番外編7 カルテ
※番外編です。アイリが消える前のお話になります。
自作の「物語創作システム」を使用しています。
1.
「ここ、なんかイヤな感じするね」
アイリが半透明の小さな手で、ツキヨミのコートの裾を引っ張った。
古い病院の跡地。取り壊しが決まって久しいが、何度も工事が中断されているという。
理由は「事故が多発する」「作業員が怖がって来なくなる」。
よくある話だ。
「うん…そうだね」
ツキヨミは傘を肩に乗せたまま、錆びた正面玄関を見上げた。
三階建ての古い建物。窓ガラスは割れ、蔦が壁を這っている。
「依頼は『病院に住み着いている執着を消してほしい』だったよね?」
「そう…。管理会社からの依頼」
「でもさー、ツキヨミ」
アイリがぴょんぴょん跳ねながら言う。
「なんか、いつもと違う感じしない?」
「…ああ、気づいてたんだ」
「うん! なんていうか、こう…」
アイリが両手を広げて、
「すっごく怒ってる感じ!」
その通りだった。
普通の執着は、もっと静かだ。
寂しさとか、未練とか、そういう湿った感情。
でもここから感じるのは、明確な敵意。
「入るよ」
「はーい」
2.
玄関の扉は、軽く押しただけで開いた。
中は予想以上に綺麗だった。
埃は積もっているが、荒らされた様子はない。
受付カウンター、待合室の椅子、廊下の案内板。
すべてがそのまま残っている。
「誰もいないのに、片付いてるね」
「…誰かが、守ってるんだ」
廊下を進む。
二人の足音だけが響く。
いや、アイリは幽霊だから足音はしない。
ツキヨミの足音だけ。
「待て!」
突然、声がした。
老いた男性の声。
威厳と怒りが混ざっている。
「消す者よ。帰れ」
廊下の奥、診察室の扉の前に、彼は立っていた。
白衣を着た老医師。
眼鏡の奥の目が、鋭くツキヨミを見据えている。
執着の具現化——生前の姿を保ったまま、この場所に縛られている存在。
「柊先生…ですね」
ツキヨミが静かに言った。
「依頼書に書いてありました。三十年前まで、この病院の院長だった」
「知っているなら話は早い。帰れ。お前たちの仕事はここにはない」
「でもね!」
アイリが前に出た。
「依頼があったんだよ。お仕事だもん!」
柊先生の表情が、わずかに揺れた。
アイリが見えているのだ。
「…子供まで連れて来るとは。消す者も落ちたものだな」
「アイリは僕の相棒です」
ツキヨミが言った。
「先生、どうして消されたくないんですか?」
「決まっている」
柊先生が診察室の扉に手をかけた。
「この中にある記録を、守らねばならん」
扉が開く。
中には、びっしりと積まれたカルテがあった。
古い紙のカルテ。数百、いや数千枚。
「私が診た患者たち。救えた者、救えなかった者。すべての記録だ」
柊先生が言った。
「特に…この棚にあるカルテは、私が救えなかった患者たちのものだ。医療ミスではない。限界があったのだ。だが、私は彼らを忘れてはならん」
「先生…」
「お前たち消す者は、すべてを忘れさせる。なかったことにする。それは許さん」
柊先生の執着が、怒りとなって空間を震わせた。
「この記録が消えれば、彼らは本当に死ぬ。二度目の死だ!」
ツキヨミが傘を握る手に、少し力が入った。
「先生、僕は——」
「待って!」
アイリが叫んだ。
「なんか、来る!」
3.
その瞬間だった。
壁から、黒い染みのようなものが滲み出した。
「これは…!」
柊先生が驚愕の表情を浮かべた。
黒い染みは広がり、形を成していく。
無数の手のような、触手のような。
そして、それらはカルテに向かって伸びていく。
「カルテが!」
触手に触れられたカルテが、文字が消えていく。
患者の名前、症状、診察記録。すべてが白紙に戻っていく。
「何をする!」
柊先生が叫ぶ。
しかし、執着である彼には、実体がない。
触手を払うことができない。
ツキヨミが動いた。
傘を開き、触手の前に翳す。
触手が傘に触れた瞬間、霧のように消えた。
「先生、下がってください」
「お前…なぜ私を助ける?」
「説明は後です。アイリ、あれが何か分かる?」
「うーん」
アイリが首を傾げる。
「なんか、すっごく悪い感じ。記憶を食べてる…?」
そうだった。
これは別の執着。
しかも、記録を消そうとする執着。
「先生」
ツキヨミが言った。
「この病院で、何か隠蔽された事故はありませんでしたか?」
柊先生の顔色が変わった。
「…ある。三十五年前。まだ私が若い勤務医だった頃だ」
老医師が苦い表情で言った。
「医療事故があった。当時の院長の息子が起こした…完全なミスだった。だが、病院は隠蔽した。記録を改ざんし、証拠を消した」
「その執着が…」
「そうか」
柊先生が理解した。
「執着はもう一つあったのか。隠蔽の執着が。私が今、刺激してしまったようだな。すべての記録を消そうと暴走している。」
黒い染みが、さらに広がっていく。
「ツキヨミ、どうするの?」
「…協力してもらえませんか、先生」
ツキヨミが柊先生に向き直った。
「え?」
柊先生が目を見開く。
「お前は、私を消しに来たのではないのか?」
「先生は記録を守りたい。でもあの執着は、記録を消したい」
ツキヨミが静かに言った。
「…そうだな」
「だったら、今は協力しましょう。あれを止めないと、本当に全部消えてしまう」
柊先生が、少し驚いたような顔をした。
「…お前は、変わった消す者だな」
「よく言われます」
アイリがくすくす笑った。
