第7話「蝶の朝」
五月が来た。
真琴は一徳の家に残っていた。一徳の遺言で、家と土地は真琴に遺贈されることになった。
「一徳さん……」
真琴は庭に立ち、空を見上げた。
「ありがとうございます」
真琴の言葉には万感の想いがこもっていた。
風が吹き、新緑の葉が揺れた。
まるで一徳が答えているようだった。
◆
真琴は、一徳のような生活を続けた。
朝は早く起きて、座禅を組む。完全に無になることはできないが、心は以前よりずっと静かだった。
朝食は粥と漬物。一徳が教えてくれた通りに作る。
日中は庭仕事。植物の世話をし、草を抜き、水をやる。土に触れることが、心を落ち着かせてくれた。
午後は読書。一徳の本棚から一冊ずつ読んでいく。難しい本も多かったが、一徳の書き込みを見ると、何を考えていたのか少し分かる気がした。
夕方は茶を淹れる。一徳が教えてくれた通りに、丁寧に、心を込めて。
夜は早く寝る。星を見て、一徳のことを思い出す。
それは静かな生活だったが、真琴にとっては豊かな生活だった。
◆
ある日、寺の住職が訪ねてきた。
「真琴さん、お元気そうですね」
「はい。一徳さんが教えてくれたことを、少しずつ実践しています」
「素晴らしい。一徳さんも喜んでいるでしょう」
二人は縁側に座り、茶を飲んだ。
「住職さん、わたし……これからどう生きていけばいいのか、まだよく分かりません」
「それでいいんですよ。人生に正解はありません。大切なのは、自分の心に正直に生きること」
「一徳さんも、同じことを言っていました」
「一徳さんは賢い方でしたからね」
住職は微笑んだ。
「真琴さん、もし良かったら、時々寺に来ませんか? 若い人の視点が、寺にも必要なんです」
「わたしが……?」
「はい。一徳さんから学んだことを、他の人にも伝えてほしいんです」
真琴は少し考えてから、頷いた。
「……私、やってみます」
◆
真琴は週に一度、寺を訪れるようになった。
そこで、様々な人と出会った。人生に悩む人、病気で苦しむ人、孤独を抱える人。真琴は彼らの話を聞き、一徳から学んだことを少しずつ伝えた。
「一徳さんは、こう言っていました。苦しみは避けられない。でも、苦しみをどう受け止めるかは選べる、と」
真琴の言葉は、時に人々の心を動かした。それは一徳の言葉でもあったが、真琴自身の経験から出た言葉でもあった。
ある日、一人の少女が寺を訪れた。真琴と同じくらいの年齢で、目に光がなかった。
「死にたい」
少女は呟いた。
真琴は、その言葉を聞いて、昔の自分を思い出した。
「わたしも、そう思っていました」
「え?」
「半年前、わたしも死に場所を探していました。でも、ある人に救われて、今ここにいます」
真琴は少女に、自分の物語を話した。
一徳との出会い、共に過ごした日々、そして別れ。
「その人は、わたしに生きることを教えてくれました。直接言葉で教えたわけじゃない。ただ、生き方を見せてくれただけ。でも、それで十分でした」
「今は……死にたくないんですか?」
「時々、まだ辛くなることはあります。でも、生きていたいと思います。この世界は、思っていたより美しいから」
少女の目に、小さな光が宿った。
「わたしも……そう思えるようになるでしょうか?」
「なれます。必ず」
真琴は少女の手を取った。
「一緒に、生きていきましょう」
少女は戸惑いながらも、そっと真琴の手を握り返した。
◆
夏が来た。
庭には青々とした葉が茂り、蝉の声が響いていた。真琴は一徳の墓を訪れ、花を供えた。
「一徳さん、わたし、少しずつ前に進んでいます」
墓石は何も答えなかったが、真琴には一徳の声が聞こえる気がした。
「よくやっているね、真琴さん」
真琴は微笑んだ。
「ありがとうございます。一徳さんのおかげです」
風が吹き、木々が揺れた。
◆
ある朝、真琴は庭で蝶を見つけた。
白い蝶が、花から花へと飛んでいる。その姿は軽やかで、自由だった。
真琴は蝶を見つめた。
さなぎから蝶へ……。
そう、真琴もさなぎだった。
閉じこもり、暗闇の中にいた。でも、一徳との時間が、真琴を変えた。そして今、真琴は蝶になろうとしている。
まだ完全に飛べるわけではない。時々、地面に降りてしまう。でも、少しずつ、高く飛べるようになっている。
「一徳さん、見ていてください」
真琴は空を見上げた。
「わたしは、飛びます」
蝶は風に乗って、空高く舞い上がった。
真琴もいつか、あのように自由に飛べるだろう。
それは明日かもしれないし、一年後かもしれないし、十年後かもしれない。でも、必ずその日は来る。
真琴は信じていた。
空は穏やかにそれを見つめていた。
◆
長い年月が過ぎた。
それは一日のようであり、一年のようでもあり、十年のようでもあった。
春の朝、真琴は一徳の家――今は自分の家――の庭に立っていた。
桜が満開だった。風が吹き、花びらが舞う。
真琴は深呼吸をした。春の空気が、胸いっぱいに広がる。
「一徳さん、わたしは今、幸せです」
空に向かって呟く。
「あの時、わたしを救ってくれて、本当にありがとうございました」
風が答えるように吹いた。
真琴は微笑んだ。そして、家の中に戻った。
今日も、やるべきことがたくさんある。
でも、すべてが喜びだった。生きていること自体が、喜びだった。
真琴は茶を淹れた。一徳が教えてくれた通りに、丁寧に、心を込めて。
湯気が立ち上る。その白い煙が、春の光の中で輝いていた。
蝶が窓の外を飛んでいった。
白い蝶。
あの日、庭で見た蝶のように。
真琴は蝶を静かに見送った。
「ありがとう、一徳さん。わたしは、飛べるようになりました」
そして、茶を一口啜った。
美味しかった。
そして人生は、とても、美しかった。
(了)
【とある少女と老人の短編小説】蝶の朝、さなぎの家(約15,000字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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