紅茶に木苺を浮かべて
汐海有真(白木犀)
紅茶に木苺を浮かべて
誰かを好きになることは美しく、同時に苦しいのだろうと紅茶は思う。午後三時、蓄音機からは知らない人間の歌声が響いている。それは透明な音楽だ。雫のような、涙のような、雨のような――紅茶はレースカーテンの向こうに広がる曇天を、木製の肘掛け椅子にもたれかかりながら眺めている。空の下には数多の広葉樹が並んでいる。葉は少しも赤くなくて青々と茂っていて、どこか安堵する色彩を紅茶はぼんやりと見つめている。
紅茶の隣の床には十二冊の本が山積みになっている。どれも恋愛小説で、全て木苺が貸してくれた。そこには十二通りの世界があって、十二通りの恋愛があった。全部読んでみたけれどやはりその愛は、紅茶にとって遠いものだった。誰かを好きになることは難しくて、でも人間は簡単にやってのける。わたしは人間じゃない……? 紅茶は問う。血色の悪い手の平を広げて、見つめた。……いいや、わたしは人間だ。紅茶は手を降ろして、ゆっくりと息を吐いた。
紅茶は他者を好きになったことがなかった。彼女にとって他者は『隔てられたもの』で、隔たりが心の距離の拡大に繋がった。遠いものは手の届かないもの。遠いものは近付けないもの。自分の心は見えるのに他人の心は見ることができない。どれだけ頑張ってもそこには憶測の世界があるだけ。紅茶にとってはそれが恐ろしくて堪らない。だってあなたは笑顔の裏に嫌悪を潜ませているかもしれない。わたしのことを憎んで蔑んで殺しているかもしれない。紅茶は小さな丸テーブルに置かれたティーカップに口を付ける。あたたかい。コウチャには心がないからいいね、と紅茶は微笑う。絶対に対立が起こらないから。
誰かと交際した経験はある。一度だけ向こうから好意を寄せられたから、応えてみた。自分の中に愛が芽生えることを期待して、紅茶はその人と手を重ね、唇を重ね、身体を重ねた。でも重なりの向こうには空虚しかなかった。荒地のような自らの心を紅茶は軽蔑し、罵倒した。そうすることで心はさらに荒地になった。ぼろぼろと涙を零した夜が明けて、紅茶はその人に別れを告げた。今ではもうその人の顔さえ朧げだ。わたしはこうやって記憶から関わりの薄くなった人間を間引いて生きているのだろうと、紅茶はふと思った。もしどうしても忘れられなくても、紅茶は生まれつき色々な魔法を使うことができた。とある魔法を使えば解けてしまうまで、全てを忘れることができた。
結局のところ、紅茶は愛というものが苦手なのかもしれない。生まれたときから家族は存在していなかったから家族愛はない。性的な欲望を他者に向けたことがないから性愛もない。奪うことは気持ち悪いことだから略奪愛もない。他者への興味が希薄だから隣人愛もない。唯一あるのは友愛。でもそれも一人に対してだけ。わたしの愛は木苺のためだけにあるのかもしれない、そう紅茶は思う。だから木苺に会いに行くことにする。椅子から立ち上がって静謐に佇む電話機の前に立つ。ダイヤルを回して電話をかけると、ちりり、ちりり、という音が響いたあとで、木苺に繋がる。
――もしもし、木苺ですか? わたし、あなたに会いたい気分です。
そう紅茶が告げると、冷えた温度の受話器からくすくすと笑い声がして、彼女の声が聞こえてくる。
――構わないわよ。そうしたら二十分後、いつものカフェでどうかしら?
