仮面のモノローグ
秋犬
ヰタ・セクスアリスの少年的原初
その日は天気のいい、澄んだ空の日だった。僕らは顧問と絵里先生の車に別れて乗車し、早朝から今回登る山を目指すはずだった。しかし僕らを乗せた後、忘れ物をしたと言って急遽絵里先生の自宅に向かうことになった。思いのほか絵里先生の家は大きく、お嬢様なんだろうなって思った。
忘れ物を持ってきた絵里先生は、もしトイレに行きたいならどうぞと言ってくれた。ちょっと興味もあったし、何よりトイレに行っておきたかった僕は絵里先生の自宅にお邪魔することにした。
お手洗いをお借りして玄関に向かう途中、玄関の隣の部屋から「先生、先生」という呻き声がした気がした。いけないことだと思ったが、もし中で人でも倒れていたら大変だ。僕はそっと部屋の扉を細く開いた。そして、扉を開けたことを後悔した。
部屋の中では、仮面をつけた全裸の男が四つん這いで呻いていた。
仮面と言っても、銀行強盗とかが身につけるような顔全体を覆うすっぽりしたもので、仮面の目の部分にはアイマスクが取り付けられていた。そして一瞬だけ見えたから定かではなかったけれど男は首輪をつけていて、その首輪は部屋のどこかに固定されているようだった。そして、男は僕には気がついていないようだった。
僕は一体何を見てしまったんだ。
僕は何も見なかったことにして、そっと扉を閉めると急いで玄関から出て絵里先生の車に飛び乗った。「それじゃあ行くよー」なんて呑気な声を出して絵里先生は車を発進させた。
きっと夢を見ていたに違いない。絵里先生の家に、あんないかがわしいモノが存在するなんて有り得ない。でも、あの男は確かに「先生」って呻いていた。もしかして先生って、絵里先生のことか?
恐ろしい妄想だけがどんどん膨らんでいく。
まさか、絵里先生が彼を監禁しているのだろうか? そしてあられもない姿で辱めをさせているところだったのではないか?
僕は運転席の絵里先生を見る。助手席に座っている部長と音楽の話で盛り上がっている。見るからに若い、ただの女の先生だ。髪はほんのり茶色くて、化粧っ気はないけれど元気いっぱいでちょっと背の低いところが男心としてはいいなあ、とか思ったり思わなかったりという可愛い感じの人というのが僕の印象だ。
そんな絵里先生が、自宅で男を監禁、飼育しているのか!?
いいや、そんなわけない。あの僕が見てしまった光景は何かの間違いで、本来の絵里先生はただのアウトドア好きの女の人のはずだ。まさか僕らにわからないように裏で男を虐待するような趣味を持っている、だなんて……。
僕はハッとした。もしかしたら、この平凡な絵里先生の顔こそが世の中で擬態しているに過ぎなくて、本来は変態男を虐待することが趣味の危ない女王様なのではないだろうか? 僕らとこうやって楽しく喋っていることも絵里先生からしたら社会に溶け込むための仮の姿で、心の中では何を考えているかわかったものではない。
もちろん考えすぎなのはわかっているが、方向指示器のカチカチという音や若い女の人の車にありがちな芳香剤の匂いが僕の判断力を惑わせる。いや、先生が変態だって決まったわけじゃない! それに、仮に先生が変態だとして一体僕に何の関わりがあるって言うんだ!?
『先生、先生』
ああ、耳からあの呻き声が離れない! 彼はあそこで一体何をやっていて、どんな気持ちで「先生」って口走ったんだろうか? ダメだ、これ以上考えるな。考えたって仕方の無いことを考えたって仕方ないだろ! あの男と絵里先生がどんな関係だろうとただの高校生の僕には関係ない! 関係ないことだ!
僕が一人で悶々としている間に車は山についた。もう山なんかどうでもいい。いや、山こそが人間の求めるものなんだ。僕は元から山が好きだったはずだ。自然こそが美しいんだ、今は自然の息吹を感じてさっき見たモノを忘れよう……。
そう言って忘れられるようなものではない。僕はその登山の間、空を見ても木を見てもあの男のことを思い出さずにはいられなかった。男は山に何故登る? そこに山があるからだろう。どうして谷を下る? そこに谷があるからだろう。どうして洞窟に潜る? そこに穴があるからだろう……。
こうして、僕の何かは激しく歪んでしまった。絵里先生みたいな人に罵倒されたい、いや、それ以上のことも……。生涯、あの男のことを忘れることはないだろう。これが僕の鮮烈な初体験だ。誰しもが社会生活を送る上で仮面を被っている。それを教えてくれたのは、絵里先生だった。
***
一泊の登山活動を終えて佐藤絵里が帰宅すると、兄が全裸で全頭マスク姿のまま自縛拘束から抜けられなくなってもがいているところだった。
「何やってんの、バカ!!」
佐藤絵里は首輪の南京錠を解除してやった後、全裸の兄を思いきり蹴飛ばした。
〈了〉
仮面のモノローグ 秋犬 @Anoni
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