第17話 友の想い、故郷の想い

 第一回口頭弁論から数日。

 会社側の弁護団は、遼の告発を「私怨による狂言」と断じる主張をメディアに流し、世論を分断しようと躍起になっていた。遼は、沢村弁護士と共に、この情報の波の中で反撃の準備を進めていた。


 夜。遼のマンスリーマンションに、白波町から暗号化されたデータが届いた。送り主は、もちろん桐谷友里だ。


 すぐに暗号を解除し、遼は沢村と二人でデータを開いた。それは、佐々木町長が失脚する直前の、町長個人の金融取引記録の一部だった。


「これだ…」遼は息を呑んだ。「沢村さん、これを見てください」


 データには、橘から裏金が流れた直後の日付で、町長名義の口座から高額な出金が記録されていた。その出金は、町の役所の会計処理では「備品購入費」とされていたが、友里の調査によって、それがまったくの虚偽であることが判明していた。


 さらに掘り下げた友里のメモには、出金された金額が、佐々木町長が数年前に抱えていた私的な借金の最終返済額とほぼ一致することが記されていた。また、別の高額出金は、趣味である高額なクルーザーの購入費に充てられていた。


「すごいな、桐谷さん…」沢村は唸った。


「裏金が町の未来ではなく、個人の懐に流れた決定的な証拠です。これがあれば、橘の『開発を円滑に進めるための合理的な費用だった』という主張は完全に崩壊する」


 遼の顔に、明確な勝利の確信が浮かんだ。これまでは、裏金が流れたという事実は証明できても、それが佐々木町長の私腹を肥やすために使われたという動機までは証明できていなかった。

 友里のこの証拠は、まさにその欠けていたピースだった。


「これで証明できます。私の告発は、個人的な復讐なんかじゃない。地方政治と大企業の癒着という、公益に関わる犯罪を暴くためのものだったと」


 遼は、改めて友里の冷静さと献身に感謝した。彼女は、白波町という危険な場所にとどまり、町長派の目をかいくぐりながら、この決定的な証拠を命懸けで集めてくれたのだ。


「高瀬さん、この証拠は、法廷での我々のゲームチェンジャーになります」沢村は興奮を抑えながら言った。「次回弁論で、これを提出しましょう。一気に裁判の流れを変え、世論を味方につけることができます」


「しかし、橘側も必死に抵抗するでしょう。この証拠が出れば、彼はもう後がない」遼は冷静だった。「橘の最終的な目的は、この不正が法廷で確定することを阻止することです」


 遼は、友里の「決定打」を手に、次なる法廷での攻防を予期した。東京の法廷で、故郷の友が送ってくれた真実の光が、巨大な権力の闇を打ち破ろうとしていた。



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 桐谷友里からの決定的な証拠を手に入れ、次なる法廷戦略に確信を抱いた遼だったが、彼の生活は極度に困窮していた。マンスリーマンションの滞在費、沢村弁護士への着手金、そして何より橘からの数億円の賠償請求という精神的重圧が、彼の孤独な日々を覆い尽くしていた。


 そんなある日の午後、沢村弁護士から一本の電話が入った。


「高瀬さん。あなた宛に、白波町から奇妙な郵便物が届いています。開封して、少々驚きました」


 遼は、沢村の事務所へ向かった。彼が差し出した封筒には、白波町の観光協会でも、漁協でもない、「白波町未来を誓う会」という見慣れない団体名が記されていた。


 中には、分厚い束の支援状と、簡素な振込票が入っていた。


 支援状は、町民の連名で書かれていた。その先頭には、岬大和、波瑠香、そして漁師の三浦重蔵の名があった。



高瀬遼殿


東京での孤独な戦い、頭が下がる思いです。あなたは我々のためにすべてを犠牲にした。我々は、その犠牲を無駄にはしない。

この裁判は、もはやあなたの個人的な裁判ではない。白波町が、金と不正の力に勝てるかどうかを試す、町全体の戦いだ。

我々は、あなたに何も返すことはできないが、せめて、戦うための武器を。

これは、町民一人ひとりが、微々たる額ではあるが、あなたの弁護費用として出し合った心の証しだ。額は小さいかもしれないが、私たちの魂の重さだと思って受け取ってほしい。

あなたは、私たちの誇りだ。必ず勝って、胸を張って帰ってきてくれ。



 遼は、震える手で支援状を読み進めた。そこには、漁師、商店主、旅館の女将、そして彼が一度は裏切ろうとした町民たちの、百名を超える署名が並んでいた。


 添付されていた振込票には、弁護士費用としては心許ない額だったが、「白波町未来を誓う会」名義で入金が確認されていた。これは、彼らの生活を削って集められた、故郷からの血の通った支援だった。


 遼は、感情が溢れ出し、声を詰まらせた。東京の冷たい合理主義の中で、彼の心が渇ききっていた中、故郷からのこの温かい支援は、何億という賠償請求よりも重い、精神的な支柱となった。


「高瀬さん…」沢村は静かに言った。「これは、法廷での最大の武器になります。経済的な支援もそうですが、『公益通報者』としての正当性を、これほど明確に証明する証拠はありません。あなたが故郷から、これほど深く信頼されているという事実を、裁判所は無視できません」