紅茶はわかりました、それでは、と言って受話器を置く。わたしは思考するときは敬語ではないのに、会話するときは敬語だ……不思議な話だった。でも敬語を使っていると安心するのだった。隔たりを再確認できるから敬語は愛おしい。紅茶はティーカップを再び持って、残りのコウチャを飲む。若干の苦味に染まった口内で少しばかり舌を動かして、紅茶は大きく伸びをする。魔法の言葉をうたうと、知らない人間の歌声が空気に混ざり合うように消えてゆく。
紅茶は鏡の前に立つ。コウチャみたいな髪の色、すなわち少し橙がかった茶色の巻き毛。目は可愛らしい檸檬の色。紅茶は置いてあるポーチから口紅を取り出して、唇に塗ってゆく。淡い桃色に染まってゆく。美しい彼女にはそれだけで充分だった。口紅をポーチに仕舞って、紅茶は歩き出す。興味は既に鏡から、玄関のブーツへと移ろっている。
何か大事なことを忘れているように紅茶は思った。赤色の思い出。赤色の思い出……? でも何かはわからなかった。記憶の海から取り出そうとして、小さな恐怖に胸を穿たれた。考えすぎてはいけないことが世の中には山のようにある。紅茶はそう知っているので海から足を上げる。溺れることは怖いこと、溺れることは辛いこと。紅茶はブーツの紐を蝶々のように結んで立ち上がる。
紅茶は友人をつくることが苦手だった。初めは皆、綺麗な容貌をした紅茶へと興味を抱き、積極的に関わろうとする。そこで気の利いた話をしたり笑顔を振り撒いたりといった行動を取ることが紅茶にはできない。無表情で相槌を打つことしかしない紅茶に、人間は早々に飽きて関わることをやめる。紅茶は独りぼっちだった。寂しいと思う。でも寂しいという思いを口に出すことはしない。だってあなたはわたしのことが嫌いかもしれない、今もわたしのことを葬る好機を伺っているかもしれない、そんなあなたに弱みなんて見せてたまるか……紅茶はそう考えてしまう。自己防衛も行き過ぎると毒だった。
だから木苺のことも初めは信頼していなかった。どうせこの人もすぐに離れていくだろう、そう紅茶は思いながら始まるであろう木苺の話に耳を傾ける。そこで困ったことが起きる。ねえ、貴女は愛って何だと思う? 木苺はそうやって紅茶に問うた。紅茶は驚いて目を見張る。初対面の人間にそんなに重い話をされるとは思っていなかった。どうせ名前とか出身地とか好きな食べ物とか浅薄な話が始まると踏んでいたのに。紅茶は思わず笑ってしまう。あはははは、それから言う。わかりませんよそんなこと、わたし愛している人なんて一人もいないですもん、聞く相手を間違えていますよ。木苺は三日月のように口角を上げた。そうしたら、私を愛してみたらどうかしら? 紅茶は驚いて、また笑ってしまう。何て変わった人なんだろう。でも紅茶は木苺を愛してみることにする。どうしてかわからないけれどこの人のことが何となく好きだから、愛してみるにはちょうどいい。いいですよと答えると、木苺の頬が満足げに緩む。
木苺の髪はイチゴの赤。木苺の目はキの緑。真っ赤な長髪はさらりと伸びていて、真っ直ぐだ。紅茶には羨ましい。巻き髪の呪いなんていいことが一つもない。親とお揃いだから嬉しいんだ、なんて言ってのける本の中の人間を嘲笑する。わたしには最初から親なんていない。
青々とした落ち葉を踏みしめながら、紅茶はカフェへと向かう。鳥の囀りが響いている。数多の蝶々が飛んでいる。木漏れ日が柔らかなあたたかさを生み出している。綺麗な世界。紅茶はうっすらと微笑む。世界を、人生を、美しいと思うことができるときと、できないときがある。今は前者だ。ずっとずっと前者が続けばいいのにと紅茶は思う。苦しいときって誰にだってあるものなのだろうか? わからない。紅茶が関わる人間なんて、木苺くらいしか存在していないのだから。木苺を人間のサンプルにしてしまうことは危うい気がする。こんなわたしが気に入る人間なんて、どこか壊れているに違いないもの。
カフェは森を抜けた辺りにある。雪を塗りたくったような白さをした建物の中に、雪を塗りたくったような白さをしたテーブルと椅子が整然と配置されている。入り口の側には既に木苺の姿があった。真っ赤な髪に紅茶の心は何故かどきりとする、愛のせい? わからない。紅茶は駆け出して、ようやく目が合った木苺に抱きつく。ぎゅっと抱きしめる、木苺の身体はほんのりと柔らかかった。こんにちは、木苺。彼女の感触を愛おしく思いながら、紅茶はそうやって口にする。こんにちは、紅茶。彼女の甘い声は受話器を通して聞くよりもずっと、ずっと心地いい。
