第6話「永遠の朝、最後の春」
四月が来た。
庭には桜が咲き、薄紅色の花びらが風に舞っていた。真琴は一徳と縁側に座り、桜を眺めていた。
「きれいですね」
「そうだね。でも、梅と同じだ。もう散り始めている」
一徳の声には、何の悲しみもなかった。ただ、淡々と事実を述べているだけだった。
「一徳さんは、いつも落ち着いていますね」
「そう見えるかね? でも、わしも若い頃は焦っていたよ」
「今は、どうして落ち着いていられるんですか?」
「時間の感覚が変わったからかな」
一徳は遠くを見た。
「若い頃は、時間が直線だと思っていた。過去から現在、現在から未来へと続く一本の線。でも今は、時間は円だと感じるんだ」
「円?」
「そう。すべてが繋がっている。過去も現在も未来も、実は同時に存在している」
真琴にはよく分からなかったが、一徳の言葉には不思議な説得力があった。
「過去の記憶が、今のわしを作っている。そして今のわしが、未来を作る。だから、すべては繋がっているんだ」
「じゃあ、死んでも……?」
「死んでも、繋がりは続く。形が変わるだけで、本質は変わらない」
一徳は微笑んだ。
「それが、わしの信じる永遠なんだよ」
◆
四月の半ば、一徳が倒れた。
朝、いつものように座禅を組んでいた一徳が、突然崩れ落ちた。
真琴は慌てて駆け寄り、救急車を呼んだ。
病院で検査を受けた結果、心臓に問題があることが分かった。
医師は入院を勧めたが、一徳は断った。
「家で過ごしたい。残された時間は、自分の家で過ごしたいんだ」
真琴は不安だったが、一徳の意志を尊重した。
家に戻ってから、一徳は以前よりも静かになった。長時間座ることができなくなり、読書も短時間だけになった。でも、その表情には穏やかさがあった。
「怖くないんですか?」
ある夜、真琴は尋ねた。
「少しは怖いよ。でも、それ以上に、感謝の気持ちが強い」
「感謝?」
「こうして生きてこられたこと。美枝子と出会えたこと。哲学を学べたこと。そして、君と出会えたこと」
一徳は真琴の手を取った。
「人生は、贈り物なんだよ。どんなに辛いことがあっても、生きること自体が贈り物なんだ」
「わたしも……そう思えるようになりたいです」
「君は自分で気づかないだけで、もう、そう思い始めている。それで十分だよ」
◆
一徳は、真琴に様々なことを話した。
自分の人生のこと、哲学のこと、美枝子のこと。そして、これから真琴がどう生きていくべきかということ。
「真琴さん、君はこれから自分の人生を生きるんだ」
「でも……何をすればいいか分かりません」
「それでいいんだよ。最初から答えが分かっている人生なんて、つまらない」
一徳は微笑んだ。
「大切なのは、自分の心に正直に生きること。他人の期待に応えるためではなく、自分が本当にしたいことをすること」
「わたしが、したいこと……」
「今はまだ分からなくてもいい。でも、いつか見つかる。その時まで、焦らずに生きればいい」
真琴は一徳の言葉を、一つ一つ心に刻んだ。
「一徳さん、わたし……わたし、まだ一徳さんと一緒にいたいです」
「わしもだよ。でも、別れは必ず来る。それが人生なんだ」
一徳は真琴の頭を優しく撫でた。
「でも、わしは君の中で生き続ける。わしが君に伝えたことは、君の一部になる。だから、わしは決して消えない」
「一徳さん……」
「泣かなくていい。これは悲しいことじゃないんだ。自然なことなんだよ」
◆
ある夜、一徳は真琴を庭に連れ出した。
満月だった。月の光が庭を照らし、桜の木が銀色に輝いていた。
「美しいね」
「はい……」
「真琴さん、わしは幸せだった」
一徳は空を見上げた。
「長い人生、色々なことがあった。喜びも悲しみも、成功も失敗も。でも、すべてが必要だったんだと今は思える」
「わたしにも……そう思える日が来るでしょうか?」
「来るよ。必ず来る」
一徳は真琴を見た。
「人生は、パズルなんだ。一つ一つのピースだけでは意味が分からない。でも、最後にすべてが組み合わさった時、美しい絵が見える」
「わたしの人生も、そうなるでしょうか?」
「もちろんだ。君の人生は、これから美しい絵になる。わしはそれを信じているよ」
二人は黙って月を見上げた。時間が止まったような、永遠のような瞬間だった。
◆
翌朝、一徳は静かに息を引き取った。
真琴が朝食を作っている間に、まるで眠るように。その顔は穏やかで、苦しみの痕は微塵もなかった。
真琴は声を上げて泣いた。
それはもちろん悲しみから来る涙だったが、深い感謝も含まれていた。
一徳がくれた時間。
一徳が教えてくれたこと。
一徳が示してくれた生き方。
すべてが、真琴の中に残っていた。
葬儀は小さいものだった。
寺の住職と、一徳の教え子だった数人だけ。真琴は喪主として、一徳を送った。
「一徳先生は、最後まで哲学者でした」
住職が言った。
「生き方そのものが、彼の哲学だった。そして、その哲学は、彼と出会った人たちの中で生き続けるでしょう」
真琴は頷いた。
そうだ、一徳さんは生き続ける。
わたしの中で、わたしと共に。
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