「ああ…」遼は涙を拭い、強く拳を握りしめた。「俺は、もう一人じゃない。この金を、そして、この町民たちの信頼を、決して無駄にはしない。俺の背後には、白波町のすべての人間がついている」


 遼は、故郷からの支援という精神的な力を得て、橘との孤独な法廷闘争に挑む、揺るぎない覚悟を新たにした。彼の戦いは、もはや個人の名誉回復ではなく、故郷との絆を守るための聖戦となったのだ。



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 白波町からの温かい支援を受けた数日後、法廷での攻防はさらに激しさを増した。橘側の弁護団は、遼の告発が「公益通報」ではなく「私的な復讐」であると主張するため、徹底的な人格攻撃を開始した。


 会社の弁護団は、次回の口頭弁論で、遼が過去に白波町の開発計画に際して犯した「些細な報告の遅延」や「橘との意見の衝突」を誇張した資料を提出した。


「被告、高瀬遼は、以前から上司である橘事業部長に対し、強い不満と敵意を抱いておりました。彼の行動は、故郷への愛などという美辞麗句ではなく、自身のキャリア失敗を橘に押し付けようとする私怨、これに尽きます!」


 法廷では、遼が会社のエリートだった頃の、人間的な弱さや小さなミスが、あたかも重大な犯罪行為であったかのように歪められていった。彼が白波町で犯した「調整案」の失敗も、「計画を頓挫させようとした意図的な妨害行為」として再解釈された。


「会社が求めるのは、彼の裏切り行為に対する正当な賠償です。町民からの支援などというものは、彼が故郷の人々を欺き、感情的に利用している証拠に他なりません!」


 傍聴席に座っていた遼は、その言葉に激しい怒りを覚えた。故郷からの温かい支援を、「感情的な利用」だと一蹴されたことに、彼は最大の侮辱を感じた。


 休憩時間。遼は、法廷の廊下で橘とすれ違った。橘は、冷たい目で遼を見下ろした。


「見苦しいね、高瀬君。故郷の貧しい漁師たちの金を恵んでもらって、裁判に勝つつもりか? 君の『成功者の仮面』は、もう完全に剥がれた。君に残っているのは、私怨に駆られた敗者という汚名だけだ」


「橘さん」遼は、低く、しかし感情のこもった声で言い返した。「あなたは、俺の経歴を汚せるかもしれない。だが、あなたが町の未来を売ったという真実は、もう消せない。その不正の証拠が、必ずあなたを法廷に引きずり出す」


「その証拠が捏造であることは、すぐに証明される」橘は鼻で笑った。「君が、私を道連れにしようとしていることなど、誰でも見抜けるさ」


 橘との対話は、遼の精神を深く削った。彼は、東京の冷たい合理性と権力が、いかに事実を歪め、正義を闇に葬る力を持っているかを、肌で感じていた。


 沢村弁護士は、遼の肩を叩いた。「高瀬さん、彼らはあなたを怒らせ、冷静さを失わせようとしています。彼らの目的は、あなたが感情的に暴走し、証言の信憑性を失うことです。今は耐えましょう。

 次回の弁論で、彼らの主張を打ち破る決定的な証拠を叩きつけます」


 遼は、故郷からの支援状を胸に強く握りしめた。橘の猛攻は、彼の精神を追い詰めたが、同時に、彼がこの戦いで決して間違っていないという確信を強めた。


 彼の背後には、故郷の絆という揺るぎない力が存在していた。



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 会社側の執拗な人格攻撃と私怨の主張が続いた後、いよいよ遼の反撃の機会が訪れた。

 第二回口頭弁論。法廷は、傍聴席に詰めかけた報道関係者の熱気で満ちていた。


 遼の弁護士、沢村和人が立ち上がった。彼の態度は冷静沈着で、会社側の弁護士たちとは対照的だった。


「原告側は、被告高瀬の行為を『私怨による会社の機密漏洩』と断じましたが、それは不正な行為を隠蔽するための欺瞞に過ぎません。これから我々が提出する証拠は、被告の行動が、公益通報者保護法に基づく、正当な告発であったことを証明します」


 沢村は、弁護団書記に促し、次々と証拠を提出させた。


 まず提出されたのは、遼が持ち出した橘と佐々木町長の裏金授受を示す中間会計報告のコピーだった。裏金が「環境リスク補填費」から削られ、「コンサルティング料」として流れたという動かぬ事実が、法廷に提示された。


 この証拠に対し、橘側の弁護士はすぐさま反論した。


「その『コンサルティング料』は、地域の合意形成を円滑に進めるための合理的な経費であり、被告の言うような『裏金』ではありません。被告は、事実を都合よく歪めています!」


 沢村は、この反論を待っていた。彼は間髪入れず、桐谷友里が入手した決定的な証拠を提示した。


「では、次に提出するこの証拠をご覧ください。これは、佐々木町長の個人口座の取引記録です」


 法廷は、静まり返った。


「裏金が流れた直後、町長の個人口座から、同額に近い金額が、彼の私的な借金返済と高額なクルーザーの購入費用に充てられています。これは、コンサルティング料でも、地域の合意形成費用でもありません。

