最終話 白波への帰還
橘浩一が法廷での証言を拒否した翌日、事態は一気に動いた。
大手新聞社とテレビの報道番組は、この裁判を「内部告発者vs巨大企業と政治家の不正」という、センセーショナルな構図で大々的に報じた。
特に、遼がすべてを失う覚悟で公開した裏金授受の証拠、そして橘の証言拒否という事実は、世論に決定的な影響を与えた。世間の焦点は、遼が機密を漏洩したかどうかではなく、会社のトップが地方の政治家と組んで汚職を行っていたという、企業倫理の根幹に関わる問題へと集中した。
朝、遼がテレビをつけると、彼の顔写真と共に、大和による漁港での告発シーンや、白波町の美しい海の映像が流れていた。
「高瀬遼氏の行動は、単なる機密漏洩ではなかった。それは、一地方の町民の未来を、金と権力で売り渡そうとした、巨大企業の不正に対する、命懸けの抵抗であったと言えます。彼が懲戒解雇という厳しい罰を受ける一方で、その告発によって、元事業部長の橘氏が自ら証言を拒否した事実は、不正の根拠を裏付けています」
ネット上でも、遼に対する評価は一変していた。当初は「裏切り者」「復讐鬼」といった誹謗中傷が多かったが、今は「真の英雄」「公益の通報者」として称賛の声が溢れていた。白波町の住民たちが自発的に集めた「未来を誓う会」の支援金のニュースも報じられ、遼と故郷の強い絆が、世間の感動を呼んでいた。
マンスリーマンションの部屋にいる遼のもとには、朝から沢村弁護士からの電話が鳴りやまなかった。
「高瀬さん、状況は完全にこちらに傾いています。世論はあなたを全面的に支持しています。これ以上の裁判の続行は、会社にとって致命的なリスクです。企業の社会的信用は、既に底を打っている状態です」
「橘側は、何か動きを見せていますか?」遼は冷静に尋ねた。
「ええ。橘氏は謹慎中ですが、会社の上層部は、このスキャンダルを早く収束させるため、焦り始めています。不正が法廷で正式に認定されれば、株価への影響は計り知れません」
沢村は続けた。「恐らく、会社側は近いうちに、和解を申し入れてくるでしょう。彼らが望むのは、不正の事実を法廷記録に残さないことと、世論の火消しです。
そして、これは我々にとっても、最も現実的で、確実な勝利への道です」
遼は、窓の外の東京の冷たいビル群を見つめた。彼は、この巨大な企業と政治家の不正の構造に、一人の人間として立ち向かい、勝利したのだ。法廷闘争は、彼個人の名誉回復だけでなく、地方の小さな町の尊厳を守る戦いとして、世間に深く刻まれた。
残るは、この長く苦しい戦いに、どのように幕引きをするか。遼は、すべてを捨てた自分自身の未来を決める、最終決断の時が迫っていることを悟った。
---
世論が遼を擁護する報道で沸騰し、橘の証言拒否が不正の決定的な証拠として受け止められた数日後、遼の弁護士である沢村和人から、緊急の連絡が入った。
「高瀬さん、会社側から和解の申し入れがありました」
沢村の事務所で、遼は資料を広げた。会社側が提案してきた和解の条件は、彼がすべてを失う覚悟を決めた時から想像していたものよりも、遥かに有利な内容だった。
「会社側は、あなたへの数億円に及ぶ損害賠償請求をすべて取り下げ、和解金は発生させない形で、速やかに訴訟を終結させたいとしています」
遼は、思わず息を吐いた。数億円の賠償請求という、彼を一生涯苦しめるはずだった重圧が、一瞬にして取り払われる。
「和解金なし、ですか。彼らは、私に一切の金銭的な利益を与えず、不正の事実を法廷記録に残さないことを優先したわけですね」
「その通りです」沢村は頷いた。「彼らの最大の目的は、企業の社会的信用を守ること。この裁判を続行すれば、不正の証拠は法廷でさらに深く追及され、会社全体の経営危機に繋がりかねません。和解によって、彼らは法廷での不正の『認定』を回避したいのです」
