第6話「永遠の朝、最後の春」

 四月が来た。


 庭には桜が咲き、薄紅色の花びらが風に舞っていた。真琴は一徳と縁側に座り、桜を眺めていた。


「きれいですね」


「そうだね。でも、梅と同じだ。もう散り始めている」


 一徳の声には、何の悲しみもなかった。ただ、淡々と事実を述べているだけだった。


「一徳さんは、いつも落ち着いていますね」


「そう見えるかね? でも、わしも若い頃は焦っていたよ」


「今は、どうして落ち着いていられるんですか?」


「時間の感覚が変わったからかな」


 一徳は遠くを見た。


「若い頃は、時間が直線だと思っていた。過去から現在、現在から未来へと続く一本の線。でも今は、時間は円だと感じるんだ」


「円?」


「そう。すべてが繋がっている。過去も現在も未来も、実は同時に存在している」


 真琴にはよく分からなかったが、一徳の言葉には不思議な説得力があった。


「過去の記憶が、今のわしを作っている。そして今のわしが、未来を作る。だから、すべては繋がっているんだ」


「じゃあ、死んでも……?」


「死んでも、繋がりは続く。形が変わるだけで、本質は変わらない」


 一徳は微笑んだ。


「それが、



 四月の半ば、一徳が倒れた。


 朝、いつものように座禅を組んでいた一徳が、突然崩れ落ちた。

 真琴は慌てて駆け寄り、救急車を呼んだ。


 病院で検査を受けた結果、心臓に問題があることが分かった。

 医師は入院を勧めたが、一徳は断った。


「家で過ごしたい。残された時間は、自分の家で過ごしたいんだ」


 真琴は不安だったが、一徳の意志を尊重した。


 家に戻ってから、一徳は以前よりも静かになった。長時間座ることができなくなり、読書も短時間だけになった。でも、その表情には穏やかさがあった。


「怖くないんですか?」


 ある夜、真琴は尋ねた。


「少しは怖いよ。でも、それ以上に、感謝の気持ちが強い」


「感謝?」


「こうして生きてこられたこと。美枝子と出会えたこと。哲学を学べたこと。そして、君と出会えたこと」


 一徳は真琴の手を取った。


「人生は、贈り物なんだよ。どんなに辛いことがあっても、


「わたしも……そう思えるようになりたいです」


「君は自分で気づかないだけで、もう、そう思い始めている。それで十分だよ」



 一徳は、真琴に様々なことを話した。


 自分の人生のこと、哲学のこと、美枝子のこと。そして、これから真琴がどう生きていくべきかということ。


「真琴さん、君はこれから自分の人生を生きるんだ」


「でも……何をすればいいか分かりません」


「それでいいんだよ。最初から答えが分かっている人生なんて、つまらない」


 一徳は微笑んだ。


「大切なのは、自分の心に正直に生きること。他人の期待に応えるためではなく、


「わたしが、したいこと……」


「今はまだ分からなくてもいい。でも、いつか見つかる。その時まで、焦らずに生きればいい」


 真琴は一徳の言葉を、一つ一つ心に刻んだ。


「一徳さん、わたし……わたし、まだ一徳さんと一緒にいたいです」


「わしもだよ。でも、別れは必ず来る。それが人生なんだ」


 一徳は真琴の頭を優しく撫でた。


「でも、わしは君の中で生き続ける。わしが君に伝えたことは、君の一部になる。だから、わしは決して消えない」


「一徳さん……」


「泣かなくていい。これは悲しいことじゃないんだ。自然なことなんだよ」



 ある夜、一徳は真琴を庭に連れ出した。


 満月だった。月の光が庭を照らし、桜の木が銀色に輝いていた。


「美しいね」


「はい……」


「真琴さん、わしは幸せだった」


 一徳は空を見上げた。


「長い人生、色々なことがあった。喜びも悲しみも、成功も失敗も。でも、すべてが必要だったんだと今は思える」


「わたしにも……そう思える日が来るでしょうか?」


「来るよ。必ず来る」


 一徳は真琴を見た。


「人生は、パズルなんだ。一つ一つのピースだけでは意味が分からない。でも、最後にすべてが組み合わさった時、美しい絵が見える」


「わたしの人生も、そうなるでしょうか?」


「もちろんだ。君の人生は、これから美しい絵になる。わしはそれを信じているよ」


 二人は黙って月を見上げた。時間が止まったような、永遠のような瞬間だった。



 翌朝、一徳は静かに息を引き取った。


 真琴が朝食を作っている間に、まるで眠るように。その顔は穏やかで、苦しみの痕は微塵もなかった。


 真琴は声を上げて泣いた。

 それはもちろん悲しみから来る涙だったが、深い感謝も含まれていた。


 一徳がくれた時間。

 一徳が教えてくれたこと。

 一徳が示してくれた生き方。


 すべてが、真琴の中に残っていた。


 葬儀は小さいものだった。


 寺の住職と、一徳の教え子だった数人だけ。真琴は喪主として、一徳を送った。


「一徳先生は、最後まで哲学者でした」


 住職が言った。


「生き方そのものが、彼の哲学だった。そして、その哲学は、彼と出会った人たちの中で生き続けるでしょう」


 真琴は頷いた。

 そうだ、一徳さんは生き続ける。


 わたしの中で、わたしと共に。

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