 橘氏が、佐々木町長の私腹を肥やすために裏金を渡し、町を売買していたという、動かぬ証拠です!」


 この告発は、法廷を騒然とさせた。

 傍聴席の報道関係者は一斉にペンを走らせ、シャッター音が響き渡った。裁判の焦点は、完全に「遼の機密漏洩」から「橘と町長の不正」へと移ったのだ。


 原告席の橘浩一は、顔から血の気が引いていた。彼は、裏金が町長の私的な利益に流れたことまで証拠として掴まれているとは、夢にも思っていなかったのだろう。彼にとって、最も隠したかった汚職の動機が、今、白日の下に晒されたのだ。


「裁判長!」橘側の弁護士が、血相を変えて立ち上がった。「その証拠は、被告側による不当なプライバシー侵害であり、証拠能力に問題があります!」


 沢村は、冷静に反論した。「この証拠は、公益通報の正当性を証明するために、公益性をもって入手された情報です。企業の不正と政治家の汚職は、最大限に公開されるべき事実です」


 裁判長は、証拠の採用を認め、橘側の弁護士に反論を求めた。


 橘は、自らの不正が法廷で暴かれたことに耐えきれず、顔を真っ赤にして、まるで炎上したかのように立ち上がった。


「高瀬!貴様は、私を、会社を、すべてを裏切った。貴様のような裏切り者に、正義を語る資格はない!」


 遼は、席から立ち上がることなく、橘の目を見据えた。彼の顔には、怒りや憎しみではなく、勝者の静かな確信が浮かんでいた。


「裏切ったのは、町の未来を売った、あなたです」


 この一連のやり取りは、傍聴席とメディアに、この裁判の本質を明確に印象づけた。

 遼は、もはや告発された「裏切り者」ではなく、不正に立ち向かう公益の通報者へと、その立場を逆転させたのだった。



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 裏金疑惑の証拠が公開され、法廷が騒然となった直後、裁判長は原告側に対し、不正に関する詳細な説明と、橘浩一の証人尋問を求めた。


 橘は、沈痛な面持ちで証言台に立った。彼の表情は、もはや東京のエリートビジネスマンのそれではなく、追い詰められた被告人のものだった。傍聴席の視線、特に報道関係者のカメラのレンズが、彼の全身に突き刺さる。


 沢村弁護士は、切り札である裏金疑惑の会計報告と、佐々木町長の私的借金返済の証拠を橘の前に提示した。


「橘氏。この中間会計報告に記載されている『コンサルティング料』が、佐々木町長への裏金であったことは間違いないですね?

 そして、その裏金が、町長の私的な利益のために使用されたことも認識していましたか?」


 橘は、口を固く結んだまま、微動だにしなかった。その沈黙は、法廷全体に重くのしかかった。


 沢村は、さらに詰問した。「町民の生活を守るための環境リスク補填費を削ってまで、裏金を支出した理由を説明してください。これは、あなたの個人的な指示ですね?」


 橘は、大きく息を吸い込んだ。そして、静かに、しかし明確な声で告げた。


「私は、証言を拒否させていただきます」


 橘は、自己の犯罪行為に対する刑事責任、そして会社からのさらなる懲罰を恐れ、憲法上の権利である証言拒否権を行使したのだ。


 会社側の弁護士は、慌てて立ち上がった。「橘氏は、現在、会社からの謹慎処分を受けており、精神的にも疲弊しています。証言は、次回以降とさせていただきます!」


 裁判長は、橘の証言拒否を認めざるを得なかった。しかし、この拒否は、決定的な意味を持った。


 橘が潔白であるならば、彼は証言台で不正を否定し、遼の告発を「狂言」として断罪できたはずだ。

 だが、彼は沈黙を選んだ。その沈黙は、法廷にいるすべての人、特に傍聴席の報道関係者に対し、裏金疑惑が真実であることを、何よりも雄弁に物語っていた。


 遼は、橘のその姿を見て、勝利を確信した。橘は、会社の名誉を守るために、自身を犠命にするという、最も非合理的な決断を下したのだ。


 休憩に入った直後、沢村弁護士は遼の肩を叩いた。


「高瀬さん、これで決まりです。橘氏の証言拒否は、我々にとって最強の武器です。彼は法廷での敗北を恐れ、不正を自ら認めたも同然です。このニュースは、間違いなく世論を動かします」


 廊下に出た遼を、報道関係者が囲んだ。


「高瀬さん、橘氏が証言拒否したことについて、どうお考えですか?」


「橘氏の沈黙が、すべてを物語っています。彼の目的は、私の訴追ではなく、不正の隠蔽でした。私は、公益のために行動したことを、この法廷で証明し続けます」


 遼は、毅然とした態度で答え、報道陣を後にした。


 橘の敗北は決定した。

 彼の証言拒否は、遼の行動が「私怨」ではなく「正義」であったという、揺るぎない証拠となったのだ。残るは、会社側がこの圧倒的な流れの中で、いかに幕引きを図るか、という点のみとなった。

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