和解提案の最も重要な点は、橘浩一の処遇だった。
「和解の交換条件として、我々弁護団は、橘浩一氏の正式な懲戒解雇を求めました。彼は謹慎中でしたが、会社はこれを受け入れ、彼が不正行為の責任者であったことを間接的に認める形になります」
遼の顔に、静かな勝利の確信が広がった。彼が求めていたのは、金銭的な利益ではない。自分の行動の正当性の証明と、不正を行った者への罰だった。
「つまり、私は、潔白を証明し、不正を行った者に責任を取らせるという、二つの目的を達成できるわけですね」
「ええ。訴訟で勝訴を勝ち取るには、さらに一年以上の時間と、多額の費用が必要です。しかし、この和解であれば、あなたは直ちに訴訟の重圧から解放され、橘氏は正式に会社を追放される。これは、実質的な勝利です」
遼は、遠い白波町の海を思い浮かべた。彼は、成功者としての地位を捨てることで、故郷を救い、そして、東京の権力構造の中で正義を証明した。
「分かりました、沢村さん。この和解を受け入れます」遼は力強く言った。「私が東京で得たものは、すべて失いましたが、故郷の絆は守り抜き、不正は正された。この結果が、白波町の住民に対する、私の最大の報告になります」
遼は、数億円の賠償請求という鎖から解放され、同時に、自らを追い詰めた橘の追放という明確な区切りをつけた。彼の孤独な戦いは、ここ東京の冷たい場所で、和解という名の完全勝利を収めたのだった。
---
会社側からの和解提案を受け、遼と沢村弁護士は、最終的な合意文書の確認を終えていた。裁判での形式的な勝利を追求するのではなく、実質的な正義を勝ち取るという、遼の決断だった。
「これで終わりですね、高瀬さん」沢村が言った。「訴訟はすべて取り下げられ、あなたは数億円の賠償請求から完全に解放されます。橘氏も正式に懲戒解雇となり、裏金と不正の責任者として企業の歴史に刻まれる。あなたは、すべてを失った代わりに、真実と社会的正義を勝ち取りました。」
遼は、合意書に署名した。
その瞬間、彼の肩から、この数ヶ月間背負い続けてきた重い鎖が外れたように感じた。
「ありがとうございます、沢村さん。私は、この結果に満足しています」
「そうですね。あなたは、自分の潔白を証明し、法廷闘争という厳しい戦いを生き抜いた。これからは、自由にあなたの人生を歩むことができます」
沢村は、少し逡巡した後、遼に尋ねた。
「高瀬さんのような優秀な頭脳を持つ方が、ここでキャリアを終わらせるのは惜しい。この経験を活かし、公益通報者の支援や、別の業界でのコンサルタントなど、道はいくらでもありますよ」
それは、遼の「合理的」なスキルを評価した、沢村からの真剣な提案だった。
遼は、静かに首を振った。
「ありがとうございます、沢村さん。ですが、もう、東京での『成功』を追い求めるつもりはありません。私は、この法廷闘争を通じて、自分の居場所を見つけました」
彼は、窓の外に広がる東京の無機質な風景を見つめた。この街で、彼は地位、富、そして成功者の仮面を得たが、最も大切なものを見失った。
「俺は、白波町へ帰ります」
沢村は驚きを隠せなかった。「白波町へ? あの訴訟と混乱の中心地へ、ですか?」
「ええ。訴訟は終わりましたが、町長が失脚した後の町政は混乱しているはずです。リゾート開発は阻止できましたが、町の未来をどうするかという、最も困難な問題が残っています」
遼の脳裏に浮かぶのは、故郷の海、そして岬大和の熱い瞳だ。
「俺は、東京で学んだ合理性と、故郷で取り戻した人間性の、両方を活かさなければならない。白波町は、単なる故郷ではありません。俺が人間として再生するための場所であり、俺の新しい人生の戦場です」
