墓地とタクシー

真花

墓地とタクシー

 夜も一時を回ると流していても客を拾えることは減って、車内に誰もいないことをいいことに僕は大仰なため息をついた。霧を粒にしたような小雨が降っていて、ヘッドライトに雨粒がノイズのように映し出される。急に訪れた秋の肌寒さがドア越しに侵入して来て、弱くかけた暖房と押し合いをしている。まだ稼ぎたい。信号が変わった、アクセルを踏み込む。静かで、僕の車以外他には走っていなくて、まるで宇宙を孤独に漂う船になったみたいだ。

 大通りで、二人組が手を挙げていた。若い男性二人のようで、傘を差さずフードを被っていて表情はよく見えない。電車もないこんな時間にここで何をしていたのか分からないけど、呼ばれたので停まった。ドアを開ける。

「よろしくお願いします」

 乗り込んだ男性の一人目がそう言って、二人目もそれに倣った。声は季節を間違えたセミのように弱々しく掠れていた。僕は振り返って二人の様子を確認する。危険な印象は受けなかったが、どこか落ち込んでいるような、暗いような感じがした。命が薄いような。

「はい。どちらにお付けしますか?」

「絵画墓地までお願いします」

「かしこまりました」

 およそ三十分の距離だから三―四千円にはなるだろう。でも墓地って、近辺に住んでいるのだろうか。発車させると後ろの二人が喋り出した。

「やっと帰れるな」

「本当、今日はしんどかった」

「いるだけでいいって言ったって、いるだけなのは何かするのより辛い」

「まあ、何してても変わんないけどね」

「それはそうなんだけど。ああ言われると他のことをしてはいけないのかなって思っちゃう」

「真面目過ぎるって。まあ、そう言う奴ばかりが残ってるんだけどね」

「そうそう。適当な奴ほど先にいなくなる」

「俺達は永遠にこのままかも知れないな」

「言えてる。でもまあ、それも悪くはない」

 バイトか何かの話なのだろうか? 何か微妙に違うような気もする。僕は背中を耳にして運転を続ける。

「でもいつか、今の状態を脱して、来世に向かう訳だろ? そのときはお前ともさよならになっちゃうのかな。それは嫌だな」

「強い絆があれば来世でも会えるって言うけどね。でも確証がない。今の状態を続ける方が確実ではある。もうしばらくはこのままでいこうよ」

「そうだな。今のままの方がいい」

 来世を語るには若過ぎるように思う。それとも、何か死ぬ予定とかがあるのだろうか。でも予定があったらあんな風に今のままでどうこうとは言わないはずだ。……僕は何者を乗せているんだ?

「よくさ、タクシーに乗せた女が消えて、シートが濡れてるって話あるだろ? あいつ、本当に失礼な奴だよね。消えれるからってちゃんと対価を払わずに消えるなんて、ただの無賃乗車だからね。俺はそんなことはしない。したこともないし、するつもりもない」

「俺だってちゃんと払うよ」

「そう、払う。当たり前のことだ。人として。……人だよな?」

「まあ、人でいいんじゃないの? 元々そうなんだし」

 消える女の話は有名だし、ちょいちょいあると聞いている。僕は遭遇したことはないけど、同僚でやられた奴もいる。でもそいつは運賃がどうかとかよりも、その後に一人でタクシーを運転することの方が問題だと言っていた。そのときの目的地も絵画墓地だった。

 二人はそれから黙って、僕は運転をする。静か過ぎて誰も乗っていないかのようだった。でも、バックミラーを覗けば二人は座っている。人だよな? 僕は何を乗せているんだ?

 もうあと少しと言った辺りで男がまた口を開いた。

「消える女もあれだけど、こんな話を聞いたんだ」

「どんな話?」

「タクシーに二人連れの男を乗せたんだって。指定されたのは人気のない場所で、運転手は特に気にせずにそこに向かった。道中は何もなかったんだけど、二人が降りた後が問題だった」

「ほう。どんな?」

「二人は降りた。確かに降りたんだ。ドアを閉めて発車したら後部座席に気配がする。車を止めて運転手が振り返ると、そこには……」

「そこには?」

 僕も胸の中で「そこには?」と言ったが、男はもう一人に耳打ちをしたようだった。二人目の男が、豪快に笑う。

「それは嫌だな」

「だろう?」

「もうタクシーから降りて逃げるんじゃないのかな。どうしたの、その運転手」

「根性があったみたいで、ちゃんと事業所まで乗って行ったらしいよ」

「そのまま?」

「そのまま」

 男も笑う。僕は笑えない。一体何がそこにいたのだ。だけどそれを僕が確かめる訳にもいかない。僕は何度もバックミラーを見て、二人がそこにいることを分かって、それ以外には何もいないことを確認して、車を停めた。

「到着しました」

 絵画墓地は壁などがない、外に晒されている墓地だから、運転席からも墓の様子が見える。そこには何もいない。何もいない。男は乗車賃をきっちりと払って、「ありがとうございます」と言って降りた。二人目の男も「ありがとうございます」と言って降りた。ドアを閉めて二人を目で追っていたら、す、と二人が消えた。多分、目の錯覚だ。墓地の中で人が消えることなどあり得ない。事業所に帰ろう。アクセルを踏もうとした。

