能面の記憶

志乃亜サク

能面の記憶

 たぶん市民ホールだったと思う。

 たぶんその時の僕は小学校に入学する前で、たぶん客席で母親の膝に座っていたのだと思う。全部が「たぶん」。それくらい昔の話だ。


 舞台中央。大鼓小鼓おおづつみこづつみが乱れ打たれるなか、小面こおもての白拍子が一心に舞っていた。


 ずいぶん後になってから知ったことだけど、それは「道成寺」という演目だったようだ。

 かつて嫉妬のあまり愛する若い僧を呪い殺した清姫の怨霊が白拍子の姿を借りて再び道成寺を訪れ、成仏するまでの話。


 母がどうして幼い僕をそこへ連れて行ったのか、今ではもうわからない。

 その母によれば、その日僕は開演前からずっと怖い怖いと言ってぐずっていたそうだ。

 それは当然だろう。その歳の子供に能がわかるはずもない。


 暗闇に舞台だけが茫と浮かび上がり、能面を着けたシテ方が袖からゆっくり、ゆっくりと中央に向けて歩みを進めてくる。囃子はやし方と狂言方の合間にはスッ、ススッという衣擦れの音だけが妙に近く首筋のあたりを這いまわる。そして昔言葉の台詞廻し。子供が楽しめるはずもない。


 ところが、母が思い出し笑いと共に言うには。物語の山場あたりになると、いつの間にか僕は泣くのを止めてじっと舞台を見入っていたのだそうだ。その様子に「あれ、この子は話を分かってるよ」と言って同行したみんなで笑い合ったのだという。

 

 たぶん僕にある道成寺の断片的な記憶はその場面のものなのだろう。

 無論、泣き止んだのは話を分かっていたからではなく、不穏な囃子と詞章に緊張していただけなのだろう。


 ただ、まったく何も理解していなかったかと問われれば、そうでもない。

 乱拍子に入る刹那、扇が翻って静から動へと移り変わるその瞬間。烏帽子も緋袴も金糸銀糸の水干もすべて消え失せ、表情のない能面のみが舞台をゆらゆらと漂うその怖気おぞけを催すような美しさに、僕はたしかに心を奪われていたのだ。

 もっとも、それをこうして言語化できるのも今だからこそで、やはりその時はただただその美しいあやかしに見初められぬよう、その所作から目を離さぬよう、息をするのさえ忘れて、注意深く身体を強張らせていただけなのかもしれない。


 やがて、清姫を覆った釣鐘がゆっくりと持ち上がる。

 その中から、般若の面を被った蛇体の怨霊がゆっくりと立ち上がる。


 僕の記憶は、ここまでだ。





 そんな昔の記憶を、どうして何年も経った今の今まで覚えているのか。


 それは僕が今でも女性の何気ない表情や所作にどこかあの日の白拍子の影を見て、重ねてしまうためだ。

 いや、案外、無意識に自分から探しているのかもしれない。

 ふとした折にゆらり立ち昇る、あの日の能面。

 僕は今でも、その美しさに見惚れながら、同じ位その情念の炎に慄いているのだ。

 まったく厄介なものに取り憑かれたと思う。


 

 こんなことがあった。

 

 車をインター近くのホテルに入れる。

 助手席では、当時付き合っていた彼女が車窓からぼんやりと外を眺めていた。

 

 夕方に会って、食事して、ホテルに入って、身体を重ねる。これだけ。

 それが僕たちの週末のルーチンだった。

 

 はじめからそうだったわけじゃない。

 映画を観て、水族館へ行き、たまに旅行へ行く……そんな「普通の」恋人同士のような時期もあった。


 ただ離れて暮らすようになり、生活リズムも仕事や将来に対する考え方も少しずつずれていった。

 心の隙間を感じていることも、互いに分かっていた。

 しかし同時に、まだ相手への愛情が失われたわけではないことも互いに分かっていた。できればまたあの頃のように戻りたいと思っていることも。

 だからこそ、僕たちはそれを確かめるように週末、身体を重ねていたのだ。


 そんな歪な関係が、あるときこんなものを生み出した。


 ローリング・サルティン・バンコ(R.S.B)

 僕が考え、そう名付けたオリジナル体位だ。


 その名を聞いてのけぞる彼女。まあ、そうだろう。

 しかしすぐに思い直して、彼女は静かに、しっかりと頷いた。

 今のふたりにはこれまでとは違う何かが、新しい試みが必要だという事を、おそらく彼女自身も理解していたのだろう。


 緊張した表情でベッドに横たわる彼女。

 見慣れたはずの白い肌にはほんのりと紅が差して、なだらかな丘がいつも以上に艶めいて見えたのは、光の加減のせいだけではないだろう。


 ローリング・サルティン・バンコ(R.S.B)

 その愛の組体操は、離れゆくふたりの心と体を繋ぎ留めるものになる……はずだった。


 激しく重なり合い、回転する二人の影。

 一回転……二回転……三回転。世界が回る。

 しかし、その時だった。


 突然、絡めた手と手が離れ、弾けるように分かれるふたつの身体。 

 僕は枕側の壁に背中を強く打ち付けた。

 一方で、遠心力のかかった彼女はそのまま光沢あるシーツの上をシャーッと滑りベッドの足側から転落して見えなくなった。落下の際の「ボリショイ!」という声だけが、乾いた部屋に空しく響いた。

  

 いったい何が起こったのか、僕にはわからなかった。

 間違えたのは回転速度か、思いやる心ローションの分量か。

 確かなことは、ああ、僕たちはまた失敗したんだ――という胸の痛みだけだった。


 僕は彼女の名を呼んだ。返事はなく、スッと立ち上がる彼女。

 良かった、怪我はないようだ。


 しかし、振り向いた彼女の表情に僕は息を呑んだ。

 悲哀、憤怒、諦観……様々な感情を絡み合わせたその顔には、あの日の美しい能面が重なって見えた。


 オー、ハンニャ……!


 僕は思わず呟いた。はじめて能を鑑賞した外国人観光ツアー客のように。

 


<了>

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能面の記憶 志乃亜サク @gophe

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