これだけ愛していても木苺の心だって他とおんなじだ、見えない。でも紅茶は不思議と恐れない。木苺の心になら憎まれてもいい、蔑まれてもいい、殺されてもいい。そう思えてしまうのが不思議だった。彼女の体温に包まれながら、紅茶は目を閉じる。ある日木苺が突然わたしの元から離れていったらどうしよう? でもそれさえも許せてしまいそうな気がした。本当に? ふっと浮かび上がった些細な疑問に紅茶は口角を歪める。うるさいな。それだけ伝えて紅茶は答えない。
愛、それは目に見えなくて不確かで曖昧なもの。でも間違いなく紅茶は木苺を愛していた。この狭いような広いような世界でただ一人、木苺のことだけをわたしは愛している。美しい。でも多分木苺が愛しているのは、わたしだけじゃなくて、沢山。寂しい。紅茶は木苺から身体を離して切なげに微笑う。どちらからともなくカフェの中に向かって歩き出す。
カフェの店内にも沢山の蝶々が飛び交っていた。紅茶はいつものようにコウチャを飲んで、木苺はいつものようにイチゴミルクを飲む。周りの客の姿が半透明に思えて、だから彼等は幽霊なのかもしれなかった。幽霊たちの過ごす世界でわたしと木苺だけが生きている。甘美な妄想。仮に世界が終わるとしても、わたしと木苺はきっと死なないだろう。だって愛し合っているから。コウチャにたぽたぽとミルクを注ぐ。白く濁っていく液面が紅茶には愛おしい。
――それで、紅茶。どうして貴女は、急に私に会いたいと思ったの? よかったら聞かせてほしいわ。
木苺の瞳が、紅茶のことを見つめていた。紅茶を緑の世界に閉じ込めていた。
――わたしがあなたのことを愛しているからです。それ以下でもそれ以上でもなくて、本当にただそれだけなんですよ、木苺?
きっとわたしの目も木苺を檸檬色の世界に閉じ込めている。今だけは、今だけはわたしだけのものになって、木苺。沢山の人間なんて無視して、思わないで、想わないで……紅茶はミルクティーを飲んだ。紅茶に木苺の心が見えないことは木苺に紅茶の心が見えないことの証明に違いなかった。安心した。わたしの愛は時折どす黒いから、木苺には見せたくない。見せたくない……
――ふふ、紅茶は相変わらず、愛情表現がストレートね。そういうの、嫌いじゃないわ。
木苺はイチゴミルクを飲みながら、紅茶に笑いかけた。
――木苺はどうなんですか? わたしのこと、どう思っているんですか……?
臆病さの垣間見える視線をちらちらと投げかけながら、紅茶は木苺に問いかける。あなたの心になら憎まれてもいい、蔑まれてもいい、殺されてもいい、けれど心の奥底ではあなたにわたしを愛してほしいと祈っている。わたしがあなたを愛しているのと同じように……紅茶の心臓が震える。愛とは不安だ、愛すれば愛するほど不安に不安になってゆく。それって本当に友愛? 恋愛に近くない? どうでもいい、愛を区分して定義しようとするほど愚かなことはない。数十分前の自分の行動を紅茶は何も厭わずに否定する。きっと友愛だけれどそこに他の愛が混ざっていてもおかしくないんだ。
イチゴミルクをテーブルに置いてから、木苺の唇が開く。
――私? そうね、貴女のことは、手の掛かる妹みたいに思っている。大好きよ、紅茶。
木苺の手が紅茶の口元へ伸びる。汚れているわよ、と言いながら木苺は唇の隣の肌をつうとなぞる。何で汚れていたんだろう、何も食べていないのにな、わからないな。コウチャとイチゴミルクを用意するときに、その液体が跳ねたのだろうか? でも紅茶にとってそんなことはどうでもよかった。接触の理由が重要なのではなく接触そのものが重要なのだから。木苺の唇はふっくらとしていて、淡い赤色に染まっている。木苺によく似合っている。でも紅茶は少しだけ怖いと思う。自分の心は見えるはずなのに、こういう瑣末な機微は理解できないことがある。紅茶は考えるのをやめて木苺を見据える。
――それじゃああなたは、木苺お姉さん、ですね。
ぱち、ぱちと木苺は瞬きをする。驚いているみたい、そんな表情が紅茶には愛おしい。紅茶の心臓の震えは先程よりもずっと、あたたかい。だから紅茶はまた口を開く。
――木苺お姉さん、木苺お姉さん、木苺お姉さん。
紅茶が何度も紡ぐにしたがって木苺の口元が笑いの形に変わっていく。綺麗。この世界のどんな美しい景色よりも、美しい人間よりも、美しい存在よりも、木苺が一番綺麗。紅茶にとってはそうだった。
――もう、いきなり何を言い出すのよ。別に妹みたいな存在ってだけで、私たちは友達じゃない?
