戸閉蜘蛛

夔之宮 師走

トタテグモ

 俺の勤務先の近所にほどほどの広さの公園がある。


 池袋駅からそう遠くない場所にも関わらずけやきの大木が生い茂っており、石畳の広場がある。ブランコや滑り台などの遊具やちょっとしたアスレチックがあり、日中に通りかかると親子連れだけでなく近所の保育園の子供たちが声をあげて遊んでいる。大変微笑ましい。


 昼時となると周辺で働いている社会人や学生がお昼を食べたり談笑したりしている。最近は動画配信をしている人も見かけるようになった。


 夕方になるとだんだんと雰囲気が変わってくる。どうも公園の近くに劇場があるようで、よく芸人と思われる連中が稽古や準備をしているが、面白そうだから行ってみようかと思ったことは残念ながらない。


 夜になると公園は様相を一変させる。学生のカップルが愛を語り合ったり、それより先の行為に及んでいることなどもある。けしからんことだ。

 近所の大学や専門学校の学生が車座になって酒を飲んで騒いでいることも少なくない。特に花見の時期は駄目だ。ろくな連中がいない。


 深夜についてはわざわざ語る必要もないだろう。


 公園の目の前には税務署があり、確定申告の時期には多くの人が訪れ、タイミング次第では長蛇の列ができる。俺は税務署に用があるような人間ではないが、実家のごたごたで土地を相続することとなった際、面倒に思いながら申告に行ったことが一度だけある。

 書類の提出などを終えて外に出ると、職員と言い争いをしている老境に差し掛かった男性がいた。周囲の人間に当たり散らし、「警察を呼べよ」などとわめいていたが、その後、警官がやってくるとおとなしく従っていた。


 俺の働く会社はいわゆる零細企業で、長らく俺が一人で営業をやっていたのだが、最近、中井という歳の随分離れた後輩ができた。

 仕事は堅実だが内向的で地味な印象の女性で営業に向いているのかと心配になったが、客先では、はきはきと話し、社内にいる時には想像がつかないくらい華やかな雰囲気でコミュニケーションを取っている。そんなにできるなら社内でもやってくれれば良いのになどと思いつつも、俺の仕事が目に見えて軽減され心底助かっている。


 営業の行き帰りや昼食の時などに件の公園を通るのだが、それなりの頻度でつまずく場所がある。


 若い頃にはなかったが、不惑を超えたあたりから、やたらと躓いたり物を落としたりといったことが増えた。こういうのを老化と言うのだろう。

 先日は訪問先でWi-Fiに繋がせてもらおうとしたら、端末に表示されたパスワードが読めなかった。中井が気を利かせて横で読み上げてくれたが、これでは最早介護の範疇であろう。情けないことである。


 その日も俺は何でもない場所で躓き、転びそうになった。中井は相変わらず愛想はないが、一応は「大丈夫ですか」と気遣ってくれる。


 石畳を改めてよく見ると、一つ二つと石が浮き上がっている箇所があった。ははぁこれかと思い近づいてみると、石畳の隙間から蛸のような黒くて細長く、ぬらぬらと光沢のある何かが幾本も伸びているのが見えた。


 隣の中井に「これなんだろうね」と問いかけると、「何もありませんよ」と返された。物が見えなくなるどころか、無いものが見えるようにでもなってきたのだろうか。興味に逆らえず石畳に近づく。


 触手のような黒いそれは、うねうねと動いた後、俺に気がついたかのように石畳の隙間に消えた。相変わらずその辺りには段差がある。


 しゃがみ込んで石畳を押してみると、微かにぶよぶよとした感触が指に伝わってきた。水でも溜まっているのか、何かがいるのかなと考えながら境目に右手を伸ばした刹那。俺の人差し指の第二関節から先が


 俺はおそらく呆けたような顔をしていただろう。磨かれたように綺麗な断面には指の骨とその周辺を囲む筋肉の円が見えた。一瞬の後、血が噴き出す。

 俺の鼓動に合わせて規則正しく血が噴き出す様を、俺は相変わらず馬鹿のように眺めていた。


 中井が俺の指の断面を見て「綺麗ですね」と言った。その顔に指から噴き出た血が飛ぶ。俺はなんだか急に申し訳ない気持ちになり、「ごめん」と謝った。


 その時、想像を超える痛みがやってきた。学のない俺には適切な言葉が見つからないが、痛みなのか熱さなのかわからない何かが指の断面に感じられるだけでなく、繋がっていないはずの指先が知覚され、鈍器で何度も殴られているかのように、ずくずくとした痛みが俺の脳を何度も突き刺してくる。両目から涙が止まない。視界がぼやける。


「あ、良かったですね」

 中井は地面に落ちていた俺の指を拾い上げた。それと同時に、俺の左手を右わきの下に誘いつつ、「押さえて」と耳元で言う。中井の髪から微かな花の香りがした。

「ちょっと待っててください」

 そう言うと、中井は何処かに行ってしまった。俺はどうしていいかわからず、ただ言われるがままに脇の下を抑え、流れる血が少し減ったなぁなどと思っていたところ、急にぐらりと膝が抜け、その場に倒れ込んだ。失血が原因というよりもショックが大きかったように思う。


 倒れ込んだ俺の目の前には、ちょうど浮き上がった石畳があり、その隙間から俺を見る小さな眼が見えた。目の横には人間のような歯が並んだ口も見える。白く、歯並びが良かった。


 後で聞いた話だが、中井はコンビニに走りながら救急車を呼んでくれていたらしい。すぐに氷の中で冷やしてくれていたおかげで指も繋がった。愛想が無いなどと思っていて悪かった。今後中井に足を向けて寝られない。何処に住んでいるかは知らないのだが、素直にそう思った。


 誰にも言っていないことがある。倒れ込んでしまい、目の前に見えた小さな目と口。子供のように甲高いが、今にも死にそうな老人のようにがさついた声が言っていた。


「指は好かん」

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戸閉蜘蛛 夔之宮 師走 @ki_no_miya

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