヒナタが続ける。

「でも、三ヶ月くらい前から…環の声が変わってきて。最初は気のせいかと思ったけど、だんだんはっきりと姉さんの声に」


「今では…」

ヒナタは妹を見つめる。

「話し方も、笑い方も、姉さんそのものなんです」


アイリが環の周りをゆっくり回る。

幽霊には幽霊がわかる。


「ねえ、この人、何かついてるよね?」


「…ついてる、というより」

ツキヨミは観察する。

「重なってる」


環がツキヨミを見つめる。

その目には困惑と、そして——諦めのようなものがあった。


「私、最初は意識してたんです」


環が、いや、二つの声が語り始める。


「姉さんが死んで…辛くて。姉さんの声を聞きたくて。だから、真似してみたんです。姉さんみたいに話したら、姉さんがまだそばにいるみたいで。でも…」


環の手が震える。


「気づいたら、私の声じゃなくなってた。姉さんの声で話すのが普通になってて。私の声がどんなだったか、思い出せなくなってて。そして…」


彼女は自分の胸に手を当てる。


「私の感情も、わからなくなってきたんです」


ツキヨミが静かに尋ねる。


「どういうことですか?」


「今、私が話してるこの気持ち——これは私のもの? それとも姉さんのもの?」


環の声が、志麻の声がわずかに震える。


「姉さんだったら、こう言うだろうな、って思う。姉さんだったら、こう感じるだろうな、って。でも、それは私が思ってることなの? それとも、姉さんが私を通して思ってることなの?」


「怖い」

と環は呟く。

「私が消えていく。姉さんに塗りつぶされていく」


ヒナタが苦しそうに顔を歪める。


「俺のせいだ」


「兄さん…」


「姉さんが死んで、俺は…環に姉さんの面影を求めた。『姉さんみたいだね』って言った。『姉さんならこうしたかな』って話した。無意識に、環を姉さんの代わりにしようとしてた」


ヒナタは拳を握りしめる。


「環が姉さんの声で話すようになっても、俺は…どこか嬉しかった。姉さんがまだいるみたいで。それで、止めなかった」


「でも、これじゃダメだ」

彼は妹を見つめる。

「環は環だ。姉さんじゃない」


アイリがツキヨミの袖を引く。


「ねえ、どうするの? 声を消すの?」


「声だけじゃ…済まないね」


ツキヨミは環の前にしゃがみ込む。

目線を合わせて。


「環さん…、姉さんのこと、愛してましたか?」


「…はい」


「姉さんに生きていてほしかったですか?」


「はい」


二つの声が重なって、悲しみが倍になる。


「でも」

とツキヨミは続ける。

「姉さんは、あなたに代わりになってほしかったと思いますか?」


環が息を呑む。


「姉さんは、あなたがあなた自身を失ってまで、姉さんを残してほしかったでしょうか」


沈黙。


そして、環の口から、志麻の声だけが漏れた。


「違う」


環の体が震える。別の声。別の意識。


「環には、環として生きてほしい。私の代わりになんて、なってほしくない」


ヒナタが立ち上がる。


「姉さん…!?」


「ごめんね、ヒナタ。環」


志麻の声が、環の唇を使って語る。


「私、死んだのが悔しくて。まだ生きたくて。だから、環の中に残ろうとした。環が私の声を真似してくれて、嬉しかった。私がまだいられるって思った」


「でも…」


涙が環の頬を伝う。環のものか、志麻のものか。


「これじゃダメだよね。環が消えちゃう。私のせいで」


「姉さん」

とヒナタが声を震わせる。

「俺たちが…俺たちが悪かったんだ。姉さんを手放せなくて」


「ううん」

志麻の声が優しく響く。

「みんな、悲しかっただけ。愛してたから、手放せなかった。それは悪いことじゃない」


「でも…」


「そろそろ、お別れしなきゃ」


環の体が小刻みに震え始める。

二つの存在が分離していく。


ツキヨミがアイリを見る。

アイリは頷く。


「環さん」

とアイリが環の手を取る。

「大丈夫。一緒にやろう」


「何を…」


「お姉さんを、送り出そう」


環が——今度は環自身の声で——囁く。


「私の声…戻ってくるかな」


「戻るよ」

アイリが微笑む。

「だって、ずっとそこにあったんだもん。お姉さんの下に隠れてただけ」


ツキヨミが傘を取り出す。


「志麻さん…」


「はい」


「あなたの執着を、消してもいいですか」


「お願いします」


志麻の声が、最後にはっきりと響く。


「環、あなたの声で、あなたの言葉で、あなたの人生を生きて」


「姉さん…!」

環が泣きながら叫ぶ。

その声は、もう完全に環自身のもの——志麻より少し低く、少し掠れた、でも温かい声。


「ありがとう、大好き!」


ツキヨミが傘を開く。

環の周りに柔らかな影が落ちる。


光が消えていく。

志麻の声が、最後に笑った。


「ヒナタも、ちゃんと前を向いて」


「姉さん…!」


「私の分まで、幸せにね」


そして、静寂。


傘を閉じると、環は床に座り込んで泣いていた。ヒナタが駆け寄って抱きしめる。

兄妹は声を上げて泣いた。


2.


外に出ると、雨は上がっていた。


「ねえ、ツキヨミ」


「なに?」


「声って不思議だね」


アイリが空を見上げる。


「誰かの声を覚えてると、その人がいなくなっても、声は残るんだね」


「ああ…」


「でも」

アイリは笑う。

「それって、いいことでもあるよね。ちゃんと別れられたら」


ツキヨミは頷く。


二人は並んで歩く。

アイリが鼻歌を歌っている。

小さな、幼い声で。


「その歌、誰に教わったの?」


「えー? 知らないよ。いつの間にか歌ってた」


「そっか…」


ツキヨミは少し考えて、それ以上は聞かなかった。


声は残る。誰かの声が、誰かの中で。

それは悲しいことでもあり、美しいことでもある。

ただ、ちゃんと別れることができれば。

夕暮れの空に、アイリの鼻歌が響いている。

それが誰から受け継いだ歌なのか、もう知る術はない。

でも、今歌っているのは確かにアイリで、それで十分だった。


<fin>

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【AI実験】消す者 くるくるパスタ @qrqr_pasta

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