口元に手を添えて木苺は微笑う。友愛に恋愛が混ざっていると思ったら今度は家族愛までもが混ざり出す。ぐちゃぐちゃの愛。何色? わからない。わからないけれど、わたしにとってやはりこれがただ一つだけの愛。紅茶はミルクティーにさらにミルクを溶かす。液面が揺りかごのようにゆらゆらと揺れる。紅茶は顔を上げる、一瞬だけ全ての情景が歪んだ気がした、赤? でもすぐに元通りの情景になった、白。
――あはは、つい言ってみたくなってしまったんです。冗談ですよ、木苺。
紅茶と木苺の二人だけで、世界は完成されていた。少なくとも紅茶はそう思っていた。今他者が全部真っ赤な肉塊になっても、紅茶は全く構わなかった。沢山の肉塊が落ちている道をわたしと木苺は散歩する。ぐちゅぐちゅの地面。赤色の水溜り。死の匂い。そんな場所でもわたしと木苺が話しているだけで全てが虹のかかったようになる。幸福。紅茶はミルクティーに口を付けた。
――私、紅茶とこうやって過ごしている時間が、一番大切かもしれないわ。
どこか遠くを眺めている木苺の横顔は首から上を切り取って保存してしまいたいほど美しかったから、紅茶は思わず見惚れてしまう。ふと何かが靴に触れた心地がして、見てみるとそれは血だった。紅茶は目を見開いて液体の出どころを視線で探る。少し遠くの人間が肉塊になっていた。わたしはそれを汚いと思った。血は波のように至るところから押し寄せてきた。真っ白な世界が段々と赤く彩られていくからまるでショートケーキのようだった。木苺は気付いていないようだった。紅茶はミルクティーを飲み干して、立ち上がる。
――行きましょう、木苺。
紅茶の声は随分と冷たく響いた。木苺は困ったように首を傾げる。
――ええと、ちょっとだけ待ってくれるかしら? 飲み物がまだあと少し、残っていて……
――いいから、行きましょう!
紅茶は木苺の手を取った。その柔い手を繋ぎながら、真っ赤になり始めた世界から抜け出そうとした。口元を右手で拭うと何かが付着した。コウチャかイチゴミルク? いいえ、それは血だった。目の前を何かが横切っていった気がした。蝶々? いいえ、それは蠅だった。
紅茶はいつもこのときになってようやく、思い出す。
全てを、思い出す。
虚構で飾り付けをしておきたいのに、現実は気付けば顔を覗かせていて、だから紅茶は夢の世界に浸る魔法を使うのだけれど、その奇跡も気付くと溶け出しているから、困ってしまうなと紅茶は思う、もうどうしようもない、わからない、正解なんてわからない。
紅茶はまた魔法をかける。自分と木苺に魔法をかける。
瞬きを繰り返しながら、紅茶は立ち止まっている。あれ、わたし、何をしていたんだっけ。ああそうだ、カフェで木苺とお喋りをしていたんだ、それでそろそろ別の場所に移ろうかという話になって、だからわたしは今こうやってカフェから出ようとしているんだった。
紅茶は会計をする。目の前に立っている人間は半透明な気がする。でも間違いなく生きている。生きている……。生きている……? 生きている……! 紅茶はどうしてか少しだけ不安になって、木苺の方を見る。目と目が合う。木苺が持っている緑色の瞳、紅茶が持っている檸檬色の瞳。
――どうかしたの、紅茶? 何だかとっても、怖い顔をしているわよ。
――え……そうですか? そんなこと、ないと思いますけれど……
――本当に、何というか……切羽詰まったような表情よ。鏡でも見てきたらどうかしら?
