雨宿り

夔之宮 師走

雨宿り

 能に『玄象げんじょう』という曲がある。このように書くと流派がわかる。


 この曲は藤原師長もろながという男に主眼がある。この男、号を妙音院太相国、かの源博雅と並び賞される平安時代の大音楽家である。

 師長は箏や琵琶といった楽器の名手というだけでなく、当時の音楽のあらゆる分野に精通していたそうだ。


 この男が音楽を志して南宋に向おうとする。国内では比類なきという思いが故である。この道中、摂津国、須磨の浦で老夫婦と出会い宿を借りるのだが、そこで老夫婦の頼みから琵琶を奏でる。

 急な雨が降り、師長が演奏を止めてしまうと、老夫婦が板屋にとまく。苫とはすげかやなどを粗く編んだむしろのことで、雨露をしのぐのに用いられる。


 ここのやり取りがふるっている。


 師長が「あるじよ。どうして雨漏りもしていないのに苫を葺いたか」と問うと、主が「今、弾かれた琵琶の調子は黄鐘おうしきでありましたな。板屋を叩く雨の音は盤渉ばんしき。故に苫で板屋を葺き、調子を揃えました」と答えるのだ。

 この対応に師長が驚き、さてはと老夫婦に演奏を頼むと、老翁と姥はそれぞれ琵琶と琴で『越天楽えてんらく』を合奏する。これが師長の想像を超えるものであった。師長は、国内に比類なきなどと考えていた自分を顧み、結果、中国へ渡るのを思い留まる。そして、この老夫婦は、実は村上天皇と梨壺女御の霊で……、として後場に繋がるのである。


 後場は村上天皇が舞を舞うという典型的な能の展開となり、まぁ、それはそれというところだ。

 興味深いのは、後場で村上天皇が龍神に琵琶の名器を持って来るように指示するのだが、その琵琶は竜宮にあるとされる「獅子丸」なのである。「玄象」はどこへいった。

 また、「玄象」は、一般的には「絃上」と同じと解されているが、「玄象」と「絃上」は別物という説もある。この辺については、エンタテインメントに対して求めるのは酷だろう。俺はそんなことを考えながら、庭側の掃き出し窓を開け放ち、雨音を聞きながら床に座っている。


 事の発端は一か月ほど前に遡る。


 俺の家は池袋の隣となる要町駅からも椎名町駅からもそれなりに歩く住宅街の片隅にある。メゾネットタイプの住宅で、壁を隔てて大家が住んでいる。

 当時付き合っていた彼女と結婚するつもりで引っ越したのだが、どうも俺の勇み足だったようだ。結婚は流れてしまい、俺にとっては無駄に広い家との契約だけが残った。ありがたいことに大家が商売する気がない上に、勤務先の金払いが良いので、なんとか生活が成り立っている。


 その日は朝から雨だった。年々梅雨が短くなり、夏の期間が長くなっている。夏が終わったかと思ったら急に冷え込み、雨の日が増えた。

 仕事が終わって帰宅すると部屋は蒸し暑かった。庭側の窓を開ける。蚊取り線香を焚き、庭を眺めた。狭い庭だが、梅の木が植えてあり、俺はなかなかに気に入っている。


 タバコに火をつけ一吸いしたところで、足元にいる黒い何かに気が付いた。


 おおよそ子猫ぐらいのサイズだろうか。雨に濡れているようだが光沢は無く、俺の視線を吞み込んでいるかのような黒色をしている。

 俺の知っている猫に足が七本あるものはいない。頭と思われる場所には何もなく、身体の横に二つ、三つと目があるのが見えた。寒さに震え、怯えているように見える。背中と思われる場所には長い切れ目のようなものがあり、その周辺だけ毛が薄かった。


 その黒い何かは、手なのか足なのかわからない黒い何かを俺の方に伸ばしてきた。俺は可哀そうになり手を伸ばすと、黒い何かの先が花のように割れ、やけに紅い色が印象に残っている触手のようなものを幾本も伸ばし、俺の指に絡みつかせてきた。

 微かに脈打っているなと感じた刹那、指に周りに幾つもの痛みが走った。採血の際に針が刺さった時のような感触。痛みの元を見ると、黒い何かが俺の指に中に入り込み、第二関節、第三関節と這い進んでいるのが見えた。

 驚いて手を引くと、指の中からずるりと糸のようなものが引き出されていく。昔、親知らずを抜いた後に抜糸した時の事を思い出した。


 黒い何かは「ヌ゛ヴォおあ……」や「プぉ……ぐィ……う゛」といった声を出しながら蠢いている。少し様子を見ていると、背中の切れ目がぱっくりと開き、白く綺麗な歯が並んでいるのが見えた。姪っ子のような歯並びである。その隙間から紅くぬらぬらと光った長い舌のように見えるものが伸びてきて、急に力を失いだらりと垂れさがった。

 腹が空いているんだろうか。台所から昨日の残り物の煮物の入った器を持ってくる。温めた方がいいかなぁ。などと思っていたら、長い舌と紅く細い何本もの触手が器に絡みつき、いつの間にか煮物をすっかり食べてしまった。

 俺は古くなったタオルを引っ張り出し、この黒いものの上にかけてやった。


 翌日は晴天だった。庭のタオルをめくってみると何もいなかった。


 暫く晴れが続いていたが、その日は夕方から強い雨が降り始めた。帰宅早々に庭を見に行くと、先日見たような黒い何かがいた。今日は二匹いる。

 先日のように雨に濡れて震えており、「い゛ぃ……ゴぅ……」や「ズぁぷ……しゅグゥ」などと鳴き声を上げている。

 俺は用意しておいた猫用の餌の缶詰を取り出し、器に盛って置いてやった。二匹の身体の横についてる目はどれも楽し気に見えた。


 その後、雨の度にこの黒いものたちが雨宿りに訪れるようになった。回を重ねるごとに増え、軒下には収まりきらない数となりつつあった。

 俺はその日、思わず「入るかい」と声をかけてしまった。


 晴れの日は何もないが、雨の日となると部屋だけでなく、風呂やトイレ、洗面所などが黒いものたちに覆いつくされている。壁のいたるところに目や口があり、ぎょろりぎょろりと動く目の横で、「い゛ぃ……プぉ…………う゛」などと声が上がる。黒い壁や床、天井を紅の触手がうねうねと這い回っており、鼓動のように脈打っている。部屋の片隅には何かねばねばとした半透明の液体が湧いてきており、拭いても拭いてもなくならない。


 俺は雨の日には家の中にいる場所がなく、こうして窓から外を眺めている。タバコに火をつけると、部屋の中から紅い触手が伸び、俺の指先の煙草を消し飛ばした。


 嫌煙家なのだ。こいつらは。同居というのはなかなか難しい。

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