 ガサ。

 後部座席に何かがいる。

 ガサ。

 僕は板のようになって動けない。後ろを振り向くこともバックミラーを見ることも出来ない。僕の目には二人の男が消えた墓地の映像だけが入って来る。心臓が爆発しそうだ。汗が垂れる。気配はそこで終わった。僕は辛うじて口を動かす。

「あのー」

 返事はない。

「誰かいますか?」

 応答はない。いないのだ。いるはずがない。僕は自分の首を折る勢いで後部座席に振り返る。そこには、誰もいなかった。ガサガサするべきものもなかった。大丈夫。気のせいだ。心臓を宥めて、アクセルを踏む。絵画墓地を後にして、大通りに出た。快調に車を走らせる。僕は大丈夫だ。

「ねえ」

 後部座席から声がして、慌ててブレーキを踏む。女の声だった。僕は絶対に乗せたりしていない。また心臓が暴れる。錆びたブリキのように後ろを振り返ると、真っ白なワンピースを着た髪の長い女が座っていた。

「はい」

「絵画墓地に行ってちょうだい」

 僕から汗が搾るみたいに出る。おかしいだろ。

「いつ、乗りましたか?」

「さあ。でも目的地は分かってるから」

「じゃあ、今乗ったと言うことで」

 僕は実車にする。客じゃないものを乗せてはいけない。いや降りて貰った方がいいのか? 乗車拒否になっちゃうのか? タクシーセンターに通報される? この女は何だ? 客ならいいのか? 

「それでいいわ」

 僕は車をぐるりと回して今来た道を戻る。ほんの五分の距離だ。言うことを聞けば降りてくれるはずだ。女は何も言わない。窓の外ばかりを見ている。雨の具合は変わっていない。

 さっきと全く同じところに車を付けて、「到着しました」と言う。女はちゃんと払って、「どうも」と言って出て行った。濡れた席にはならなかった。ドアを閉めたら、また、ガサ、と気配がした。今度はすぐに振り返った。同じことを繰り返したくなかった。

 そこには何もいなかった。

「誰もいませんね。では出発します」

 僕の体はガチガチのまま、アクセルを踏み込む。まだ陽が昇るまでは時間がかなりある。僕はずっと後部座席の気配を察知しようとしながら車を走らせた。チラチラとバックミラーを見た。信号の度に振り返った。誰もいない。誰もいないよ。

 二時を回った。

 道に手を挙げる人の姿が見えた。白いワンピースで長い髪で、さっきの女とそっくりだった。無視しようか。いや。タクシードライバーの本能が停車を命じる。もうひと稼ぎしなくてはならない。車を停めてドアを開ける。雨に濡れた女が乗り込む。

「絵画墓地までお願い」

「かしこまりました」

 僕の声は震えていた。停めたことを悔いた。だがもう遅い。客を乗せた以上は目的地まで連れて行かなくてはいけない。車を反転させて三度絵画墓地への道を走らせる。女は静かにしていて、乗っているのか乗っていないのか分からないくらいだったけど、バックミラーにはちゃんと映っていた。墓地に着き、会計を済ませて女を降ろす。気配がする前に後ろを振り返りそこに何もないことを確認して出発する。もういいだろう。僕をここから出してくれ。

 しばらく走るとまた同じような格好の女が手を挙げている。僕は無視した。絵画墓地に連れて行かれるに決まっている。走り去って、ちょっと悪いことをした気がしたけど、もう店じまいにしてもいい。稼ぐよりもホッとしたい。通りを左に曲がる。よく知っている道に出るはずだった。だけど、そこにあったのは絵画墓地だった。そんなはずはない。でも、さっき見た風景と全く同じだった。四人を降車させたその場所だった。僕はいったん車を停めて、周囲を見渡した。間違いない。

 コンコン。

 運転席の窓ガラスをノックされて僕はビクッと体を跳ねさせる。見れば、最初に乗せた男達が立っていた。消えたのではなかったのか。知っている顔だったと言うのもあるけど、開けないとこの場所から出られないことになりそうな予感がして、窓を開いた。

「はい」

「あと一人、よろしくお願いします。それで全員ですから」

 乗せなかった女のことだろう。

「了解しました」

「では、よろしくお願いします」

 男は笑いもせずに墓地の方に消えて行った。二人目の男も一緒に消えた。ハンドルを持つ僕の手が震えている。僕は車を出してから、後ろの気配を確認して、何もいなくて、さっきと同じ道を走った。無視した女が同じところに立っていた。車を停める。ドアを開けると女がゆっくりと入って来た。

「絵画墓地まで」

「かしこまりました」

 さっき無視したのが僕だと言うことには気付いていないのだろう。ドアを閉めて車を墓地に向かわせる。四度目だ。女は何も喋らず、静かに窓の外を見ている。

 絵画墓地に到着し、同じ場所に停車する。女は運賃を払って降りて行く。

「ありがと。乗れるタクシーは少ないから助かったわ」

「はい」

 ドアを閉める。僕の呼吸が促迫している。後部座席を振り返る。気配はないし、女も乗っていない。これで最後だと男は言っていたし、信じる根拠は何もないけど、今度こそ出発だ。

 霧雨の中、車を走らせる。ヘッドライトに雨粒が映っている。

 路傍で、手を挙げる人がいた。僕はどうすればいい。


(了)

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