――ええ、面倒くさいからいいですよ。それじゃあ行きましょうか、木苺。
死ね、と誰かに囁かれたような気がした。紅茶をそんな心地が満たしていった。でも死にたくなかったので無視した。わたしの生死を他者の物差しによって決められてたまるか。紅茶はどうしてか泣き出しそうになる。わからない。ふとした瞬間に溢れそうになる涙の理由など紅茶にはわかるはずもない。でも怖い。すごく怖い。怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。紅茶はぎゅっと木苺の腕を掴む。そのまま溢れ出した涙に首を絞められるように咽び泣く。木苺の顔が悲しみに染まってゆく。
――ちょっと、大丈夫、紅茶……? 取り敢えず外に出ましょう、ね?
こくこくと紅茶は頷いた。外に出てみると真っ赤な人間が至るところに転がっていて紅茶は息を呑んだ。魔法の存在を思い出す。世界の現状を思い出す。紅茶は叫び出しそうになる。わたしは魔法を使いすぎたのかもしれない。段々と効き目が弱くなっている。紅茶は恐る恐る木苺の方を見る。彼女は優しい微笑みを湛えながら紅茶を見つめていた。木苺はまだ隠されている全ての事実に気が付いていない。気が付いていない! 気が付いていない! 気が付いていない! よかった……紅茶は泣きながら微笑んだ。
深く、深く、帰ってくることができないくらいに、魔法をかけようと思った。幻想の世界に入り込んで、わたしはそれが幻想だということなど全て忘却してしまって、肘掛け椅子をゆらゆらと漕ぐ。そうしてわたしはまた愛について考えるのだ。目に見えなくて不確かで曖昧なものについて考え続けるのだ。そうしていたい。木苺と二人きりの世界でいい。
悪意を持った誰かの暴力でこの町は滅んだ。紅茶の両親はもしかするとその人間に既に殺されていたのかもしれない。もしくはこの町の運命を知っており紅茶を森の中に隠していち早く逃げ出したのかもしれない。いずれにせよ、もう紅茶は両親の顔を思い出すことができない。それどころか、木苺以外に関わりのあった人間の顔を一人も思い出すことができない。どうして? ――わたしは魔法に頼りすぎたんだ。木苺の顔もいつか思い出せなくなってしまう? 木苺の全てを忘却してしまう日がすぐそこまで迫っている? 恐ろしい、恐ろしくて堪らない。それでも魔法をかけなければならない。深く、深く……紅茶の瞳からまた大粒の涙が溢れる。
あの日滅びの中紅茶の魔法で紅茶と木苺だけが助かったとき、木苺は泣き喚いた。そのときに紅茶は思い知らされた、わたしにとっての大切は木苺だけだったけれど、木苺にとっての大切はわたしだけではないのだ。そう気付いたとき紅茶は狂おしいほどの憎悪を覚えた。だから紅茶は魔法をかける。終わってしまった世界のことなど忘れてしまって、幸せでいられるような魔法をかける。
紅茶は魔法を紡ぐ。紡がなければ逃避できない。でもうまくいかない。どれだけ言葉をうたってもうたってもうたっても、目の前に広がる腐乱した死体と脳漿と血液など消えてくれない。紅茶は悲しくなって泣き続ける。木苺は心配そうに紅茶のことを抱きしめて背中をさすってやる。あなたがわたしにそうやって優しくしてくれるのもわたしがあなたに魔法をかけているからだ。あなたは気付いてしまえばまた虚ろな空っぽな木苺になってしまうのだ。そんなのはだめだ。許さない。許さない。許さない! 許さない……
許さないから、だからずっと、わたしの側にいて。
お願い、木苺……
紅茶は目を閉じる。
夕焼けに包まれた穏やかな森の側で、木苺は泣き疲れて眠ってしまった紅茶の髪を撫でる。行き交う人々は不思議そうに二人の姿を見ている。ある蝶々は舞い、ある蝶々は踊る。私、この子が抱えている悩みについて、殆ど何も知らないのね。木苺はそう思って少し寂しい気持ちになる。木苺の真っ赤な長髪はそっと、紅茶の頬に触れた。
紅茶に木苺を浮かべて 汐海有真(白木犀) @tea_olive
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