第7話「蝶の朝」


 五月が来た。


 真琴は一徳の家に残っていた。一徳の遺言で、家と土地は真琴に遺贈されることになった。


「一徳さん……」


 真琴は庭に立ち、空を見上げた。


「ありがとうございます」


 真琴の言葉には万感の想いがこもっていた。

 風が吹き、新緑の葉が揺れた。

 まるで一徳が答えているようだった。



 真琴は、一徳のような生活を続けた。


 朝は早く起きて、座禅を組む。完全に無になることはできないが、心は以前よりずっと静かだった。


 朝食は粥と漬物。一徳が教えてくれた通りに作る。


 日中は庭仕事。植物の世話をし、草を抜き、水をやる。土に触れることが、心を落ち着かせてくれた。


 午後は読書。一徳の本棚から一冊ずつ読んでいく。難しい本も多かったが、一徳の書き込みを見ると、何を考えていたのか少し分かる気がした。


 夕方は茶を淹れる。一徳が教えてくれた通りに、丁寧に、心を込めて。


 夜は早く寝る。星を見て、一徳のことを思い出す。


 それは静かな生活だったが、真琴にとっては豊かな生活だった。



 ある日、寺の住職が訪ねてきた。


「真琴さん、お元気そうですね」


「はい。一徳さんが教えてくれたことを、少しずつ実践しています」


「素晴らしい。一徳さんも喜んでいるでしょう」


 二人は縁側に座り、茶を飲んだ。


「住職さん、わたし……これからどう生きていけばいいのか、まだよく分かりません」


「それでいいんですよ。人生に正解はありません。大切なのは、自分の心に正直に生きること」


「一徳さんも、同じことを言っていました」


「一徳さんは賢い方でしたからね」


 住職は微笑んだ。


「真琴さん、もし良かったら、時々寺に来ませんか? 若い人の視点が、寺にも必要なんです」


「わたしが……?」


「はい。一徳さんから学んだことを、他の人にも伝えてほしいんです」


 真琴は少し考えてから、頷いた。


「……私、やってみます」



 真琴は週に一度、寺を訪れるようになった。


 そこで、様々な人と出会った。人生に悩む人、病気で苦しむ人、孤独を抱える人。真琴は彼らの話を聞き、一徳から学んだことを少しずつ伝えた。


「一徳さんは、こう言っていました。苦しみは避けられない。でも、苦しみをどう受け止めるかは選べる、と」


 真琴の言葉は、時に人々の心を動かした。それは一徳の言葉でもあったが、真琴自身の経験から出た言葉でもあった。


 ある日、一人の少女が寺を訪れた。真琴と同じくらいの年齢で、目に光がなかった。



 少女は呟いた。


 真琴は、その言葉を聞いて、昔の自分を思い出した。


「わたしも、そう思っていました」


「え?」


「半年前、わたしも死に場所を探していました。でも、ある人に救われて、今ここにいます」


 真琴は少女に、自分の物語を話した。

 一徳との出会い、共に過ごした日々、そして別れ。


「その人は、わたしに生きることを教えてくれました。直接言葉で教えたわけじゃない。ただ、生き方を見せてくれただけ。でも、それで十分でした」


「今は……死にたくないんですか?」


「時々、まだ辛くなることはあります。でも、生きていたいと思います。この世界は、思っていたより美しいから」


 少女の目に、小さな光が宿った。


「わたしも……そう思えるようになるでしょうか?」


「なれます。必ず」


 真琴は少女の手を取った。


「一緒に、生きていきましょう」


 少女は戸惑いながらも、そっと真琴の手を握り返した。



 夏が来た。


 庭には青々とした葉が茂り、蝉の声が響いていた。真琴は一徳の墓を訪れ、花を供えた。


「一徳さん、わたし、少しずつ前に進んでいます」


 墓石は何も答えなかったが、真琴には一徳の声が聞こえる気がした。


「よくやっているね、真琴さん」


 真琴は微笑んだ。


「ありがとうございます。一徳さんのおかげです」


 風が吹き、木々が揺れた。



 ある朝、真琴は庭で蝶を見つけた。


 白い蝶が、花から花へと飛んでいる。その姿は軽やかで、自由だった。


 真琴は蝶を見つめた。


 さなぎから蝶へ……。

 そう、真琴もさなぎだった。


 閉じこもり、暗闇の中にいた。でも、一徳との時間が、真琴を変えた。そして今、真琴は蝶になろうとしている。


 まだ完全に飛べるわけではない。時々、地面に降りてしまう。でも、少しずつ、高く飛べるようになっている。


「一徳さん、見ていてください」


 真琴は空を見上げた。


「わたしは、飛びます」


 蝶は風に乗って、空高く舞い上がった。

 真琴もいつか、あのように自由に飛べるだろう。


 それは明日かもしれないし、一年後かもしれないし、十年後かもしれない。でも、必ずその日は来る。


 真琴は信じていた。


 空は穏やかにそれを見つめていた。



 長い年月が過ぎた。


 それは一日のようであり、一年のようでもあり、十年のようでもあった。


 春の朝、真琴は一徳の家――今は自分の家――の庭に立っていた。


 桜が満開だった。風が吹き、花びらが舞う。


 真琴は深呼吸をした。春の空気が、胸いっぱいに広がる。


「一徳さん、わたしは今、幸せです」


 空に向かって呟く。


「あの時、わたしを救ってくれて、本当にありがとうございました」


 風が答えるように吹いた。


 真琴は微笑んだ。そして、家の中に戻った。


 今日も、やるべきことがたくさんある。


 でも、すべてが喜びだった。


 真琴は茶を淹れた。一徳が教えてくれた通りに、丁寧に、心を込めて。


 湯気が立ち上る。その白い煙が、春の光の中で輝いていた。


 蝶が窓の外を飛んでいった。

 白い蝶。

 あの日、庭で見た蝶のように。


 真琴は蝶を静かに見送った。


「ありがとう、一徳さん。


 そして、茶を一口啜った。


 美味しかった。


 そして人生は、とても、美しかった。


 (了)


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【とある少女と老人の短編小説】蝶の朝、さなぎの家(約15,000字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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