彼は、もはや「成功者」としてのプライドを必要としていなかった。彼が望むのは、大和や波瑠香と共に、故郷の未来を築くという、地道で困難な作業だった。
遼は立ち上がり、沢村に深く頭を下げた。
「私を信じ、共に戦ってくれて、感謝しています。あなたは、私の命の恩人です」
「いえ、高瀬さん。私は、あなたの正義を信じただけです。あなたの未来に、幸あれ」
合意文書は成立し、遼の長きにわたる法廷闘争は、ここに終止符を打った。彼は、懲戒解雇されたという事実は残るものの、社会的正義を勝ち取り、自由な身となった。
遼は、スーツケースを手に、東京の冷たいマンションを後にした。彼の足取りは、もはや恐怖に怯えるものではなく、新たな希望と使命感に満ちた、故郷への帰還を告げる確かな一歩だった。
---
和解文書に署名し、東京でのすべての戦いを終えた遼は、そのままマンスリーマンションに戻った。部屋には、数ヶ月分の裁判資料と、故郷へ持ち帰るためのスーツケースだけが残されていた。彼は、すぐにでも白波町へ向かいたかったが、まず、親友に報告する責務があった。
遼は、スーツケースの上に座り、慣れない番号へと電話をかけた。呼び出し音が長く続いた後、岬大和の、活気に満ちた声が響いた。
「もしもし、潮音館です!」
「大和か。俺だ、遼だ」
一瞬の沈黙の後、大和の声は一気に熱を帯びた。
「遼! お前、どうした!? 裁判はどうなったんだ? 会社側が何か仕掛けてきたのか?」
「落ち着け、大和」遼は笑った。「戦いは終わった。俺の完全勝利だ」
大和は受話器の向こうで、深く息を吐いた。「本当か……本当に、勝ったのか!」
「ああ。会社側が和解を申し入れてきた。俺への数億円の賠償請求はすべて取り下げられた。そして、橘浩一は正式に懲戒解雇だ。俺が要求した、すべての条件を奴らは飲んだ」
受話器の向こうから、波瑠香の歓喜の声と、大和の「やったぞ!」という叫び声が聞こえてきた。
「遼、お前……お前、本当にやったんだな!」大和の声は震えていた。「あの橘を、そしてあの巨大な会社を、お前一人でねじ伏せたのか!」
「一人じゃない。お前たちと、桐谷君、そして沢村弁護士、みんなの協力があったからだ」遼は、そう言ってから、すぐに本題に入った。「大和、俺はもう自由だ。これで、後ろを気にすることなく、お前たちに会える」
大和は、歓喜の声を上げて、受話器越しに遼を招き入れた。
「当たり前だろう! 裁判が終わったら、すぐに帰ってこいと約束したはずだ! お前がいなくなった後、町長が失脚して、町政は混乱している。開発阻止はしたが、次の未来をどうするか、誰も決められずにいるんだ」
「その通りだろうな」遼は、東京の戦場で培った理性と、故郷への愛を込めて言った。「俺がこの東京で手に入れたのは、敗北という名の自由と、不正を暴く知恵だ。そのすべてを、白波町の未来に注ぎ込むつもりだ」
「聞いているわ、遼くん!」波瑠香の声が受話器越しに響く。「無事に戻ってきてくれるだけで十分よ。でも、もしあなたが、本当にこの町を立て直す気なら……私たちは、もう二度とあなたを裏切らない。町の未来を、もう一度、一緒に誓おう」
遼の目頭が熱くなった。彼がこの孤独な戦いを耐え抜いた理由が、すべてこの電話の中にある。
「ああ、波瑠香。ありがとう」
「で、いつ帰ってくるんだ?」大和が興奮した声で尋ねた。
遼は、東京の冷たいマンションの窓から、故郷への帰路を思い描いた。
「今から、荷物をまとめる。新幹線で、明日の昼過ぎには着くはずだ。潮音館で待っていてくれ」
「わかった! 町中の奴らに知らせておく! 英雄の凱旋だ!」
「英雄なんかじゃない。ただの一介の住民として迎えてくれ」遼は笑った。
