クマと鉄

渡貫とゐち

第1話


 ぶるぶるぶる……、と、茂みの中で震えている少女がいた。

 童顔で小柄だが、もうお酒も飲める大学生である。彼女は記者だった――いいや、正確に言うならアマチュアの記者だ。見習いですらなく、見様見真似の志望者である。


 自分が書いた記事でちょっとネットでバズればいいな、フォロワーが増えれば御の字だ、と考えている甘い少女だった。

 彼女が首から下げているのは一眼レフカメラであり、胸ポケットには赤と黒の二本のボールペン。小さなメモ帳が差し込まれていた。


 ウエストポーチを肩に斜めがけした軽装だが……彼女は山の中にいた。


 この山には昔懐かしの、ファンが歓喜する鉄道が試験的に走っているらしいのだ。

 敷地内は解放されているわけではないので、もちろん入れば不法侵入となる……が、裏手にある金網の門戸は、確かに開いていた。

 金網をよじ登る必要がなく、楽勝だった、と喜んだのも束の間……彼女は自分の墓場がここであることを悟った。


 この場に入れてしまったのが運の尽きである。


 先んじて入っている、鉄道目的の撮り鉄の集団。彼らの不法侵入を咎めるよりも先に取材をして、鮮度が高いまま記事にしてしまえ、という思いから、自分を棚上げにしているのだが……山の中に入ってみれば、当然、鉄道が走っている。同時にクマもいたけど。


 そう、大きなクマがいたのだ。


 山なのだからそりゃいるだろうけど……いやしかし、鉄道が試験的に走る敷地内にクマって、いるの??


 ばったり、と出会ってしまった彼女――安原やすはらちあきは、気配を消して茂みの中へ飛び込んだ。そのまま這って距離を取り…………


 だが、クマは匂いを辿って追えるだろう。時間が経って(本当に経っているのか……長く感じるだけで実は数分かもしれない)、近くの別の茂みが、ガサガサ、と動いた。


 出てきたのは、のそのそと動きながらもずっしりとした重さと力強さを持つクマだった。


 クマが四つん這いで歩いている。


 草木の間からクマを覗き、様子を窺うと……「え、」


 クマの口元には赤い…………血、だろうか。

 が、付着している。


 意味深に。


「…………嘘、撮り鉄、食べられたの……!?」


 先に入っているであろう撮り鉄が、食べられた、もしくは命まではいかないまでも、齧られてしまった、という可能性は充分にあった。

 どっちにしろ、人の味を覚えたクマはそれ以外を欲しがらなくなると言うし、山の中で満足できずに人里まで下りてくる可能性が高いらしい……だからこそ、クマは狩猟者によって殺されているのだ。


 目の前で見たからこそ分かる大きな脅威。あれを野放しにはできない……。ニュースを見ているだけだと、以前までのちあきも「さすがに殺さなくてもいいのに……」と思っていた。

 のだが、こうして目の当たりにすると、手のひら返しで言ってしまう――早く殺して! と。


 こっちが殺される前に、早く!


「…………っ」


 クマが、隠れているちあきを嗅ぎ取ったような動きをした。

 四つん這いから二足歩行となり、首を伸ばして周囲を探る。茂みの中の肉の匂いに気づいたか……それとも女子の匂いを嗅ぎ取った……??


 ――――その時だった。


 鉄道の、警笛、が、高く響いた。その音にクマが驚き、重たい体をずしんと四つん這いで受け止めて、別の茂みの中へ戻っていった。


 ……よかった。

 同時に、鉄道が走っている線路の方角が分かったので、おそるおそる、ちあきも動く。


 ゆっくりと、時間をかけて…………クマが一頭だけとも限らないのだから。



 腰までの高さの柵の向こうに見える鉄道。試験的に走っている姿は、実に数十年ぶりらしい。

 この車両が走っているところを現代で撮影できるなんて……、という思いなのだろう。撮り鉄からすれば。それくらいには盛り上がっている。


 すぐ傍にはクマがいるかもしれないのに。


 ……クマよりも鉄道か。

 好きで言えば鉄道だろうけど、危険度で言えばクマを優先するべき……はずだが。


 カシャ、というシャッター音が遠くにいても聞こえてくる。ちあきは、見える目の前の黒い集団に近づいていった。

 今は、撮り鉄であってもクマを前にすれば頼りになる男の子たちだ。


 彼らは高そうなカメラを構えていた。こちらへ向かってくる鉄道を撮影するため、なのは分かるが……一緒にいるということは仲間、なのでは?

 仲間内でさっきから喧嘩をしている。罵詈雑言は味方同士でも飛び交うようで。


「邪魔だよどけよぉ!」「あーもう早く走れよ、下手くそ!」と、運転士にまで罵声を浴びせていた。写真のために。

 たかが、と言うには、ちあきはまだなにも知らないので口には出さなかったが。


 吐き出される罵詈雑言は、結局だれに向けて言っているの? と気になるが……ちあきは集団にそっと近づいた。


 鉄道が走り去って、撮影を終えたところで、集団のリーダー? っぽい人に声をかける。細長い男の子だった。と言っても、たぶん大学生くらいだろう。


「あのー……、撮り鉄のみなさんの取材って、できたりします?」


「? おたくは新聞記者の人ですか?」


「いえ、記者志望なだけで……わたしはアマチュアです。この試験場と、撮り鉄のみなさんのことを取材したくてやってきまして――」


「ほお、我々のことを? こんな遠くまでわざわざ……しかし、どうせ悪く書くのでしょうね? また撮り鉄の迷惑行為! という見出しで」


「……そう露骨にしませんけど……ただ、不法侵入であることを自覚していますか?」


「扉が開いているのが悪い、とは思いませんか、記者さん」


 あれでは誘われているようでした、と撮り鉄が言うけれど……。


 だとしても許可がなければ入るべきではない。それは撮り鉄たちも自覚があるようだった。だけど写真のためならば――不法侵入もできてしまう。


 そして、誘われているようだった、と感じたのは正解だ。だって実際、誘っているのだから。試験場の管理者はわざと扉を開けて撮り鉄を誘っている。許可を出してはいなくとも、撮影はご自由に、という――合図とも言えた。


 まあ、表向きは一切、誘っていないと言い張るだろうけど。


「……きっと誘われてないですよ」


「でしょうね。ですが、注意も受けていないのです。そこら中に監視カメラがあるでしょう? なのに、なぜ、管理者はなにも言わないのでしょうか。これはある意味、許可が取れていると言っても過言ではないでしょうね」


 過言だろう。

 ただ……彼の言い分にも一理ある。


 ダメなら早々に注意するべきだろう。

 試験中の運転士だって、撮り鉄たちを見ているはずなのだから。


 情報伝達ができていない、わけがない。


 もちろん、分かった上で見逃している可能性も……もしくは既に通報されている、とか……。

 注意を受けていないだけで一発逮捕もあり得るだろう。


 正直、ちあきも危ない橋を渡っている。


 撮り鉄ではないけど、無関係です、とは言いづらい状況だ。


 このまま捕まるくらいなら……せめて収穫は欲しい。

 そんなわけで、取材だけはなんとしてでも成功させたい。


「取材、いいですか?」


「ええ、構いませんが。あ、ちょっと待ってください――」


 撮り鉄が山の方へ視線を向けた。

 茂みが、ガサゴソ、と動き――さっきの大きなクマが姿を見せた。


「え、……――ひぃ!?」


「まーたきましたか……人の味を覚えたから、と言っても、素直にこっちが差し出すとは限らないわけですが……。山へ戻りなさい、お嬢さん」


「え、メスですか!?」


「あなたも混乱していますね、記者さん。この状況で気になる部分ですか、それ」


 クマを目前にして、撮り鉄がカメラを構えた。

 まるで鉄道を撮るように、カシャ、とシャッターを切る。


 ……それになんの意味が?


「なんで撮ったんです!?」


「この試験場に通っている内に、クマを撮影するのも好きになりましてね……それでも、鉄道ほどに熱中するわけではありませんが。我々も、殺処分するほど悪いことをしたわけではない、と思っているタイプです。まあ、かと言ってこの子を飼います、とは言えませんので、殺されるべきクマを救うことはできないわけですね」


 動物保護、という観点からではまったく期待できない人であった。


 ――ひとりだけでなく、やってきた撮り鉄たちはみながクマを好きになっている。まあ、選ばれた人たちとも言えるだろう。クマに怯えた撮り鉄は、この場所までこれないのだから。


 鉄道よりも命。それが当然の反応であり、この場にいる撮り鉄こそ、頭のネジがいくつか外れてしまっているのだ。


 命よりも鉄道を選んだ者たちが、ここにいる。


「で、でもクマっ、襲いかかってきますよねえ!?」


「クマからすればじゃれ合っているだけでしょうけどね。相手は凶暴な生物……ですが、しかし、陸上なら我々だって負けませんよ」


 彼が時刻を確認した。

 次に走る鉄道のため、クマと遊ぶにも制限時間がある。


 前衛にいた撮り鉄が振り向いて、彼に声をかけた。


「大将、二分で終わらせてください」


「任せてください。クマを殺さず、手懐けてみせましょう……おかげで文句も言われずに鉄道が撮れるわけですからね。クマという撮影チケットなわけですよ」


 彼はカメラを置いて、細いハチマキを頭に巻いた。

 結んだ先が長いので、まるで長髪のようにハチマキがなびいている。……撮り鉄だけど、なにかしらの格闘技でもやっていたのだろうか? そんな雰囲気がある。


 彼が、クマの前へ。

 これ以上は進ませない、と立ち塞がった。


「もしかして……すっごい強い人ですか?」


「まったく。なんの技術もありませんよ」


 不安なセリフだった……しかし。


「ですけど、鉄道のためならば火事場の馬鹿力が出せますよ――実際、それで数頭のクマを退治していますからね。強さを知っているクマは、我々に歯向かってきません……邪魔をするならクマであっても容赦をしませんと、我々は拳で語っていますから」


 構えた男に反応したようで、クマが吠えた。

 同時に、撮り鉄が歩き出す。


「取材ならどうぞ、記者さん。ただし、あなたのことを守れるかどうかは分かりませんが」


 そして、クマへ突撃した撮り鉄――、体格差があるクマとの取っ組み合いが始まり――


 二分も経たず、クマが倒れた。


 脳が揺さぶられただけだ……だから死んではいないだろう。


「……ふう、なかなか手強い相手でした」


「大将、そろそろきますよ――カメラの用意を」


「なに!? もうか! ……早くカメラを! く、――血で前が見えん!!」


 彼は血だらけになりながら――

 額から出た血が視界を覆いながらも、構えたカメラで、パシャ、と撮影する。


 走る鉄道を、時間を切り取り、小さな箱に収めたのだった。



「……あのー、良い写真は、撮れました?」


「もちろん! 見ますか!?」


 複数枚の写真を見せられた。どれも違う鉄道なのだが……、違いは?


 知らない側からすれば、全部が一緒の鉄道に見える。

 細部の色は異なっているが……それだけだ。分からない。


 命懸けで戦い、これを撮影した気持ちが、ちあきには分からなかった。


 だが……、人の趣味なんて、よそから見ればどれもそんなものだろう。





 ・・・おわり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

クマと鉄 渡貫とゐち @josho

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説