「じゃあ、作戦会議だね! 先生も入って!」
三人は——いや、幽霊二人と人間一人は、診察室の隅に集まった。
「あの執着の本体を探す必要があります」
ツキヨミが言った。
「記録改ざんの命令書とか、隠蔽に関わった書類とか」
「地下の書庫だ」
柊先生が即答した。
「当時の事務長が、すべての証拠書類を地下に隠した。鍵をかけて、誰も入れないようにした」
「じゃあ、そこに行けばいいんだね!」
「でも、あれが邪魔をする」
ツキヨミが黒い染みを見た。すでに診察室の半分を覆っている。
「先生、ここを守っていてください。僕とアイリが地下に行きます」
「待て」
柊先生が言った。
「一人で行かせるわけにはいかん。私も行く」
「でも、カルテは…」
「カルテは大事だ。だが」
老医師が、しっかりとツキヨミを見た。
「もっと大事なのは、真実だ。隠蔽された真実が解放されなければ、この執着は消えん」
ツキヨミが、少し微笑んだ。
「…分かりました」
三人は廊下に出た。
黒い染みは、もう病院全体に広がり始めていた。
壁、床、天井。すべてを覆い尽くそうとしている。
「地下への階段は、あっちだ!」
柊先生が先導する。長年この病院にいた執着だからこそ、地理には詳しい。
階段を下りる。
地下は真っ暗だった。ツキヨミが懐中電灯を取り出す。
「書庫は…ここだ」
古い木の扉。南京錠がかかっている。
「ツキヨミ、開けられる?」
「…ちょっと待って」
ツキヨミが錠前に手をかける。
力を込めると、古くなっていた錠がぱちん、と音を立てて、外れた。
扉を開ける。
中は狭い部屋で、古い書類が山積みになっていた。
そして、部屋の奥の壁一面に、黒い染みが渦巻いていた。
「あれが、本体か」
「すごい…」
アイリがツキヨミの後ろに隠れた。
黒い渦から、声が聞こえた。
『消せ…すべて消せ…真実など、ない方がいい…』
「違う!」
柊先生が叫んだ。
「真実は必要だ! あの事故で亡くなった患者は、ちゃんと記録されるべきだった。隠蔽されるべきではなかった!」
『忘れろ…忘れさせろ…』
「忘れることと、隠蔽することは違う!」
ツキヨミが傘を構えた。
その瞬間、黒い渦が激しく蠢いた。
『許さん…消す…すべて消す!』
触手が三人に向かって襲いかかる。
「させるか!」
柊先生が前に出た。執着である彼には実体がない。
だが、同じ執着である黒い渦には干渉できる。
老医師の手が、触手を掴んだ。
「ツキヨミ! 今だ!」
「はい!」
ツキヨミが傘を開き、黒い渦に向かって翳す。
「消えてください。あなたの役目は、もう終わりました」
傘の下で、執着が溶けていく。
隠蔽の執着。
真実を消そうとした執着。
それは、罪悪感と恐怖から生まれたもの。
だが、もう誰も罰することはできない。
当事者はとっくに死んでいる。
『あ、ああ…』
黒い渦が、小さくなっていく。
そして、消えた。
地下の書庫に、静寂が戻った。
「…終わったのか?」
「はい」
ツキヨミが傘を閉じた。
「先生、ありがとうございました」
「私が、礼を言うべきだろう」
柊先生が、穏やかな表情で笑った。
三人は地上に戻った。
4.
診察室に戻ると、カルテはまだそこにあった。
黒い染みは完全に消えていた。
「先生」
ツキヨミが言った。
「これからどうしますか?」
「…分かっている」
老医師が、カルテの山を見た。
「これももう、執着する必要はないのだろう?」
「はい。医学は進歩しています。今、この記録だけに執着する意味は少ないです」
「でも!」
アイリが言った。
「先生、患者さんたちのこと、覚えてるんでしょ?」
「ああ、覚えている。一人一人の顔を」
「じゃあ、大丈夫だね!」
柊先生が、優しく笑った。
「…そうだな。もう、紙に縛られる必要はない」
老医師の執着が、光を放ち始めた。
「ツキヨミ。お前は良い消す者だ。最初は敵だと思ったが…」
「いえ。先生は、最後まで患者さんたちの味方でした」
「ふふ、そう言ってくれるか」
光が強くなる。
「先生、さよなら!」
アイリが手を振った。
「また会えるといいね!」
「ああ、また会おう。いつか、どこかで」
柊先生の姿が、光の中に溶けていく。
そして、消えた。
5.
診察室には、古いカルテだけが残された。
もう、誰も守る者のいないカルテ。
やがて、自然に朽ちていくだろう。
だがそれが自然だ。それでいい。
「先生、最初は敵かと思ったけど、そうじゃなかったね」
アイリが嬉しそうに笑った。
「うん…そうだね」
「ねえねえ、帰りにアイス食べていい? あ、わたし食べられないけど、ツキヨミが食べるの見るの好き!」
「…ああ、いいよ」
二人は古い病院を後にした。
夕暮れの空の下、ツキヨミは傘を担ぎ、アイリは半透明の体でぴょんぴょん跳ねながら歩く。
「なんかさ、今日はいい日だったね」
「そうだね…」
「先生、幸せそうだったもん」
「うん…そうだね」
「ツキヨミ、笑ってる?」
「…笑ってないよ」
「嘘! 今、ちょっと笑った!」
「…気のせいだよ」
「むー! でもまあいいや。ほら、あそこにアイス屋さんあるよ!」
「ああ…、見えるね」
二人の姿が、夕暮れの街に溶けていく。
傘を持った青年と、赤いリボンの少女。
今日も、世界のどこかで、執着は消えていく。
そして、新しい物語が始まる。
<おわり>
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