電話を切った遼の顔には、もう迷いはなかった。彼は、成功者としてのキャリアを終え、人間として、そして故郷の住人としての新しい人生を、今、始めようとしていた。彼の帰還は、白波町の新しい夜明けを告げる、運命の一歩となる。
---
東京での戦いを終えた翌日、高瀬遼は新幹線に乗り込んだ。都会の喧騒と冷たい空気は、遠ざかるにつれて過去の遺物となり、
彼の心は、故郷へと向かうにつれて軽くなっていった。彼は、スーツケースの中に、数億円の賠償請求という鎖を置き去りにし、自由だけを携えていた。
昼過ぎ、新幹線は、白波町の最寄り駅に到着した。列車を降りた瞬間、潮の香りが彼の全身を包み込んだ。東京の排気ガスとは違う、命の根源を感じさせる匂いだった。
改札を出ると、三人の姿が彼を待っていた。
岬大和、波瑠香、そして桐谷友里だ。
大和は、白いTシャツに漁師らしい無骨なジャケットを羽織り、少し日焼けした顔に、満面の笑顔を浮かべていた。波瑠香は、落ち着いた色合いのワンピース姿で、その瞳は喜びと安堵に満ちている。友里は、以前の怯えた新入社員の面影はなく、凜とした表情で、確固たる共闘者のオーラを放っていた。
遼は、スーツケースを放り出し、駆け寄った。
「遼!」大和が最初に声を上げ、力強い抱擁を交わした。その肩の感触は、東京での孤独な日々を吹き飛ばす、温かい友情の証しだった。
「ただいま、大和」
「よくぞ無事で帰ってきてくれた」大和は、遼の背中を何度も叩いた。「お前は、この町の真の英雄だ。訴訟に勝って、橘を潰したんだからな!」
次に、波瑠香が遼を抱きしめた。その抱擁は短く、そして優しかった。
「おかえりなさい、遼くん。もう、どこにも行かないで」
遼は、静かに頷いた。「ああ。もう、二度と裏切らない」
最後に、友里が近づいてきた。
「おかえりなさい、遼さん。あなたは、私に正義の戦い方を教えてくれました。私は、この町に残って、町長の不正を許さない監視役としての仕事を続けます」
「ありがとう、桐谷君」遼は、友里の手を握り、感謝を伝えた。「君がいなければ、この勝利はなかった」
四人は、駅前で、新しい未来を前に、互いの存在を確認し合った。
「さあ、帰るぞ、潮音館へ」大和が笑った。
遼は、車に乗り込む前に、最後に駅の階段を振り返った。そこには、彼が成功者として東京に向かったときの、傲慢な自信に満ちた自分の影が残っていた。しかし、今の彼には、その成功は不要だった。
彼のスーツケースは空っぽになったが、彼の心は、絆と愛で満たされていた。
遼は、故郷の海が見える道を進みながら、大和に尋ねた。
「大和。次の町長選までの間、町政の混乱を収めるための、経済的な立て直しが急務だ。お前は、町民の信頼を得て、リーダーシップを発揮しなければならない」
「わかっている。だが、俺は所詮田舎ものだ。数字や行政の知識は、お前には敵わない」
遼は、大和の目をまっすぐに見つめた。
「俺がいるだろう。俺は、もうエリートビジネスマンではないが、町を愛する一住民として、お前たちの参謀になる。東京で学んだすべてを、この白波町の、新しい未来のために使う。金や地位のためではない、人々の笑顔のために」
大和は、その言葉を聞き、力強くハンドルを握りしめた。
「わかった。遼。もう一度、白波に誓おう。この町を、そして、俺たちの未来を、俺たちの手で築き上げる!」
遼は、車窓から見える青い海に、静かに微笑んだ。彼の人生をかけた本当の旅は、今、故郷の海辺で、親友と共に、ようやく始まったのだ。
白波に誓う 遊 @CITRON371580
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます